第2話 遠野藍音もASMRを愛している
遠野は固まった。俺も固まった。
お互い動けずにいる間にも、遠野のスマホからは「んちゅっ、……はぁ、うふふ。どお? 気持ちいい?」と、脳をくすぐるような囁き声と共に蠱惑的な水音が流れ出ていた。
先に我に返ったのは遠野のほうだった。
「う、ウワワー!?? な、なんで? どうして急に?」
半狂乱状態でとりあえずスマホの電源を切る。が、音は止まらない。バックグラウンド再生だ。現代のテクノロジーで進化とブラッシュアップの末に搭載された便利機能が、今遠野に牙を剥いている。
「と、遠野……。とりあえず、音量を下げたほうが……」
あまりのパニックっぷりに恐る恐る助言すると、遠野は「そ、そうだった!」と言ってスマホを操作する。やっと音が止まった。
遠野はふう、と一息つくと、手の中に握っていたものを見る。
「そ、そっか……。イヤホンの接続が切れたから……」
ああ……と遠野はうなだれる。なるほど、俺が遠野を揺り起こした時、遠野の耳からイヤホンが落ちてしまったが、スマホとの接続は続いていたのだ。そして遠野が睡眠中に聞いていた音声もまた再生が続いており、イヤホンをケースに閉まった瞬間にスピーカーモードに切り替わって流れ出したということか。謎は全て解けたね。
だけどまだ疑問は残る。あの音声がなんなのかについては、とっくに分かっている。なんなら一瞬で分かった。俺の脳と魂を震わせるあの音……。聞き間違えるはずもない。
気になるのは、なぜそれが遠野のスマホから……? これは……つまり……。
「あ、浅村……。帰り、ちょっと付き合ってよ……」
その答えは、真っ赤な顔を震わせた半泣きの遠野が説明してくれそうだ。
と思ったのだけど、遠野は一向に口を開こうとしない。どうやら駅のほうに向かっているらしいということは分かるのだけれど、目的地もはっきりとしない。ただただ無言で先導する遠野を二、三歩くらい後ろの距離感で追いながら、カラカラと自転車を押す。
一体遠野は何をどう切り出してくるのだろう。いやまあ、そりゃポイントはさっき流れたASMR動画のことだろうと想像はつく。
俺からすれば、常日頃から耳と脳と心を預け、もはや俺という存在を形作る要素の過半数を占めているのではないかと思われるほどに慣れ親しんだものだけど、遠野藍音とそれが結びつくかと言えば……それはない。カードやゲームやアニメにも比較的明るく興味を示す遠野だけれど、率直に言えばASMR(それも耳舐めタイプのヤツ)を聞いているのは意外と言うほかない。
でもまあ、考えてみれば遠野は寝ていたのだし。自動再生でたまたまそういった動画に行きついててしまったということだってあるだろう。
うん。つまり、これはたまたまだ。そう考えるのが一番しっくりくる。なあんだ、簡単なことじゃん。自分に秘められた推理力が恐ろしいね。じっちゃんの名にかけなくても、このくらいは当然さ。
うんうんと一人心の中で納得していると、いつの間にやら人気の無い路地裏へ案内されていたことに気がついた。周りの建物の室外機やごみが、狭い道幅をさらに圧迫している。
「おい遠野。こんな怪しい場所に誘い込んでどういうつもりだ? まさかあれか? 秘密を知られたからには生かしておけないってやつか?」
俺の中ではこの事件は既に解決している。故に、軽いテンションで遠野に向かって声をかけた。
「…………え?」
とこちらを振り返る遠野の顔はいつになく引きつっており、その手にはいびつな形に変形した金属バットが握られてた。
「え? えええ!? ちょっ……待っ……、本気かよ! 冗談のつもりだったわ!」
「ご、ごめん浅村……。でも、あれを聞かれちゃったからには、もう、こうするしか……!」
「いや無理! ごめんまだ死にたくない!」
「だ、大丈夫大丈夫。これでちょ~っと頭をね。コツン! とさせてもらって、ここ一時間くらいの記憶を飛ばすだけだから」
遠野は「フ、フフフ……」と明らかに正気のものではない笑みを浮かべる。まずい、完全にキマってる。こんなやつに一時間単位での記憶飛ばしなんて高度な真似ができるわけない。というかそんなこと誰にもできない。
や、やばい。どうすればいい! このままだと確実に俺は撲殺される。そして裏路地、明るく人気者の美少女、クラスの半分からは名前も覚えられてなさそうな陰キャの亡骸……。この状況証拠から、俺が遠野に迫って返り討ちにされたという筋書きが組み立てられてしまうことは想像に難くない。いくらなんでもそんなのはごめんだ。
考えろ。考えるんだ。要は、遠野がASMR動画を聴いていたことが、俺にばれたとしても問題ないと主張できればいいんだ。だけど、今さら「あれは自動再生だったんだよな?」などと大人なフォローをしたところで、ここまでの状況になってしまってはどうしようもない。この取り乱しっぷり、遠野藍音、ASMR動画を聴いている!
