第13話 続・リアルASMRは刺激が強い
それからまた数日後。遠野の予定が空いているということで、俺は放課後の文芸部室へ何度目か分からない呼び出しを受けていた。初めの頃は正直どこにあるのか分からない教室という印象が拭えなかったが、さすがにもう慣れた足取りで向かうことができる。
ガラッと開けると、遠野藍音の顔がドン! と目の前に現れた。
「うおぉっびっくりした! な、何やってんのお前……?」
「あっはは。浅村ビビりすぎ! いやさ、私も今来たばっかなんだけど、実は途中で少し後ろに浅村がチラッと見えてたんだよね。だから、どうせすぐ来ると思って、待ってた」
「それはいいんだけどよ……。何も扉の真ん前で待つ必要なくない?」
「んー、それはほら。サプライズってことで」
心臓に悪いからやめてくれ……。単純にびっくりするってのもあるし、あの距離でお前の顔を直視するのも、心臓にかなり負担がかかるんだぞ……。なにあれ、なんであんなにまつ毛長いわけ? それになんかいい匂いするし。性差はもちろんあるとはいえ、本当に俺と同じ人間か?
どくんどくんと、景気良く打ち鳴らされる鼓動を鎮めながらとりあえず適当な椅子を引いて腰掛けると、遠野が「じゃん!」と満面の笑みでイヤホンケースを俺に見せてきた。
「ああ、それ。この前見たぞ」
「ちゃんと自慢したかったの! ほら見ろもっと見ろ。こいつの銭闘力は五万九千円だぞ?」
ぐりぐりぐりと、目ん玉の中に入れんばかりでイヤホンケースを押し付けてくる。
「ちょ、危ねえって。顔の脂がつく」
「うわ、それやだ」
スッ……と遠野は手を引いた。望んだこととは言え、こうもすんなり引かれると僕ちょっと傷つきます。
「そういえば、まだあの時の礼を言ってなかったよな。ありがとう、助けてくれて」
「助けて? ……あ~、羽咋の件のこと? いいよいいよ。それを言うなら、私だってバイトの時の借りを返しただけだし」
「そか。でも助かったわ。……しかし、上手く収めたもんだな」
「まー羽咋は分かりやすいから。ぶっちゃけの印象だけど、皆から注目されたい、凄いと思われたいってのが強い感じ。だからそこをくすぐれば上手いこと行けるかなって。多分」
非常にしっくり来る人物評だ。こいつ、結構人のこと見ている。俺は「お見それしました」と頭を下げた。
「いいって、そんなことなんてどーでも。……それより浅村、このイヤホンヤバいよ? 浅村が今使ってるやつより音がクリアだし、なんというかこの……奥行きがあるというか。本当に耳の奥を攻められてるみたいな圧が凄くてさ。技術の進歩は素晴らしいね。私、この時代に生まれてよかったよ」
遠野と俺のイヤホンは同じシリーズの同じクラスではあるものの、そこには二世代の差がある。性能を引き離すには十分すぎる期間だ。しかし遠野、この発言から察するに、どうやら耳舐めASMRばかり聴いていそうだ。しかし……。
うず、と思わず身体が反応してしまう。それを遠野は見逃さなかった。
「あーら、どしたん浅村。気になるか? このイヤホンの性能が。聞いてみたい? ん?」
こ、こいつ……! ここぞとばかりに煽ってきやがって! そりゃな、気にならないと言えば嘘になるが、俺だって歴とした日本男子。情けをかけられるくらいなら死を選ぶ。手にしたいものがあるのなら、それは自分自身の力で「お願いします!!」……あ、あれー?
もののふの心意気を宿す俺の意思とは無関係に、俺の身体は遠野に対して九十度の礼をしながら叫んでいた。そんな俺の様子を見て、遠野は引きつった笑顔を浮かべながら「お、おう……」と言った。
「なんでそんな引き気味なんだよ。お前が煽ってきたんだろ」
「い、いや。確かにそうなんだけどさ。こうも躊躇いなくお願いされるとは思ってなくて。ちょっとね」
「俺も驚いた。身体が勝手に動いてて……」
やっば、末期症状じゃん。と苦笑いしつつも、遠野は俺にイヤホンを渡してくれる。それを丁重に受け取り、我が耳に装着……しようとして、一瞬固まった。
これ、遠野が普段着けてるイヤホンなんだよな。俺、このまま着けていいのかな。いやそりゃ俺のイヤホンを無理矢理遠野に着けさせたことはあるけどさ。立場を逆にすると……なんというか……。いいのかな?
「な、なに……どしたの、怖いんだけど。何か変なとこでもあった?」
怪訝な顔で遠野が聞いてくる。ハッとして、これ以上躊躇するのはおかしいと、イヤホンを耳に装着しようとしたその時。
カツ、カツと、廊下を踏みしめる足音が遠くに聞こえた気がした。……いや、聞こえている。だんだんと大きくなって、ここに近づいて……きて……?
