第8話 彼女は祖父と来ていた
同じ客が、誰かと一緒に来る。
料理店にとって、それは一つの節目だ。
一人で来る客には、その人だけの理由がある。味が好き、空気が好き、立地が都合いい、なんとなく落ち着く。理由は様々だ。けれど、誰かを連れてくる時、その店はもう「その人の中だけの場所」ではなくなっている。自分の大事なものを、他人の目にさらしてもいいと思えるくらいには、信用されているということだ。
朝倉恒一は、その日の開店準備をしながら、なぜか少しだけ落ち着かなかった。
理由は一つではない。
ここ数日で店の空気が確かに変わってきたこと。
予約はまだ少ないが、明らかに客筋が広がり始めていること。
そして何より、東條院紗雪が今日も来る気がすること。
気がする、というのは曖昧だ。
けれど、この数日で彼女の足音も、扉を開ける前の間も、席へ着くまでの微妙な緊張も、もう店のリズムの一部みたいになり始めていた。
「また考えてる」
澪が言った。
「お前、それ以外に言うことないのか」
「あるけど、今それが一番合ってる」
「何が見えてるんだよ」
「恒一の顔」
「最悪だな」
「そこまでじゃない」
火乃坂澪は、角兎の煮込みを温めながら、いつものように平然としている。
だが、よく見れば彼女も店の変化を意識しているのだろう。黒板の文字をいつもより丁寧に書き直し、グラスの曇りを二度も確認していた。忙しくなり始めた時ほど、彼女は無口になる。
恒一はカウンターの木を乾いた布で磨きながら言った。
「今日、何か来そうな気がする」
「客?」
「客、っていうか……」
「紗雪さん?」
「何で名前出すんだよ」
「顔に書いてある」
「お前、ほんと嫌な才能あるな」
「接客にはたぶん向かないけど」
それは確かにそうだ。
澪は客へ媚びない。愛想も最低限だ。
だが、店の温度を読むことに関しては誰より早い。どの客が本当に料理を見ているか、どの客が店を品定めしているか、どの客がまた来るか。そういうものを、ほとんど勘だけで見抜いてしまう。
「でも今日は、たぶん一人じゃない」
澪がぽつりと言った。
「……何で?」
「わかんない。でもそんな感じ」
「そんな感じで言うなよ」
「鼻が言ってる」
「何だその理屈」
「恒一だって匂いでわかるとか普段言ってる」
「それを人間関係に適用するな」
「便利なのに」
便利ではある。
だが、そういう時に当たるのがまた腹立たしいのだ。
午後五時半。
店を開ける。
最初の一時間は静かだった。
常連の一人がカウンターへ座り、ワインを一杯だけ飲んで帰っていく。次に、角兎の煮込みを目当てに来たらしい若い夫婦がテーブル席へ着く。派手ではないが、悪くない出足だ。
そして、午後六時四十分過ぎ。
階段の上から、聞き慣れた足音がした。
少し速い。少し緊張している。けれど、今日はその足音が一つではない。
もう一人、別の足音が重なっている。
ゆっくりで、迷いがなくて、重さのない足音。
恒一は思わず背筋を伸ばした。
扉が開く。
「ごきげんよう」
そう言ったのは紗雪だった。
今日の彼女は、いつもより少しだけきちんとした装いだった。淡い生成り色のワンピースに、薄い紺のボレロ。髪も丁寧に巻かれていて、耳元の小さな真珠が揺れている。その整い方のせいで、緊張して顎が少し上がるだけでも、ますます「どこかの令嬢」に見えた。
そして、その半歩後ろから入ってきた人物を見て、恒一は一瞬だけ息を止める。
上品な老紳士だった。
いつもの濃紺のスーツに、白髪の整った横顔。
背筋は相変わらず真っ直ぐで、店へ入ってくる動作そのものに無駄がない。静かなのに、空気の輪郭が変わるような人だ。
「いらっしゃいませ」
恒一が頭を下げる。
「こんばんは」
老紳士は穏やかに言った。
「ご、ごきげんよう……本日も、お席はございますわよね?」
紗雪が続ける。
「はい、もちろんです」
「そう。ならば結構ですわ」
結構ですわ、と言いながら、紗雪はほんの少しだけ安心した顔をした。
どうやら、今日も入れるか心配していたらしい。令嬢口調なのに、やっていることはだいぶ可愛げがある。
恒一は二人を奥のテーブル席へ案内した。
