第9話 再開発の線の外
地図の上では、たった一本の線にすぎない。
けれど、その一本の線がこちら側に引かれるか、向こう側に引かれるかで、店の未来はまるごと変わる。
朝倉恒一は、営業前の厨房で封筒の中身をもう一度広げながら、あらためてそのことを思い知っていた。
テーブルの上に置かれたのは、再開発関連の簡易な説明資料だ。周辺一帯の区画図が色分けされ、建て替え予定、再整備予定、検討中の区画が、それぞれ淡い色で塗られている。
そして、その中にぽっかりと空白がある。
玻璃亭の入る古い雑居ビル、その地下部分を含む一画だけが、妙に曖昧な扱いで残されていた。
「何回見ても変だな」
恒一が言うと、
「変だね」
と、澪が即答した。
火乃坂澪は、カウンターの奥で野菜の皮を剥きながら、資料へ視線を落とした。彼女はこういう紙の読み込みはあまり得意ではないくせに、「不自然かどうか」を嗅ぎ取るのだけはやたら早い。
「周り全部いじるのに、ここだけ白いまま」
「しかも、地下の店だけじゃなくて、この区画ごとだ」
「ってことは、うちだけ守られてるわけじゃない?」
「いや、逆だろ」
「逆?」
「表向きは区画全体を外してるように見せて、その実、ここを触らない理由をぼかしてる」
「……うわ」
「勘だけどな」
「でもありそう」
恒一は区画図の角を指で押さえた。
大通り沿いはほとんど色がついている。新しいビルへ建て替わる予定の場所、権利調整中の場所、商業施設誘致予定と書かれた場所。銀座の地面が少しずつ別のものへ塗り替えられていくのが、雑な資料からでもよくわかる。
その流れの中で、この古いビルだけが、いや正確にはこの一画だけが、線から外れている。
偶然では説明しづらい。
「祖父のせいかな」
澪がぽつりと言った。
「“せい”って言うな」
「いや、良い意味で」
「良い意味でもせいは嫌だな」
「じゃあ祖父さんのおかげ」
「……それは、あるかもしれない」
そう答えながらも、恒一の腹の底にはまだ納得しきれない重さがあった。
祖父は料理人だった。
腕のいい、頑固で、寡黙で、どう考えても政治や行政と笑顔で握手するような人ではなかった。
もちろん、人の縁というものは外から見えない。
老紳士のような客がいたことを思えば、祖父の知らない顔がまだいくつもあったのだろうとは思う。
けれど、それでもだ。
再開発の線をずらせるほどの何かが、料理人一人にあるものなのか。
あるいは――。
「老紳士」
恒一が口にすると、澪はすぐ反応した。
「うん」
「たぶん、あの人だよな」
「たぶん」
「紗雪さんのお祖父さん」
「だと思う」
「でも、どこまで聞いていいものか」
「聞ける相手でもないしね」
それはそうだ。
上品な老紳士。
祖父の味を知っていて、紗雪をこの店へ連れてきた人。
店の空気を一段変えてしまう存在感。
そして、おそらくこの区画の扱いにも何らかの影響を持っている人。
ただの常連ではない。
それはもう、かなりはっきりしている。
だが、だからといって「あなた、再開発止めてます?」と聞けるほど恒一は図太くなれないし、たぶんそんな聞き方をする店主は料理人として終わっている。
「結局、料理作るしかないのか」
恒一が呟くと、
「それ以外で勝負できるものある?」
と澪が返した。
「ないな」
「でしょ」
「でも、理由くらい知りたい」
「それはわかる」
「この店が何に守られてるのか知らないまま、守られる側にいるのも落ち着かない」
「それもわかる」
澪はそこで包丁を置いた。
「でもさ」
「ん?」
「守られてるって決まったわけでもなくない?」
「は?」
「もしかしたら、“まだ壊すと面倒”ってだけかもしれないし」
「それ慰めになってないぞ」
「慰めてないもん」
「正直すぎる」
「ただ、理由が何であれ、今すぐ消されないなら、その間に強くなるしかないって話」
「……」
「それは変わらない」
あまりに澪らしい結論で、恒一は少しだけ笑った。
火乃坂澪は、こういう時に妙なところで現実的だ。
感情的にならないわけじゃない。むしろ店のこととなると、恒一よりずっと直情的な時もある。だが最後は、今できることへ話を戻す。
今すぐ消されない。
なら、その間に店を立て直す。
それだけだ。
「……そうだな」
恒一が言う。
「うん」
「ただ、気味が悪いのは変わらん」
「それはそう」
資料を封筒へ戻しながらも、その感覚は消えなかった。
自分の知らないところで、自分の店の運命が少し動かされている。
ありがたいのかもしれない。むしろ、本来なら感謝すべきなのかもしれない。
