第24話 バカにしやがって
コトコトコトリと軽やかな音を立てるイヤホンを耳から外すと、遠野が「おはよっ」と声をかけてきた。それに片手を上げて返す。
今日の登校用ASMRは良い音チャンネルさんの「最高級メカニカルキーボードで粛々とタイピングゲームをやる」で、タイトルの通りキーボードのタイプ音のみにフォーカスした、余計な声の入っていないオールドスタイルなASMRだ。考えたいことがある時、俺はこういう昔ながらのASMRを聴く。
学校までの道すがら、ずっと昨日の出来事を考えていた。
間違いなく音の主はあの教室を目的地としていた。そしてそれは必然的に、俺と遠野の密会現場を狙ってやって来たものと推察される。遠野はあまり気にしていない様子だったが、俺にとっては大きな懸念だった。そもそもが、俺と遠野が話すことに対して良い印象を持っていない連中ばかりなのだ。そんな中で、昨日の場面を見られたにも関わらず、黙っているというのは何事だろう。一抹の不安が消えない。
俺の席にやってきた遠野に対し、嫌な温度感の視線を向けるのは羽咋だ。その羽咋の口元が、ニヤリと片側だけ持ち上がったのを俺は見た気がした。胸の中のざわめきが、より大きくなるのを感じた気がした。
それが現実の物となったことを確信したのは、昼休み突入と同時に羽咋が教室前方へ踊るように出てきたからのことだった。
遠野ーと呼ぶ声には、自身の勝利を確信したかのような響きが混じっている。嫌な予感が止まらない。
「遠野遠野ー。いやー聞きたいことがあんだけどさ」
「……? いいけど、なに?」
「ASMRって、何?」
教室中に広がるざわめきの中で、遠野がハッと息を呑む音を俺の耳は間違いなく捉えた。と同時に、昨日聞いた物音の主が誰だったのかを悟った。
固まったままの遠野に、畳みかけるように羽咋は言う。
「いや俺聞いちゃったんだよね、昨日。たまたま。なんか、浅村君と楽しそうに話してたじゃん? あれ、何なのかな~って」
羽咋の顔中に広がるニヤニヤ笑いが腹立たしい。なんだ。なんなんだコイツは。松山の話だと、こいつは遠野のことを好いてるんじゃなかったのか? だったらなんでこんな真似をするんだ。俺には全く分からない。
教室中にざわめきが伝播していくのが分かった。「ASMRって何?」「あれだろ、耳かきとか」「ああ、この前浅村君が聴いてたってやつ?」「遠野も聞いてんだ、意外~」と皆思い思いの感想を好き勝手に述べている。
「ま、まあね。頭が疲れた時とか、リフレッシュしたい時によく聞いてるよ。気持ちいいし」
遠野はなんとか回答したが、それを受けた羽咋の顔中に、仕掛けた罠にかかった獲物を見下ろすような、勝ち誇ったようなニヤニヤ笑いが広がっていった。なんだ。なんなんだコイツは。松山の話だと、こいつは遠野のことを好いてるんじゃなかったのか? だったらなんでこんな真似をするんだ。意味不明だ。
「へぇ~。いや、俺もあんま知らなかったんだけどさ。気になって調べたら……なに? 耳舐め? とかもあるんだって? なにお前、そういうのも聞いてるの?」
答え合わせをするのであれば、遠野は耳舐めASMRを聴いている。なんならこと耳舐めジャンルに限って言えば、俺よりも聴きこんでいる。文句なしにヘビーリスナーと呼んで良いはずだ。しかし、その情報については羽咋は知り得ないはずだ。昨日文学部室で、耳舐めというワードは出てこなかった。これは間違いない。
なるほどこれはつまり、この場において、遠野が実際に耳舐めASMRを聴いているかどうかは羽咋にとって大した意味を持たないのだ。ただ単に、ASMRというジャンルの中には、耳舐めというセンシティブな分野が存在するのだということを声高に叫ぶだけで良い。それだけでASMR、果てはその視聴者に対するヘイトスピーチには十分だ。
羽咋の狙い通りか、ざわめきの声に「耳舐めって……本当?」「いや実際に舐めるわけじゃないでしょ?」「舐めてるふりってこと? ……いやそれ、キモくね?」と嘲笑するような空気が混ざり始める。
その渦中に、遠野藍音は顔を赤くして立ち尽くしている。固く握られた拳と噛み締めた唇が震えているのが分かった。