普段なら老紳士はカウンターの奥へ座る。だが今日は紗雪と一緒だからか、テーブルを選ぶ。店内に他の客がいる以上、そちらのほうが落ち着いて話せると判断したのだろう。
席についた紗雪は、いつもよりさらに姿勢が綺麗だった。
隣の老紳士に対してだけ、彼女は少し呼吸が自然になる。緊張はしているが、独りで来る時の張りつめ方とは違う。無理に強く見せようとしていない、家の中に近い顔だ。
「お飲み物は、いつも通りでよろしいですか」
恒一が老紳士へ訊く。
「ええ。赤を一杯」
「紗雪さんは?」
「……同じものは、まだ早いと言われておりますの」
「では、紅茶で」
「ええ」
老紳士がほんの少しだけ口元を緩めた。
祖父と孫というより、もう少し静かな関係に見える。互いに過度に干渉しない。だが、その距離には確かな信頼がある。
注文は、風縫いと角兎を一皿ずつ。
それを聞いて、恒一は心の中で小さく頷いた。
やはり、この人は客としての勘がいい。今の玻璃亭の軸になっている二皿を、迷わず選んだ。
「来たね」
厨房へ戻ると、澪が言う。
「来たな」
「しかもおじいさん付き」
「お前、初対面じゃないだろ」
「知ってる。でも一緒に来るとやっぱり違う」
「そうだな」
店の空気が変わるのだ。
単純に「大物感があるから」ではない。
老紳士がこの店に入ってくると、もともと地下にあった静けさの質が少しだけ変わる。料理店としての時間が、少し丁寧になる。
澪が小声で言う。
「紗雪さん、今日はちょっと落ち着いてる」
「一人じゃないからだろうな」
「おじいさんの前だと自然なんだ」
「かもな」
皿を作る。
風縫いのローストは、香りを立たせるため火入れをほんの数十秒だけ短くする。角兎の煮込みは、ソースの艶を保つために最後の一瞬まで鍋で泳がせる。
同じ料理を繰り返していても、まったく同じ皿にはならない。客の顔ぶれ、店の湿度、出すタイミング、その全部で火加減は変わる。
今日は少しだけ、背筋を正したくなる皿だった。
「お待たせいたしました」
二皿を出す。
老紳士はいつものように、まず皿を見た。
紗雪は、その横顔を見てから、自分の皿へ視線を落とす。たぶん彼女は、この人がどういうふうに料理を見るのかを昔から知っているのだろう。
風縫いを一口。
老紳士は静かに頷いた。
角兎を一口。
今度は、わずかに目を細める。
「やはり」
と彼は言った。
「やはり?」
紗雪が小さく訊く。
「ここは、ここでしたな」
「……そうですわね」
短い会話だった。
けれど、そのやり取りの中に、恒一の知らない時間があることがわかる。二人にとって、この店は「最近見つけた地下の名店」ではない。もっと前から、もっと別の形で知っている場所なのだ。
紗雪は風縫いを口に運んでから、今日はいつもより少し自然に言った。
「やはり、この香りは不思議ですわ」
「お好きですか」
「……ええ。少し、胸が騒ぎますの」
「胸が騒ぐ?」
「美味しいものをいただいた時の騒ぎですわ。変な意味ではなくてよ」
「そちらの意味で受け取ります」
「そ、そうなさい」
それを聞いていた老紳士が、ふっと笑った。
初めて見る表情だった。
大きく声を上げるわけではない。ただ、孫の癖を知っている人間だけが見せる、ごく小さな、あたたかい笑み。
「紗雪は、昔から言葉が少し遠回りなのです」
老紳士が言う。
「お、お祖父様」
「事実でしょう」
「それは……否定しきれませんけれども」
“お祖父様”。
その呼び方を聞いた瞬間、店の中のいくつかの点が一本で繋がった。
恒一は思わず瞬きをした。
澪も厨房の奥で、明らかに「やっぱり」と書いてある顔をしている。
「では……」
恒一が少しだけ慎重に言葉を選ぶ。
「紗雪さんは、前からこちらへ?」
「ええ」
答えたのは老紳士だった。
「幼い頃に、何度か連れて来たことがあります」
「……やっぱり」
恒一は思わず漏らした。
「覚えていらしたのですか?」
紗雪が顔を上げる。
「いえ、僕はその頃まだ厨房にも立っていない頃なので……ただ、そうじゃないかと思っていました」
「そう」
紗雪は少しだけ目を伏せる。
「わたくし、はっきり全部を覚えているわけではありませんの。けれど、地下へ降りる階段と、ここに入った時の匂いと、白いスープのことだけは、ずっと忘れられませんでしたわ」
