第20話 バカになって、全て忘れてしまいたい
「クスッ、どうしたの……? 何だか疲れてるみたいだけど……」
アッ、ハイッ……。実は、ちょっと悩みがあって……。
「大丈夫だよ。お姉さんに、ぜ~んぶ任せてね……。君は、なぁんにも、考えなくていいんだよ……」
ほ、ホントっ、ですかっ……? お、お願いします!
「じゃ、始めていくね……。まずは、君のお耳をスライムでドロドロにしちゃうね……。ほうら、ぬぷぬぷ、気持ちいいねえ……」
ハッ! ホッ! おぅぅ……! しゅ、しゅっごいです……!
「まぁだだめ、我慢して……。ほら、想像して……。お姉さんの指が、君の耳の穴の周りを撫でてるよ……感じる……?」
ウッ! ハァハァ! か、感じます感じます! 感じちゃいますぅぅ!
「あーあ、だらしな~い顔だぁ……。今のうちからそんなんで、これから先どうなっちゃうのかなあ……?」
わ、分からないです! 自分がどうなっちゃうのか……。俺……俺……怖いです……!
「ふふっ、か~わいい……。だぁいじょうぶ。君は、お姉さんの声を聴いて、お姉さんの指を感じて、それだけでいいんだよ……」
はっ、ハイ! わ、分かりました! 優しく……してください……。
「じゃあ、本番はこれからだよ……。ほら、お姉さんの指が、君の耳の中に……あぁ、入っちゃったね……。いくよ……。ぬぷ❤︎ぬぷ❤︎」
あっ、ハァゥ! おホォ!?
「うふふ、身体がびくんびくんって……可愛いんだぁ。ほぅら、じゅぷ❤︎じゅぷ❤︎ 気持ちいいねえ……」
ほっ! ほっ! おホォッ!! もうダメ! トんじゃう! トんじゃう! 大事なものがトんでイッちゃうのおおおお!
「ほぅら……! イけ……! イけ……! バカになっちゃえ……! くぽ❤︎く」
突然、ぷつりと音が消えた。完全に向こうの世界にイッてたはずの俺は急に何もない暗闇の世界に放り出される。……ん、暗闇?
イヤホンを外すと外は雨だった。部屋は真っ暗で、PCをはじめ電子機器の類が沈黙している。階下から聞こえる親の声を聴くに、どうやら雷でブレーカーが落ちたらしい。
チッ、……ったく空気の読めない雷だな、ここからが本番だったのによと、俺はどさりとベットに横たわり、暗闇のなかに呑まれそうな自室の天井を見上げる。
雨音が家を打つパラパラという音を大きく感じる。こういう自然音のASMRも中々良いもんだ。自然のエネルギーと、人間と意図や思惑が入らない無作為さが脳を洗い流してくれる。……はずなのだけれど、今俺の脳内は考え事でいっぱいで、様々な声が駆け巡り秩序のない状態だ。そんな頭に、雨音は染み込まない。
だからこそ、音の圧と刺激で思考を塗り替えてしまうような強いASMRを聴いていたのに。宵月まひらさんの『スライム耳かきで脳をドロドロに溶かすお姉さん』で頭の中を全て埋め尽くそうと思っていたのに。途中で放り出されてしまって、なんだか消化不良だ。もう! 雷のやつってば気が利かないんだから!
……音野らぶちの配信は見ていない。ここ二回のらぶちの配信を、俺はスルーしてしまっている。らぶちを見つけて以来、毎配信欠かさず視聴していた俺からすれば、これは異常と言っても良い事態だ。そんな俺が何故視聴を辞めてしまったのか。その理由は、自分でももう分かっていた。
俺は怖いのだ。らぶちの配信を見るのが。
正確には、らぶちの配信を見ることで、俺が抱いている疑念が確信に変わってしまうことが怖いのだ。
らぶちの配信は見ていないが、SNSはちらと見てしまった。らぶちの通っている高校でも、もうすぐ体育祭が行われるらしい。へえ、らぶちもなのか。こりゃ偶然だ、と俺は乾いた笑いと共にひとり呟いた。
らぶちの正体が愛知なのでは? と思っていた時は、こんな怖さは感じていなかった。愛知とはできる限りの距離を置こうと思っていたくらいだ。
けれど、らぶちの正体が遠野なのだとしたら。どうやらそれは、俺にとって別の意味を持つようで、その可能性が生じて初めて、俺は怖いと思ってしまった。しかし、なぜこんなに怖いと思うのか、それは自分でもよく分からない。いち視聴者に過ぎない俺が、推しの配信者の裏側を知ってしまうのは非常によろしくないという、我ながら高潔なリスナー精神によるものだろうか?