羽咋は取り巻きの連中に向けて「耳舐め、気になるくね? 聴いてみるべ!」とかなんとか言って、教室のモニターを移動させはじめた。スマホか何かを繋いで、この場で耳舐めASMR動画を流す気に違いない。
その様子を見て、俺の頭にぐんぐんと血が昇っていくのが分かった。どうも俺はこういう状況において、冷静でいられない人間のようだ。それを改めなければと思ったこともあったが……。
間違いない。今は黙っている場合ではない。
ちょっと……と口を挟みかけた堂前を制し、俺はガタガタッと音を立てて勢い良く椅子から立ち上がった。中々に景気の良い音がしたので、遠野も羽咋もクラスの連中も、皆が俺に視線を向けた。
立ち上がった俺を見た羽咋の顔に、あからさまに面白くなさそうな表情が広がっていく。
「浅村君、なに? 今特に用ないんだけど?」
お前にはなくても、俺にはあるんだよ。
「ASMRとはァ!!」
自分にできる限界まで喉をかっ開き、野太く仕上げた声を腹筋の力で口腔から体外へかっ飛ばした。長方形の教室内にピリリと響くのが分かった。
「autonomous sensory meridian responseの略称で! 音の刺激を受けることによって、脳がゾワゾワするとか、気持ち良いとか、そういった感覚のことを指し! 日本語では自立感覚絶頂反応と言います!!」
クラス内でも目立たない男が、突然立ち上がりブチ切れんばかりの勢いて突如ASMRの概念的な説明をし出したもんだから、皆ぽかんと呆けたような顔をしていた。遠野ですらそうだった。
一番最初に我に返ったのはどうやら羽咋だったようで、ヤツを覚醒させたのはひとえに「怒り」の感情によるものだったのだろう。
「は? 急に何叫んじゃってるの? 浅村くん、相変わらずウケんねマジで。分かったから、座っていいよ」
「お前がASMRのこと知りたそうにしてたから、教えてやったんだろうが」
あっそ、ありがとね~と俺の顔も見ずに言いながらモニターの準備を進める。俺はつかつかと教室前方に歩み出ると、準備する羽咋の手を掴んで止めた。
「あ? なんだよ?」
「お前、それを今からどうするつもりだ?」
「いや、割り込んできた癖に聞いてねーのかよ! 今からここで耳舐めASMRってやつを聞いてみんだよ」
「ざっっけんなよお前!!」
腹の底から湧き出た怒りが一気に放出した。この野郎、どこまでも舐め腐りやがって……! 頭にきた。もう許せねえ。
「お前……こんなモニターでASMRを聴くつもりかよ!?」
えぇ……そっち……? と周囲から何やら声が漏れ聞こえた気がするが、何を言いたいやら俺にはさっぱりだ。
「お前、こんな中華製の、やっすいモニターに付いてる、しょぼいスピーカーでASMRを聴こうってのか? 舐めてんじゃねえぞ! そんなんで味わえるわけねえだろうが!」
怒鳴りつけるように叫ぶと、羽咋がイライラした顔で俺の胸を強めにドンと押した。
「いや知らねーし。つーかさ、浅村君、マジ、何? 何なの? お前には関係ねーだろ? 引っ込んでろよつまんねーから」
「いーや引っ込まないね」
やばいな。今の俺、なんかもう頭のネジが飛んじまってるかもしれない。脳味噌を介さず、脊髄からノータイムで言葉が出てくる感じだ。止められないし、それを止める気も、ない。
明らかにキマった様子の俺を不気味に思ったか、羽咋は口元をヒクッと引きつらせた。
「だからなんでかって聞いて……」
「大好きだからだよ!」
羽咋の言葉に被せるように、半ばヤケクソで俺は叫んだ。クラスの連中はもちろん、俺をバカにしていた羽咋までもが、呆気に取られたような顔を浮かべている。
「ASMRが! 俺は! 大ッ好きなんだよ!!」
勢い付けに床を踏み鳴らし、俺は腹の底から吠えた。「えぇ……?」と誰かの声が聞こえた気がした。さっきからなんだようるせえな。
俺はずいっと羽咋との距離を詰めると、羽咋が持っていたモニターとの接続用ケーブルを「貸せ!」と一喝してむしり取る。「おい!」と言われたが、
「俺の登録チャンネル見せてやっから、正座して目ん玉かっ開いて黙って見とけや!!」
勢いで被せて黙らせた。その程度で引き下がるようなら最初から突っかかってくんな。黙って見てろクソボケが。




