第22話 胸の虚空が重たい
夏の空気が少し遠くに見え始めた今日この頃、体育祭の準備は着々と進行している。学校全体が、一大イベントを目前にしてソワソワと浮き足立つような空気感に包まれていた。
通常時間割の中にも体育祭準備のための時間が設けられ始め、競技練習のほか、一般生徒含めての応援練習がスタートしている。皆の中心となり、声を上げて踊るメンバーの中には一際笑顔が輝く遠野がいた。
そんな遠野の姿を見ていると、何故だか胸がずんと重くなる。あいつが音野らぶちの正体だったなんて、俺はいまだに信じられないよ。
俺も俺で看板の制作が佳境に入っており、それなりに忙しい放課後を過ごしていた。細かい仕上げは藤木先輩と堂前が行っており、主に俺は広ーい部分の色塗りだったり、物運んだり建てたりと、労力使えば誰でもできます……的な仕事を主に受けている。というかそれくらいしか俺にできることはない。
俺らしからぬ活動的な日々を過ごしており、それはそれでまあ充実はしているのだが、肝心のASMRを聴く時間が減っているのが悩みどころだ。ちょっとした移動時間や休憩時間など、隙間を見つけてはサッとイヤホンを取り出して心のリフレッシュを行っている。
「お兄ちゃん凄いよ、ゆらんがなでなでしてあげるね。もっとも~っと頑張って、カッコいいお兄ちゃんを見せてね……。がーんばれ♡ がーんばれ♡」
ああ……やっぱり風波ゆらんちゃんはイイ……! 明日を生きる活力が湧いてくるよ……! 妹がいたら、こんな感じだったのかな。……いや、「いたら」ってどういうことだ。俺には世界一可愛い妹がいるじゃないか。ゆらんという妹がいるじゃないか。風波は芸名で、本名は浅村ゆらんだったじゃないか……!
………………うん。
ASMRを芯まで味わうためには、聴き手の技量も試されると俺は考えている。それはシチュエーションに心の底から浸ること。耳に飛び込んでくる音から、その情景やストーリーにまで想いを巡らせる力が大事だ。要は、冷笑系は鑑賞に向いてないってこと。
その考えに基づき、例え体は眠っていたとしても脳みそはノリノリで、作品に合わせるよう俺は心がけている。日々の鍛錬が功を奏して、今では無意識の内に「入れる」ようになった。
しかし、しかしだ。最近の俺は、正直に言ってしまえば、ノれない。ゆらんが俺の耳元でこんなにもいじらしく、一生懸命に俺を応援してくれているというのに。
頭の中だけはノれるよう必死に努めていたが、心は嘘がつけない。心に空いた空虚な穴。ぽっかりと何も無くなってしまったその空間が、逆説的に質量を持って、俺の心に重くのしかかっていた。それは、とてもではないが無視することのできない重さだった。
かつて、この空間には遠野藍音と音野らぶちがいた。今は二人とも、いない。俺が追い出したからだ。それがベストだと思ったからだ。だが今は、その選択に自信が持てないでいる。
今の俺には、ゆらんに応援してもらう資格すらない。
俺は突っ伏していた机から身を起こすと、音声の再生を停止し、イヤホンを耳から外した。昼休み終了前はまだ二十分強の時間がある。普段の俺から見れば、早すぎる覚醒と言っても良い。
教室の前方を見れば、遠野藍音が松山や羽咋など、応援団の面々と談笑混じりに何やら打ち合わせをしていた。自分から距離を取っておいて、一番最初に遠野の姿を目で追ってしまうなんて、本当に恥ずかしい限りだ。
一瞬、遠野がこちらを見た。昼休みもまだ途中だというのに、イヤホンを外して起き上がっている俺の姿を見て少し驚いたようにも見えた。かちあった視線に対し、何かアクションをするでもなく、俺はスッと視線を下げた。
か、感じ悪かったかな。別に、必要以上に遠野を避けたいわけではないが、ここで手を振ったりするのも何か違う気がして、ただ視線を避けるだけしか俺にはできなかった。
——本当に、これで良いのか?
ふと、頭の中で声が響いた。
——ただ逃げ続けるだけで、お前は本当にそれで良いのか?