聴いている……ということは……?
命の危機に瀕し、俺の脳についに天啓が舞い降りた。
俺は急いでポケットからスマホを取りだし、動画投稿サイトのマイページを立ち上げると、今にもバットを振りかぶりそうな遠野の眼前に、さながら印籠のように突きつけた。
「見ろ遠野! 俺は……俺たちは……、仲間だ!!」
見せたのは、俺の登録チャンネル一覧だ。そこには俺の人生、魂、青春、性癖……その全てが詰まっている。通常であれば絶対に人には見せたくないものだけど、命には変えられん。
それに、たとえ偶然だったにしろ、俺は遠野の見られたくない秘密を知ってしまった。であるならば、こちらも相応のものを差し出すのがフェアってものだ。
遠野は「は、はぁ〜」と分かってんだか分かってないんだか判然としない声を漏らしながら俺のスマホを注視する。
「ほーらほらほら。見てみろこの登録チャンネル一覧を。全てがASMR投稿者だ。最新のアクティビティもほら。ASMR動画と配信で埋め尽くされているな? さらに、こっちは自作のプレイリストだ。シチュエーション別にお気に入りの動画をまとめてある。俺のライフワークだな」
は、はえぇ……。すっごい……。きっもい……と言いながら、遠野は俺のスマホをスクロールし始める。こうなったらヤケだ。全てをお前にさらけ出そう。ところでこいつ今きもいって言ったか?
「安眠用……」
まあ王道だよね。入眠時のお供だね。
「甘やかし……」
男子校生にだって甘えたい時があるもんね。
「妹モノ……」
可愛い妹ってのは、全世界の男児の夢なんだよね。お兄ちゃんと呼ばれたいよね。にいにもいいね。でも俺は意外と兄貴呼びも嫌いじゃないんだよね。
「夜のお……」
おっとそこまでだ。
ヒュッと遠野の手からスマホを回収し、画面をロックする。
「で、分かってくれたか? 遠野、ASMR、好き。そして俺、ASMR、めっちゃ好き。つまり、仲間。トモダチ。オーケー?」
お、おーけーおーけー……と、遠野は胸を撫でて深呼吸する。遠野の掌に誘導されるように、ついつい視線が吸い込まれそうになるが、そこは男の余裕でグッと我慢だ。
「浅村もそんなにASMRが好きだったなんて、知らなかったよ。……あ、もしかしてさ。浅村が休み時間にいっつも聴いてるのって?」
「ASMR動画だ。俺が何かを聴いているとしたら、英語のリスニングを聴いてるかASMRを聴いてるのかのどっちかだ」
そしてその割合はASMRが九割。リスニングはおまけ程度。それを混ぜたのは、まあ精一杯の見栄ってやつだ。
「まあ……その、じゃあさ。私と浅村は、同じ秘密を共有する仲間ってことで。お互い誰にも言わないってことで」
約束、と遠野は小指をすっと立ててくる。それを見てまごつき始めた俺を見て、遠野は怪訝な顔を見せた。
「どしたん? ……え? まさか脅してくるつもり? 秘密をばらされたくなかったら……的な?」
「違う違う違います! ちょっと恥ずかっただけ!」
この歳になって、同級生の女子と指切りをするってのも中々ハードルが高いもんだ。そんな俺の尻込みをよそに、遠野はしなやかな小指を俺の小指を絡め、指切りげんまんと手を振る。
「これでよし。裏切ったら、殺すからな」
「分かった。分かってるから、せめてバットは置いてくんないか?」
これこそガチの脅しだ。遠野は「おっとそうだった」と言って、バットを隅に置く。こんなの一体どこで拾ってきたんだよ……。学校出たときは持ってなかっただろ。
「じゃ、明日からよろしく。……あ、そうだ。連絡先交換しようよ」
「え? いいけど……。いいのか?」
戸惑いながら問うと、「は? 何が?」とあっけらかんとした顔で返された。このこだわりのなさこそ、学内ヒエラルキートップの証だ。俺じゃこうはいかないね。
友達追加機能なんてそうそう使わないので、少しばかり操作にまごつく。どうにかこうにか遠野との連絡先交換に成功し、友達一覧にバチバチに決めたアイコンの「あいね」が刻まれた。家族以外で初めてとなる異性の連絡先だ。
「よしオッケー。浅村、ASMR詳しいんでしょ? おすすめとか教えてよ。こんな話できる友達も中々いなくてさー。色々と話したいんだよね」
薄暗闇の路地裏には似合わない、向日葵のような笑顔で遠野は言った。その圧倒的な「陽」のオーラに、俺は焼き尽くされて消し炭になってしまいそうだった。