また、依然として疑念も残る。遠野藍音を見て感じる印象と、音野らぶちの配信を見て感じる印象は、陽陰で対極のものだ。らぶちから感じるあの陰のオーラが、遠野から発せられているものとはちょっと考えにくい。
俺はそれを確かめなければならないのだろうか。このままモヤモヤと疑念を抱いたまま、遠野との交流を続けらぶちの配信を視聴しても良いのだろうか。脳みそが空回りしているのを感じる。
ブルブルッとスマホが震える。メッセージアプリの通知だ。俺にメッセージを寄越すなんて、牛丼屋のクーポンか遠野くらいだ。
ちらっと見ると「やばい。これマジでやばい。もう脳舐められてる感じ」というメッセージと共に、動画のURLがついてきていた。この投稿者は俺も知っているが、かなりハードな耳舐め作品を提供している方だ。
この女は、相変わらず耳舐め音声ばかり聴いているらしいなと、俺は誰もいない部屋で少しだけ頬を緩めた。
「今日 放課後 どう?」
翌朝家を出る前に、遠野から相変わらず学校で見る遠野のイメージとそぐわないようなシンプルなメッセージが届いていた。こういう点はらぶちと繋がってこなくもない……いや、よしておこう。
ところで遠野の誘いについてだが。
「悪い、今日は看板作りの方でやることがある」
成り行きで任命された役割ではあるが、それにより大義名分を得たことで、自然と誘いを断ることができるようになった。怪我の功名ってやつだ。
率直に本心を述べさせてもらうならば、別に断りたいわけじゃない。けれど、俺はまだ決心を固めることができていない。遠野藍音と音野らぶちの関係性を明らかにするという決心が。そんな中途半端な状態で、これ以上疑念を深めるようなきっかけはできる限り避けたいと思うのだ。もしかしたら、遠野の行動や言動の端々にらぶちの影を見てしまうかもしれない。そんな変な疑いをかけなくない。
ふう、とため息を一つつき、いつもの通り自転車に跨って学校へ向かう。めっきり気温が上がってきて、朝っぱらからちょっとした運動をするには中々しんどい時期だ。ペダルを漕がねば風を感じられないが、ペダルを漕げばそれだけ体が熱くなって汗だくになってしまう。片方を追えばもう片方は手からすり抜けてしまう。世知辛いことこの上ない。
身体も頭の中もすっきりしない今日この頃。こんな日は気持ちが涼しくなるようなASMRを聞きたいものだ。校門をすり抜けて自転車を置き、教室へ向かうまでの間はGokuri店長さんの『ゼロ距離で……。ただサイダーを飲むだけ』で、耳から涼を取ることにしよう。炭酸水を注ぐ音、泡がパチパチとはじける音、そしてそれを飲む喉の音がとても爽快な作品だ。
これを聞いていると、自然豊かな片田舎で麦わらワンピースが似合う幼馴染と過ごした、かけがえのないあの年の夏休みの思い出が脳裏に思い起こされる。あの娘の顔も名前も、はっきりと思い出すことができないのは、あの娘と過ごした夏が遠く昔のことだったからというわけではなく、そもそも俺にそのような記憶など存在していないからなんだよね。
そんなことを思いながら上履きを履き替えていると、ぱしんと背中を叩かれた。チッ、誰だよ邪魔しやがって。こっちは自律神経を絶頂させるのに忙しんだっつーの、とぷりぷりしながら下手人を振り返ると、「おはよー」と手を振る遠野がいた。ちょっと距離を置こうと思った矢先にこれだ。
「浅村! やっと気がついた! 声かけても全然反応しないんだもん」
「そりゃ悪かったよ、でも」
分かるだろ? と言外の意を込めて、耳にはめたイヤホン指差して見せると、「いやまあそんなことだろうと思ったけど」と返ってきた。
「おい、分かってたのかよ。なら気い使えよ」
「ま、まあ。ちょーっとは悪いと思ったよ? でもほら、今日の放課後はだめなわけじゃん? だったら、放課後になる前に少しでも話ししたいじゃん」
お前と話したかったんだよ、という意を想像以上にストレートに伝えられ、俺は思わずまごついてしまった。そういうところがさお前、本当に……。
瞬間、俺はなぜここまで遠野=らぶちの確定を恐れているのか、途端に腑に落ちてしまった。そして、その理由に自分自身で震えてしまった。
絵に描いたような陽キャでありオタクに優しいギャルである遠野。俺はその眩しさと真っすぐさに好感を持ち、そして憧れていた。
反面、その光の強さに焼かれ、引け目を感じる自分もいる。そんな俺を陰サイドから受け止め、共感し、そして癒してくれるらぶち。
そんな二人が同一人物かもしれないとなった時、俺は腹の中でこう思っていたのだ。
俺を騙していたのか? と。