けれど、それが何なのかわからない以上、料理人の勘は「安心」より「違和感」を先に拾ってしまう。
その日のおすすめは、風縫いのローストと、祖父のレシピ帳を元に試作した小さな白いスープにした。
紗雪の言っていた、幼い頃の記憶に残る一皿。
まだ完全には再現できていない。というより、どこを目指せば「同じ」なのかもわからない。だが、断片は見えてきていた。白濁茸と呼ばれる、異世界の淡い乳白色の茸。風縫いの骨から引いた澄んだスープ。少量の乳脂。火を入れすぎないこと。香りを閉じ込めること。
祖父のメモには《冬、白濁茸、音を立てるな》としか書いていなかった。
意味がわからないようでいて、実際に鍋の前に立つと少しだけわかる。
煮立てれば香りが飛ぶ。
混ぜすぎれば濁りが死ぬ。
静かに作る料理なのだ。
「今日、出す?」
澪が鍋を覗きながら訊く。
「数量限定で」
「紗雪さん来たら?」
「……たぶん出す」
「来る前提なんだ」
「来る気がする」
「へえ」
「何だよ」
「別に。ただ、最近ほんとそういう勘だけは当たるね」
当たってほしいわけではない。
だが、扉の向こうに紗雪の気配が来ることを、少し期待している自分がいるのも確かだった。
彼女は客だ。
それ以上でもそれ以下でもない。
なのに、彼女が店のことをどう見ているかが、妙に気になる。
白いスープの試作も、料理人としての挑戦であると同時に、どこかで「彼女の記憶と今の自分が繋がるのか確かめたい」という気持ちが混じっているのだろう。
そう考えると、少しだけ落ち着かない。
午後五時半。
店を開ける。
最初の客は老夫婦だった。
次に、一人でふらりと来た若い女性が角兎の煮込みを頼み、食後に小さな白いスープも追加した。飲んだあと、何も言わずに少しだけ目を細めた。その顔を見ただけで、恒一はまだ改良の余地があるとわかった。
悪くはない。
だが、決定打ではない。
祖父のスープが誰かの記憶になるほどの皿だったなら、今のこれはまだ入口だ。
「顔が職人」
澪が言う。
「褒めてる?」
「半分」
「半分か」
「もう半分は面倒くさい」
「ひどいな」
そんな会話をしていた時、階段の上から複数の足音が聞こえた。
恒一は反射的に顔を上げる。
だが、そこに現れたのは紗雪ではなく、ビル管理会社の担当者と、見知らぬスーツの男だった。
担当者は前に来た若い男。
もう一人は四十代半ばくらいで、笑っているのに目が笑っていないタイプの人間だった。丁寧なスーツ、丁寧な靴、丁寧な髪。だがその丁寧さは、料理人の世界のそれではない。交渉の席で相手の逃げ道を残しながら詰めていく人間の整え方だ。
恒一の腹の底が少し冷えた。
「こんばんは、朝倉さん」
担当者が言う。
「営業中にすみません」
「……いらっしゃいませ」
恒一は店主としての顔を作る。
「お食事ですか」
「いえ、本日は少しご挨拶だけ」
隣の男が口を開いた。
「再開発側の窓口に近い立場の者です。お店の雰囲気だけ、一度見ておきたくて」
見ておきたくて。
言い方は柔らかいが、要するに品定めだ。
澪が厨房の奥で無言になったのがわかった。
包丁の音が止まる。
「そうですか」
恒一は言う。
「お忙しいようですね」
男は店内を見回す。
「ええ、まあ」
「思っていたより、良い店だ」
「ありがとうございます」
「地下の飲食は、最近どうしても淘汰されますからね」
「……」
「残る理由があるなら、残るのでしょうけれど」
そこまで言って、男は黒板へ目を止めた。
本日のおすすめ
風縫い胸肉のロースト
白いスープ
男の視線が、わずかに止まる。
「風縫い、とは?」
「料理名です」
恒一が答える。
「変わったネーミングですね」
「店の昔からの呼び方で」
「……なるほど」
なるほど、とは言ったが、納得していない目だった。
その目つきに、恒一はかえって腹が据わる。こういう相手に過剰な説明は毒だ。答えを欲しがっているように見せて、本当に見ているのは言いよどみや揺れのほうなのだから。
「また改めて、ゆっくり伺います」
男はそう言って名刺を差し出した。
「その時は、ぜひ料理も」
「機会があれば」
二人は長居せず帰っていった。
けれど、残り香のように嫌な空気だけが残る。
「……最悪」
澪が小さく吐く。
「うん」
「見に来たね」
「完全に」
「窓口に近いって何」
「直接動かす側ではないけど、動きは知ってる人間、って感じだろうな」
「感じ悪い」
「それは否定しない」
恒一は受け取った名刺を裏返した。