白いスープ。
祖父のレシピ帳に、そういう一頁があった気がする。
《冬の白濁茸 乳化のこと》
それだけ書かれていて、何のことかわからなかったページだ。
「祖父の料理を?」
恒一が問う。
「ええ。まだ小さい頃に」
紗雪は言う。
「家ではあまり食が細くて、食べる量も少のうございましたの。でも、ここでいただいたスープだけは……なぜか全部飲めたのですわ」
「紗雪は、その時のことをよく覚えていましてね」
老紳士が静かに続ける。
「ですから、この店がまだここにあると知った時、もう一度連れて来ようと思っていたのです」
「……」
胸の奥に、何かがゆっくり落ちてくる感じがした。
この店は、恒一にとっては祖父の遺した場所で、今は自分が守ろうとしている場所だ。
けれど、同時に、それは誰かの子どもの頃に残った匂いでもあった。
知らなかった。
祖父が残したのはレシピや包丁だけではなく、誰かの記憶だったのだ。
紗雪は少しだけ視線を泳がせてから、小さく言った。
「ですから、その……」
「はい」
「最初にこちらへ再び参った時、あまりにも変わっていなかったものですから……驚いてしまって」
「……それで、あの口調に?」
恒一がつい言うと、紗雪は固まった。
「な……」
「な?」
「な、何のことでして!?」
「いえ、その」
「べ、別に! わたくしはいつもあのように堂々としておりますけれど!?」
「はい」
「はい、ではありませんわ!」
見事にいつもの調子へ戻った。
けれど、顔は真っ赤だし、老紳士は隣で肩を揺らしている。笑いを堪えているのだろう。孫のこういうところも、ずっと前から見てきた顔だった。
「失礼いたしました」
恒一が頭を下げる。
「まったくですの」
「でも、少し安心しました」
「何がですの」
「ここに来る理由が、ちゃんとあったんだなって」
「……」
紗雪は言葉を止めた。
それから、皿の上の角兎を見つめて、ほんの少しだけ表情をやわらげる。
「理由など」
彼女は小さく言った。
「美味しい店へ通うには、それで十分ではなくて?」
「それはそうですね」
「ええ、そうですわ」
言いながら、今度はあまり取り繕っていなかった。
理由を全部言わなくても、通いたいと思う気持ちが本物なら、それで十分だという顔だった。
その時、店の外――階段のほうから、人の気配がした。
強いものではない。
ただ、扉の前で一瞬立ち止まったような気配。
恒一は反射的にそちらを見た。
「どうかしましたか」
老紳士が静かに問う。
「……いえ」
恒一は首を振る。
「気のせいかもしれません」
だが、紗雪はその一瞬で顔色を変えていた。
ほんのわずかだ。けれど、祖父と一緒にいる時にしか見せない自然さが、また少し引っ込む。外の気配に敏感になっている。
「紗雪さん?」
恒一が小さく呼ぶ。
「だ、大丈夫ですわ」
彼女はすぐに答えた。
「少し……外が騒がしい気がしただけですの」
「この辺り、最近人の流れも変わってますから」
「ええ。そうでしょうとも」
紗雪はそう言いながらも、少しだけ指先を固くした。
老紳士はその変化に気づいているらしかったが、何も言わない。ただ、ワインを一口含み、店の空気を壊さないように会話の向きを変えた。
「風縫いも見事ですが、角兎の煮込みも良い」
「ありがとうございます」
「祖父君の鍋に、君自身の考えが入っていますね」
「……わかりますか」
「食べれば」
その言い方が、いかにもこの人らしかった。
「継ぐというのは、真似ることではありませんからな」
老紳士が続ける。
「同じ皿を出し続けることではなく、同じ場所で、新しい皿を出し続けることのほうが難しい」
「……はい」
「君は、ようやくそこに立ち始めたのでしょう」
恒一は返事ができなかった。
褒められたからではない。
その言葉が、今の自分に必要な温度で刺さったからだ。
祖父の店を守る。
そのつもりでここまでやってきた。
けれど守るとは、止めることではない。新しい皿を出し続けることでもある。頭ではわかっていたが、他人の口から言われると、急に形を持つ。
紗雪がそのやり取りを見て、少しだけ誇らしそうな顔をした。
自分の店でもないのに。
