第25話 沈め、底なしの沼へ
いつもの俺だったら、自分のスマホの画面を、それも俺の登録チャンネル一覧をクラスメイトに大公開するなんて死んでもごめんだった。まあそれは俺に限らず誰だってそうだろう。
しかし、今の俺は完全に頭に血が昇っている。ハイになったこのテンションに任せれば、何だってできる。冷めた後のことなんか知ったことか。その時の俺がなんとかすれば良い。
躊躇なく、俺はケーブルで自分のスマホとモニターを繋いだ。四十数インチのモニター画面に、俺のスマホ画面がパッと複製される。そこに映し出されるのは、ちょっとというレベルではなくASMRに魂を入れ込んでいることが一目で分かる映像のはずだ。
俺は羽咋に人差し指を突き付けた。
「どうだ俺の登録チャンネルは! 見たか! この溢れ出るASMRへの愛を! 言っておくけどな! 遠野なんてまだまだだからな? ……ああそうだよ、ここ最近俺と遠野が喋ってたのは、ASMRについてだよ! あいつも中々やるほうだけど、俺に比べりゃひよっ子も同然よ!」
ちょっ……! と遠野が焦ったような声を出すが、まあちょっと見ててくれ。俺なりのシナリオがあるのよ。
とはいえ上手くいかなかったらホンマにごめん、と思っていたが、狙い通りに「浅村君ってさ……なんかヤバくね?」「じゃあ何? 遠野は浅村に唆されてたってだけ?」との声が教室内に広がっていくのを耳で捉え、俺は内心で胸を撫で下ろした。遠野藍音がASMRを聴いているという事実よりも、クラスの隅にいた浅村好太という陰キャが想像以上にヤバイ奴だったという、より衝撃のニュースで上書きするという魂胆だ。遠野のイメージを下げるくらいなら、俺がもっとキモがられたほうが何百倍もマシだ。
…………俺がキモがられるだけならばなァ!
俺はずびしっと射貫くように羽咋を指さした。
「それ! それだよ! そ! れ!!」
あ? な、なんだよと言うが、俺の耳は聞き逃さなかったぞ。あの野郎、この期に及んで「いや……、そもそもASMRとか聴いてるのがきめえだろ」とかなんとか抜かしやがったのだ。
「それをやめろって言ってんだよ! 人の好きなもんに外野がしょうもねえ茶々入れてきやがってよ。お前ASMR馬鹿にすんなよ! どれだけの技術と、こだわりと、金が! この動画に込められてると思ってんだ! 何も知らねえ癖に上っ面だけ舐めて判断しやがって! 溶かすぞ!!」
と、溶かす……? と周囲からぽつぽつと声が上がる。言葉通りの意味だよ。日本語わかんねえのか。
俺はポケットから愛用のイヤホンを素早く取り出すと、この事態に戸惑っている羽咋の両耳にガポッとはめ込んだ。
「ちょっ、おい! 何だよ!」
「動くな! 理解らせてやろうってんだよ静かにしてろ!」
だから……と羽咋が口を開く前に、俺は素早くスマホを操作して動画を再生した。
「お、ぉおほッ……!?」
瞬間、羽咋の顔は恍惚に歪み、膝はビクビクと震え始める。
突然の羽咋の様子に、周りの連中は「えっ? えっ?」と戸惑っている。
やっぱりそう、俺の思った通りじゃねえか。こいつ、耳が敏感だ! ASMRリスナーとしての素養がある! 育て甲斐があるぜ!
いつぞやのことだ。羽咋にイヤホンを取られ、当時その時俺が味わっていた『腐れ縁の幼馴染に弱みを握られて好き放題に耳を弄られた件』を羽咋に聴かれてしまった時のことだ。
あの時はヤバいと思い、すぐに再生を停止したので一瞬のことだったが、俺は確かに見たのだ。イヤホンを着けた瞬間、悦びの声と表情が羽咋から漏れ出したのを。
言うても、『腐れ縁の幼馴染み』はそのシチュエーションが肝の作品であり、耳かきASMRとしての評価は良作程度に留まる。しかし今羽咋の耳に流し込んでいるのは瑞希さんの『スライムドロドロ耳かきで脳からすっきりリフレッシュ……♡』で、これは音作りにそのものに拘ったガチの耳掻き音声だ。『腐れ縁の幼馴染み』の耳掻きで悦んでいた羽咋に、この刺激が耐えられるはずもない。
「あ……あぇ…………オ゛ッ……ホッ!」
羽咋は完全にトリップしている。その様は紛れもなく、誇り高きASMRリスナーの一人だ。それを見て、俺はうんうんと満足気に頷く。ウェルカム、トゥ、ザ、アンダーグラウンド。歓迎するよ羽咋。これからよろしくな。
ガクガクと体を震わせ、ただ快楽に身を委ねた人間の声を発する羽咋のことをクラスの連中は遠巻きに見ていたが、やがてぷっ、クスクスっ、と笑い声が漏れ聞こえてきた。そして、その中には明確に嘲りのニュアンスが含まれているのを俺は敏感に感じとった。
俺の頭は再び怒髪天の勢いで燃え上がり、今度は誰とも知らんクラスメイト達に食ってかかった。
「おい今笑ったの誰だ! 出てこい溶かしてやっから! 羽咋の何がおかしいってんだ! こんなにも夢中になれるなんて最高じゃねえか!」
ここ最近の俺は、なんだか頭に血が昇ることが多いなと思っていた。自分という人間は、こんなに怒りやすかったのかと驚き、そして少し恥じた。
けれど、ようやくはっきりと分かった。自分がどういうことに対して怒りを感じるのか。