でもよ、やっぱり配信者の中の人に、その正体を知っている俺があまり近づきすぎるのは良くないんじゃないか? お互い、変に気を遣っちゃうし、向こうの活動に支障を来すのも悪いし……。
——違うな。
響く声はきっぱりと言い切る。そして、恐らくだがこの声は俺自身と同じ声をしていた。
——お前が目を背けているのは、遠野からでもらぶちからでもない。「騙していたのか?」などという、お前自身が抱いた愚かな感情からだろう。
図星だった。
俺が見ないようにしていた事実は、俺自身の声によって暴かれた。俺のくせに、俺に逆らうなんて生意気だ。でも、まあ、そうだよなあ……。堂前のように、愛知のように、そして遠野のように。自分が愛するものに真っすぐ全力な人間の姿は美しく、眩しく、俺もかくありたいと憧れるものだ。
今の俺は、ASMRに対しひたむきだと胸を張って言えるのだろうか。遠野のため、らぶちのため、ひいてはASMR配信者のため、など言っていたが、単なる自己満足……いや己すら満足させられていない、ただの愚かな格好付けに過ぎないのでは? それならばいっそ……。
顔を上げると、遠野の顔面が目と鼻の先にあった。
「うおおぁッッ!??」
び、びっくりするなあもうホント! お前の顔は、陰キャがゼロ距離で直視できるものじゃないんだぞ! 心臓破裂しちゃうんだぞ!
爆音のように暴れ狂う心臓を胸の下で感じながら、俺は努めて平静に「な、なななに……?」と言った。うん、いつも通りの俺だ。
遠野はそんな俺の様子など気にも留めず、俺の網膜をぶち抜かんばかりの勢いで真っすぐ、射貫くような目を俺に向けて言い放った。
「なにか言いたいことがあんなら、言えよ」
ざわ……と周囲から声が聞こえたようだった。「け、喧嘩……?」「遠野と……え~と……。あ、そうそう、浅村が?」「何があったんだ?」「どうせ浅村ってやつが悪いんだろ? 陰キャだし」と心無い声も聞こえるが、そんなことはどうでもいい。どうやら俺の評判がそこそこ悪めであることが分かったが、どうでもいい。
突き刺さされる視線の圧を押し返すように、俺も言った。
「放課後、時間くれ」
遠野は俺を見て少しだけ目を見開くと、やがて口元をフッと緩めた。
「いいよ。じゃ、いつもの場所で」
どよ……と周囲から音が聞こえるようだった。「い、いつもの……?」「遠野と……、え〜、あ〜、浅村が?」「喧嘩じゃないのか?」「ひょっとして仲が良いのか?」「浅村が!??」色んな声に混じって、陰キャ達の驚愕の叫びが届く。方々から恨みを買いそうだ。
遠野はそれだけ言うと、身を翻してスタスタと教室前方へと戻っていく。少し戸惑った様子の松山と、雷に打たれたような顔の羽咋が、俺と遠野を交互に見比べていた。羽咋の俺を見る目線に明確な敵意が込められているのを感じたが、すまんが今はお前に構ってる場合じゃない。
羽咋は心なしかいつもよりギクシャクした笑みを浮かべて遠野を迎える。
「へ、へぇ~……? 遠野って、やっぱ結構浅村君と仲良い系なんだ? 意外だわ~」
「そんなに変? 浅村、結構話すと面白いよ」
「あ、そうなん? 全然知らんかったわ~。つーか、いつもの場所って、なんか怪しくね? どこで何やってんだよー!」
「え? あ~……」
遠野はしばし目を瞑って思案する様子を見せたが、やがて立てた人差し指をゆっくり口元へ当て、「それはヒミツってことで」と悪戯っぽく笑った。松山が「キャー!」と黄色い声を上げる。
「え? え? 何それ何それどういうこと? めっちゃ気になるんだけどそんなこと言われたら!」
「んー、と言っても話せるようなことじゃなくって……。いや別に変な意味じゃなくって、大したことないって意味で」
ほんとー? あやしー! と言ってケラケラ笑う松山。いつもの軽薄な笑みが凍り付いたような羽咋。二人の温度差が大きすぎて、あの空間にいたら風邪引きそうだ。そして、そんな様子を自席から見ている俺も、なんだか所在がなくなってきた。というのも、妬み嫉み怨念殺意……等々、およそ人間が抱き得るありとあらゆる負の感情が込められた視線を背中にビシビシ感じるからだ。
怖くて後ろを振り向けずにいる俺の肩に、何者かの手がスッと添えられた。ビクッとして恐る恐る見ると、見慣れた堂前の瓶底眼鏡が見えた。
「なんだ堂前か……」
「ははは、驚かせてしまいましたな。しかし浅村氏…………。うむ失敬、言葉がまとまっておりませんで。まあ、このようなことを私が言うのはおかしな事とは思いますが、しっかりと、ですぞ」
「お前、時折本当に鋭いよな……。俺、何も言ってないと思うんだけど」
「うむ、聞いておりませんし、仔細は全く存じ上げませんな。ただ、浅村氏が……なんというか、頑張ろうとしているように見えたので。友人として、激励をと」
この男、どこまでも出来た男だ。そんな堂前に「ありがとよ」と短く礼を言った。