「まずい、誰か来る!」
危険を察知した俺は小声でそう叫ぶと、「え? え?」と戸惑う遠野の手首を掴み、奥にあった木製の古めかしい棚の影に引き摺り込んだ。
ほんのり湿気たような、使い込まれた木の香りが鼻をくすぐる。俺の後ろで遠野が「ど、どしたの……?」と聞いてくるが、シッと人差し指を口に当て、ジェスチャーで黙らせた。
瞬間、ガラリと大きな音を立てて引き戸が開け放たれる。
入ってきたのは国語教師の原中先生だった。原中先生は「あとはここくらいかしらねえ……。えーと……」と独り言を呟きながら、壁に沿って設置された木星の棚の前に立ち、戸を開けて最上段から最下段までを指でなぞり始める。
何かを探しているらしい原中先生は棚を一スパン探し終わると次の棚、それが終わるとまた次の棚……と捜索を進める。そして同時に、徐々に俺が隠れた棚に近づいてきている。
ま、まずいぞ。隠れたっていっても、ただ正面から見て影になっているところへ逃げ込んだだけだ。近くまでくれば一発でわかる。
そうしている間に、原中先生はこっちに段々と近づいてくる。万事休すか——?
俺の心臓の音がうるさい。耳にかかる息遣いも……遠野の…………息遣いも…………。これは、うるさく……ない?
すぅーっと、遠野が息を吸う音。
ふぅーっと、遠野が息を吐く音。
こくりと、遠野が唾を飲み込む音。
ちぴりと、遠野の上唇と下唇が離れる音。
遠野藍音から発せられる様々な音が俺の耳を撫で、外耳道を抜けて鼓膜を揺らし、頭骨の中に響き渡る。まるで脳が溶け、神経が痺れるような感覚。この感覚を、俺はとてもよく知っている。これは……まるでこれは…………。
「あぁ、あったあった。やっぱりあったわ。よいしょ……と」
目当てのものを見つけたらしい原中先生がガタガタと棚を探る音で、俺はハッと覚醒した。先生のいる位置は、今俺たちが隠れている棚の二つ隣だ。こんな近くまで接近されていたのに気が付かなかった。どうやら俺は完全にトんでしまっていたらしい。
やがて、何かしらが詰まった箱を胸に抱えた原中先生は、ゆっくりと教室から出て行った。
その姿を見届け、俺ははぁーっとクソデカ安堵のため息を吐き出した。
ずるるっと、棚の影からまろび出ながら俺は言う。
「あ、危ねえ……。見つかるところだった……」
「文学部以外の人がここに来るなんてそうそうないからびっくりしちゃったよ。……でもさ、なんで隠れる必要があったの?」
なんでってそりゃ…………。
「あれ、なんでだ?」
言われてみりゃ遠野の言う通りだ。なんで俺は、誰かに見つかることを咄嗟に避けようと思ったのだろう?
遠野は文学部員だ。そしてこの教室は文学部が活動部屋として使用している。まあ実際の使用頻度は推して測るべしという感じだが、少なくともオフィシャルに部室として登録されているのだ。その部屋に遠野がいることはなんらおかしなことではない。
正規の部員がいるのだから、例えここに部外者である俺がいたとしても、理由はどうにでもつけられるはずだ。
けど、俺は隠れた。咄嗟に遠野の手を引いてまで。そこまで頭が回っていなかったというのも勿論ある。だけどそれ以上に俺はきっと……。
「あ、浅村……? 悪いんだけどさ、イヤホン、そろそろ返して?」
「え? あ、あー悪い! 俺が持ってたままだったわ! はい、確かに返した」
握りっぱなしだったイヤホンを、俺は慌てて遠野に返す。当初の目的は試聴だったはずだが、こうなってはもうどうでも良いことだ。
「や、やれやれ……。浅村も変なとこあるね。急に手え引かれて、私はそっちの方にびっくりしたよ」
「わ、悪い。つい咄嗟に……。冷静になって考えてみたら、確かに遠野の言う通り隠れる必要なんてなかった」
そう言って、すぐさま悟った。俺にとってはその必要があったことを。
やって来たのが先生だったのは結果論だ。もしかしたら、他の生徒が扉を開けた可能性だってある。学年トップの人気者である遠野と、有象無象の中でも底に沈澱している俺が空き教室で二人っきりの姿を見られるのは非常によろしくない。
けど、もう一つ理由があった。それは完全に俺自身の都合で、思惑で、全く口に来るのも憚られるような、そんな陳腐な理由だ。
俺はきっと、邪魔されたくなかったのだ。遠野と過ごすこの時間を、誰にも。
自覚して、思わず自嘲した。俺は何を自惚れているんだ。身の程を知れ。俺の都合なんてどうでも良いことなんだ。この前の羽咋との一件で誓っただろう。俺の存在が、遠野の輝かしい学園生活に影を落とすことの無いように、と。
それだけを考えろ。それができないのであれば、遠野藍音と交流する資格は、俺には無い。