俺は許せないのだ。人の好きを裏でこそこそニヤニヤ笑うような連中が。自分自信が夢中になれるものが無いくせに、その寂しさや空虚さを他者への嘲りに転換するような奴らが。全てを投げうってでも捧げたいと思えるような物に出会えていないのは可哀想なことだ。けれど、だからと言って他人の足を引っ張るような愚かな真似は決して感化できないのだ。
羽咋は恥辱に顔を赤くして俯いている。恥じるな、お前は素晴らしい。
俺は羽咋の肩をグッと抱く。
「お前凄えよ最高だ! 俺だってここまでのトリップは中々できねえ! 才能だ! 羨ましい! お前の脳と耳は、ASMRを聴くために作られてるんだ!」
「は、離せ……! お前、マジふざけんなよ……!」
羽咋が激しく身をよじる。これ以上は押さえつけていられなさそうだと、俺は掴んでいた肩を離した。
瞬間、目の前が真っ白に輝く、鼻頭に熱い衝撃が広がった。
あっ……! という声。徐々に視界に色が戻ると、状況が飲み込めてきた。羽咋が振り回した肘が、俺の顔面にクリーンヒットしたのだ。
鼻が詰まり、目には涙が滲む。痛みはないが、きっとこれからやって来るのだろう。それかハイになって分からなくなっているのかも。
やべっ、と言う表情を浮かべた羽咋に、こんなことは気にするなと両手を広げて見せた。
「大丈夫だ羽咋! 俺はお前を肯定する! お前の好きを尊重するぞ! たとえ、この連中が何を言ってもな!!」
今度は、外野から遠巻きに俺達を見ているだけのクラスメイトを手で手で指し示した。どいつもこいつも呆けた様な面だ。分からないなら、一生外から大人しく見てろ。
フハハハと、人生で一度も発したことのない高笑いが、自分の意志とは無関係に腹の底から湧き出てきた。
と同時に、鼻先から顎へと、生暖かい温度が流れていくのを感じたような気がした。
「ちょっ、浅村! はな! 鼻!」
「浅村氏! 大丈夫ですか?」
遠野と堂前が焦ったような顔色で駆け寄ってくる。どうかしたのか? と鼻先をかくと、予想外にぬるりとした感触で指が滑った。いつのまにこんなに鼻のアブラが……まあ俺の第二次成長期も終盤に差し掛かっているし、これも歳を取るということなのか……と思い視線を落とすと、明らかに肌色ではない赤に染まった自分の指が目に入った。
「あっ」
鼻血……と言いかけるか言いかけないかのタイミングで、ティッシュを細くよじったものを遠野が俺の鼻にズボッと突っ込んだ。
教室のド真ん中でキレ散らかしながら自分の登録チャンネルまで特別大公開し、挙句の果てに流血騒ぎまで起こした俺が平静を取り戻したのは、遠野に連れられ運び込まれた保険室の中だった。
養護教諭は俺の鼻を少し調べ折れていないことを確認すると、しばし椅子に座って、血が止まるまでガーゼで押さえているよう命じた。時間経過につれて徐々に出血量が収まるのと同時に、元ある場所に還っていったのかそれとも鼻から流れ出てしまったのかは分からないが、俺の頭に昇っていた血の気も引いていくのを感じた。と同時に、俺は熱く激しく後悔することになる。
俺、なんであんなことしてしまったんだ……?
ASMRのことを馬鹿にされたこと。そして何より遠野のことを馬鹿にされたことで完全に頭のネジが飛んでしまった。別に言った内容に嘘偽りはなく、心からの叫びではあったんだけど……。
「次、どんな顔して教室に行けばいいんだよ……」
「いつも通りでいいんじゃない?」
独り言のつもりで吐いた言葉に思いがけずレスポンスを受けて、俺はぎょっとして声の方向を振り向いた。瞬間、鼻からポンッとガーゼが飛び出した。射出されたガーゼを見て、腹を抱えて笑っているのは遠野だ。「お、脅かすなよ」と文句を垂れながら、体温が上がる顔を隠すようにして落ちたガーゼを拾い上げた。赤く染まってはいたが、黒っぽくなって固まっている。どうやら無事に止まったようだ。
「鼻、大丈夫?」
「ん? ああ、血も止まったし骨にも異常なしだ。ところで遠野は何しにここへ?」
「なんだその言い方。せっかく心配して様子を見に来てあげたっていうのに」
遠野は分かりやすくふくれっ面をしてみせる。
「まあなに、その……ありがとね。さっきは」
え? と返すと「助けてくれたでしょ」と遠野が続けた。なんだそんなことか。
「いや、お礼を言われるようなことはしてないから、いい。正直に言うと、別に遠野を助けようと思ったわけじゃないし。ただ、俺がムカついたから、そのムカつきのまんま喋っちゃっただけ」
「ああ、大っ好きなんだっけ? ASMRのことが」
まあな、今更聞くまでもないだろ? と平静を装って返したが、内心恥辱にまみれていた。俺、だいぶ恥ずかしいこと言ってない? シラフだったんだけどなーおかしいな。
いやでもまあ……その、なに。俺にとって大事なものを、同時に二つも馬鹿にされたとなれば、我を忘れて怒り狂うのも当然といえば当然……か?
自分を納得させようと頭の中で考えをぐるぐる回していると、遠野は不思議となんだか満足気な笑みを浮かべた。「なんだよ?」と聞くと「別にー?」と返ってきた。そういう回答が一番気になるんだぞ。




