第1話 浅村好太はASMRを愛している
「じゃあ、始めていくね? リラックスして、目を閉じて、寝ちゃってもいいからね」
アッ、ハイッ! お願いしますッ!
「よいしょ……。なんだか疲れてるみたい? よしよし、お疲れ様。毎日頑張っててえらいえらい。生きててえらいぞ〜」
アッ! そうなんです……! もうほんと……学生と言っても、毎日毎日大変なことばかりで泣きそうで……! そんなに頭をぽんぽんされると、なんだか涙が出てきそうになります……!
「うふふ。じゃあ、私に任せてね。たっぷり癒してあげる。今日は……キンモクセイの香りのオイルを用意してみました。ストレスを和らげてくれる効果があるんだよー。今の君にぴったりかもね」
そんな……! う、嬉しいです……! 俺のことを考えて、選んでくれるなんて……! その気持ちだけでストレスなんて吹き飛んじゃいますよ!
「じゃあ、オイルを塗っていきます。……わ、凄いよ。キンモクセイの香り。……分かる? すっごいいい匂いだね」
分かります分かります! しっかり香ってきます! ああ……なんて素敵な香りなんだ……!
「よーく手に塗り込んで……。くちゅ、くちゅ……。うん、おっけー。じゃあお耳にも塗っていくね。まずはゆっくり……周りからね……」
ああ……。気持ちいいです……。
「耳のうら……。ここ、ちょっと骨があって固いところ……分かる? こりこりしてるの。ほら、こり……こり……」
あっ、ふぁあっ! それ、イイッ……です! 骨の固い感触と、オイルの水音が合わさって……たまらんです!
「ふふ、どう? 気持ちいい……? こり、こり……。ん? まぁだだめ。中はまだ、入れてあげない。またお耳の穴の周りを、すり……すり……」
そっ、そんなっ! いや、それもすっごく気持ちいいんですけど、やっぱり、中に欲しいです! 中に! 中に入れてください! 我慢できなくなっちゃうう! おかしくなっちゃうのおおおお!
「すり……すり……すり……。……えいっ!」
あんっ! そんなっ……! いきなりされたらっ……!
「うふふふっ……。ごめんね、ちょっといじわるしちゃったね……。いきなり指入れちゃったけど……気持ちよかった? ビクってしちゃったね?」
し、しちゃいました……。悔しいけれど、気持ち良かったです……。あんなことされたらクセになっちゃう……!
「じゃあ、ここからは思い切り……いくね? 奥まで、ずぽ……ずぽ……。すごい、オイルでじゅぷじゅぷだね……」
んっ……はぁ……! 焦らされるのもいいけれど、やっぱり奥はたまらない……! やっ! そんなっ! 出し入れされたら、音が……凄く響いて……!
「なんだか、ドキドキしてきた? ……うん、私もだよ」
心臓の音が凄いんです……! 胸が熱いんです……もう、止められません……! こんなことされてしまったら……! 俺は……! 俺は……!!
ブブブブブブッ……! ブブブブブブッ……!
胸ポケットに入れたスマホのバイブ音で、俺は突っ伏していた机からバッと顔を上げた。はぁ? もう昼休み終わりかよ。早すぎだろ! さっき見た時はまだ十二時十五分前だったぞ!
俺はぷりぷりしながら、官能的な水音を立てるイヤホンを耳から引っこ抜いて、椅子の背もたれに体を預けて背中をグーっと伸ばす。ゴギゴギッ! と信じられないような音が背骨から聞こえてきて、思わず「うひっ!?」と間抜けな叫び声を上げてしまった。
……ところで、ちょうど目があった。遠野と。
遠野は形の良い目を丸くすると、小さな子供を見るような微笑みを俺に向けてきた。
「浅村、すっごい声出てたよ。ウケる」
「あっ、いやー、見られてた……ね?」
「ところで、何聴いてたの?」
「あー、まあ、その。ヒーリング音楽……的な?」
嘘はついてない。
「なるほどね。確かに、水っぽい音がすると思った。環境音的な、自然の音的なやつね?」
あぶね! あっぶね! 音漏れしてたんかよ気づかなかった!