けれど、その「自分の店でもないのに」という線引きが、だんだん曖昧になってきている気もした。
食事を終えた頃には、店内の他の客もほとんど帰っていた。
地下の店に、遅い時間の静けさが戻る。
会計の時、老紳士はいつも通り淡々としていたが、帰り際に恒一へだけ聞こえる声で言った。
「紗雪にとって、この店は思っている以上に大きな場所なのです」
「……はい」
「それは、あの子自身もまだ、うまく言葉にできていないでしょうが」
「わかる気がします」
「君も、言葉の少ない店で育ったようだ」
「祖父が、ああいう人でしたから」
「ええ。存じています」
その「存じています」に、また恒一の知らない過去が滲む。
老紳士はそれ以上は語らず、紗雪へ「行こう」と短く声をかけた。
紗雪は立ち上がり、会計を済ませると、少しだけ恒一のほうを見た。
「本日も……」
「はい」
「とても、良うございましたわ」
「ありがとうございます」
「それと」
「はい」
「今度、その……」
「はい」
「白いスープが、もし可能でしたら」
恒一は一瞬だけ目を見開いた。
白いスープ。
祖父のレシピ帳に、断片だけ残っていたあの料理。
「作ってみます」
恒一が答えると、紗雪はほんの少しだけ笑った。
笑った、と言っても、大きなものではない。
口元がわずかにほどけただけだ。
けれど、それがこの数日の中で一番自然な彼女の表情だった。
「……楽しみにしておりますわ」
二人が階段を上がっていく。
足音は二つ。
けれど来た時より少しだけ軽く聞こえた。
扉が閉まる。
しばらくしてから、澪が厨房の奥から出てきた。
「聞いた?」
「どこまで」
「ほぼ全部」
「盗み聞きするな」
「店狭いから聞こえる」
「それはそうか」
澪はカウンターへ寄りかかり、面白がるでもなく、ただ少し真面目な顔で言った。
「紗雪さん、ほんとに昔から来てたんだね」
「そうみたいだな」
「だから、あんなに最初からこの店の空気に引っ張られてたんだ」
「……かもな」
「ただの“いい店見つけた客”じゃなかった」
「うん」
恒一はテーブル席を見た。
さっきまで紗雪と老紳士が座っていた席だ。水のグラス、使われたカトラリー、ナプキンの折れ方。そこに二人がいた痕跡がまだ残っている。
この店は、思っていたよりも多くの人の時間を抱えている。
祖父が残したのは、料理だけじゃない。
階段を下りる足音の記憶。
幼い日に飲んだ白いスープの湯気。
また来たいと思った誰かの気持ち。
そういうものが積もって、玻璃亭はまだここにある。
澪が言う。
「白いスープ、作るの?」
「作る」
「メモ、あったっけ」
「断片だけ」
「できそう?」
「……わからない」
「でもやるんだ」
「やるよ。ああいう頼まれ方したら、料理人は断れない」
「ふうん」
「何だよ」
「ちょっと嬉しそう」
「それは」
恒一はそこで言葉を切る。
「まあ……少しは」
紗雪がこの店を覚えていたこと。
祖父の料理を求めていたこと。
そして、それを今の自分に向けて頼んだこと。
その全部が、料理人として嬉しくないはずがなかった。
「でも」
恒一は小さく続ける。
「外の気配、あの人も気にしてた」
「うん」
「再開発だけじゃないかもしれない」
「うん」
「店が少し動いただけで、見てる人間が増えてる」
「うん」
「……簡単じゃないな」
「簡単だったら、つまんないでしょ」
澪の返しが妙に軽くて、恒一は苦笑した。
この相棒は、怖いことを怖いと言うくせに、最後の一歩で妙に肝が据わっている。
営業後の店内に、静かな灯りが残る。
銀座の地下。
小さなレストラン。
異世界の食材。
再開発の影。
そして、祖父の味を探して戻ってきたお嬢様。
少し前まで、自分の手の中にあるのは赤字の帳面と古い厨房だけだと思っていた。
けれど今は、そのどちらも間違っていなかったのだとわかる。
帳面の数字も現実だ。
だが、この店に残された記憶もまた、現実なのだ。
恒一はふと、祖父のレシピ帳を開きたくなった。
白いスープの断片。
あの人が残した短すぎるメモの向こうに、まだ知らない皿がいくつも眠っている気がする。
そしてたぶん、そのどれかが、この店の次の灯になる。