会社名は有名な不動産関連だ。再開発側に近いという自己紹介も嘘ではないのだろう。
「このタイミングで来るの、嫌だな」
恒一が言う。
「うん」
「線から外れてるって話の直後だ」
「“外れてる理由”を確認しに来たとか?」
「ありそうで嫌だ」
つまり、向こうも気味悪がっているのだ。
なぜこの区画だけが保留なのか。
誰がそれを止めているのか。
その価値が本当にあるのか。
もしそうなら、安心はできない。
線から外れていることは永遠の保証ではなく、一時停止にすぎないかもしれない。
その時だった。
聞き慣れた足音がした。
少し速く、少し緊張していて、けれど今日はどこか急いでいる。
扉が開く。
「ご、ごきげんよう!」
紗雪だった。
しかも、明らかに少し息が上がっている。
装いはいつも通り上品なのに、様子だけが少し違う。店内へ入った瞬間、彼女はまず恒一を見るのではなく、入口付近を一度確かめた。まるで誰かと鉢合わせしなかったか確認するみたいに。
「いらっしゃいませ」
恒一が言う。
「ええ。……本日も、参りましたわ」
「ありがとうございます」
「……今、どなたか出ていかれませんでした?」
紗雪が小さく訊いた。
「え?」
「いえ、その……少し、外でスーツ姿の方が」
「……」
恒一は一瞬だけ言葉を切った。
気づいているのだ。
そして、あの手の人間を見慣れている。
「関係者の方ですか」
紗雪はさらに低く尋ねる。
「たぶん、再開発の」
「……そう」
その短い返事の中に、わずかな緊張が混ざっていた。
澪もそれを感じたらしく、厨房の奥で目だけを動かす。
紗雪はすぐに取り繕うように背筋を伸ばした。
「べ、別に、わたくしはただ気になっただけですわ」
「はい」
「決して、心配などしておりませんのよ」
「そういうことにしておきます」
「そ、それでよろしくてよ」
いつもの崩れ方だ。
だが、今の彼女の気配は、ただ恥ずかしがっているだけではない。本当に少し、落ち着かないのだろう。
恒一は迷ったが、テーブル席へ案内しながら言った。
「今日、小さな白いスープがあります」
「白い……」
紗雪の目が大きくなる。
「まだ完成ではないんですが、試作の段階でよければ」
「い、いただきますわ」
食い気味だった。
「それと風縫いも」
「かしこまりました」
厨房へ戻ると、澪が小さく言う。
「来たね」
「来たな」
「しかもタイミング悪い」
「うん」
「白いスープ、大丈夫?」
「わからない」
「でも出すんだ」
「今は、出したい」
白いスープを温める。
音を立てるな。
祖父のメモの言葉が、今日に限って妙にはっきり思い出された。小鍋の中で、乳白色のスープが静かに揺れる。白濁茸の香りは、強くはない。むしろ弱い。だが、その弱さの中にだけある深みがある。
風縫いの皿と一緒に、まずスープを出した。
「……こちらを」
恒一が言うと、紗雪は一瞬だけ息を呑んだ。
カップに近い小さなスープ皿。
白い表面。
湯気。
香り。
彼女はスプーンを持ったまま、数秒動かなかった。
それから、そっと一口飲む。
「……」
表情が消えた。
いや、消えたのではない。
感情が一度、奥へ沈んだのだ。驚きとも、懐かしさとも、喜びともつかないものが、その顔の奥で一気に動いている。
二口目。
三口目。
そして、ようやく紗雪は小さく息を吐いた。
「……少しだけ」
彼女が言う。
「はい」
「思い出しましたわ」
その声は、いつもの令嬢口調に乗りきれていなかった。
もっと素に近い、小さくて、あたたかい声だった。
「よかった」
恒一はそれだけ言った。
「でも」
紗雪は顔を上げる。
「同じではありませんのね」
「……はい」
「ええ。ですが、それでよろしいのかもしれませんわ」
「そう思います」
「わたくしも、少しだけ」
そこで彼女はほんの少し笑った。
その笑みを見た瞬間、恒一は、祖父が残した皿に今の自分の手が触れたのだと、ようやく実感した。
同じではない。
けれど、思い出すには足りる。
料理には、そういう届き方もあるのだ。
店の外で何が動いていようと。
再開発の線がどう引かれようと。
今この一口で、誰かの記憶と今をつなげられたのなら、料理人として進むしかない。
そして同時に、恒一の中では別の考えも形になり始めていた。
この店が守られている理由。
祖父と老紳士のつながり。
再開発の線の外に置かれた区画。
それらは、たぶん一つに繋がっている。
まだ答えは見えない。
だが、見えないままでも、もう無視はできなかった。
玻璃亭は、ただ料理を出すだけの地下の小さな店ではないのかもしれない。