内心バクバクに焦り散らかす俺をよそに、遠野は「いいよね~癒されるよね~」とニコニコしている。
これが俺、浅村好太と遠野藍音が、このクラス始まってから一ヶ月目にして初めて交わした言葉だった。
どこの学校のどこのクラスにも存在する通り、クラスにはヒエラルキーというものが存在する。そして言うなれば遠野はそのトップティア。性格も見た目も人目を引く彼女は誰からも好かれる人気者だ。一年次は別のクラスで、全く接点がなかった俺も遠野藍音という生徒の存在は知っている。それくらい彼女は学年規模での中心人物である。
強者の余裕なのか、はたまたそれを気にしないことが強者たる所以なのか知るところではないが、遠野は相手のクラス内ヒエラルキーに関わらず、平等に対等に接してくれる。それ故に最下層の民からは「オタクに優しいギャル」としてもっぱら神格化されている。
まあ確かに教室でカードゲームをしている連中に「うわー懐かしー! 小さい頃兄貴たちと遊んだよ〜。今どんな感じなの? このマークなに? 見たことないんだけど!」などと顔を輝かせて興味津々に話しかけてくるもんだから、そんな評判が立つのも納得だ。隣で聞いてた俺も「え? え? いいですか??」って思っちゃったし。
ちなみに俺は言うまでもないがヒエラルキーの最下層に属している。誰とでも関係を持つ遠野と俺の初コンタクトが先ほどのあれだったことからも推して図るべし。
「へ、へへ……喋っちゃったぜ。これで俺は合計十七分も遠野と会話してることになる」
「フン、雑魚が。俺の会話時間は既に合計三十一分……。最も早く一時間の大台を超えるのは、この俺だ」
「いや待て。お前は卑しくも自ら話しかけにいっていることが多いよな? 俺はまだ十一分だが、その全てが遠野から話しかけられたものだ。どちらの価値が高いかは……明白だなあ?」
ここ最近の最下層界隈では、トップティア(その中でも特に遠野)との会話量でマウントを取り合う実に悲しき風潮が生まれてきている。既にそのレースには遥か遠く置いていかれてる俺だけど、もしかしたらここから巻き返しができちゃうかも?
冗談交じりにそんなことを考えていたものだが、それも案外現実のものとなるかもしれない。
夕焼けに沈む教室で、すやすや眠る遠野の姿を見たときになんとなくそう思った。
…………いや、なんでこいつはこんな時間にこんなところで呑気に寝てんだ?
気にはなるが、とりあえず起こさないようにそおっと、自分の机からスマホを回収する。一度は帰宅した俺が、自転車で片道二十分強の道のりを経て再度この教室に戻ってきたのはこの忘れ物のためだ。俺ったらうっかりさん!
本当に面倒だったので取りに帰るか小一時間程度迷った末の決断だ。別にASMRだったら自室のPCで聴けるし、俺に連絡を寄越すような間柄の知り合いもいないんだけど、やっぱり携帯が手元にないとそわそわしちゃうんだよね。俺ってば現代っ子だ。今日の夜は最近目をかけている期待のASMR配信者、音野らぶちの配信予定があるし、さっさと回収して帰ろう。
と、思ったのだけれど。
変わらず気持ちよさそうな寝息を立てる遠野に目線をやる。恐らく俺には想像もできないくらいの労力で、いい感じにふんわりと巻かれた髪の毛が、遠野の机の上ではらはらと散らばり広がっていた。明るめの髪色が黄金色の光を吸収して輝いている。……のはいいんだけど、もうすぐ完全下校時刻だ。このまま捨て置くのも目覚めだ悪いし、仕方ない。起こすか。
「お、おーい」
返事がない。
「と、遠野ー? 起きろー」
返事がない。寝息があるので、ただのしかばねではない。
とはいえ参った。全然起きてくれない。このまま帰ってしまおうか? と一瞬考えもしたが、さすがにちょっと心苦しいよな。
ええい、ままよ。と俺は意を決して遠野の肩をそっと掴んで揺り動かした。すると今度は「起きろー」と声をかけるまでもなく、
「うえええ!? な、なに? 誰?」
遠野がガバッと飛び起きた。と同時に遠野の耳からポロッとワイヤレスイヤホンがこぼれ落ちる。どうやら何かを聞きながら寝ていたらしい。なるほどこれなら俺の声が届かないのも納得だ。髪の毛の中に隠れていて気が付かなかった。
「よ、よう。おはよう」
「え? あ、浅村? なんで?」
「なんでって……ここ学校。教室。俺、忘れ物取りに来ただけ」
混乱している様子の遠野に状況説明をする。なぜかカタコトみたいな喋り方になってるのは、単純に緊張しているからだ。
「え? あー、寝ちゃってたのか……。って、今何時?」
答える代わりに、教室前方の時計にすっと目を向ける。十八時二十分。
「げ、もうそんな時間!? やっば爆睡してたわ! 起こしてくれてありがと!」
遠野はバタバタと片づけを始める。カバンにペンケースを放り込み、転がってたイヤホンを回収しながら「そういえば浅村は何してたの?」と聞いてきた。
ああ、スマホを忘れちゃって……と言いかけた瞬間。
「じゃあ、ここからは思い切り……いくね? 奥まで……はぁむ、むちゅっ……れろれろ……」
ジュップジュプッレロロロと、蠱惑的な水音が遠野のスマホから爆音で流れ出した。




