第7話 銀座で出してはいけないうまさ
噂というものは、火と同じだ。
大きく燃え上がる時だけが危険なのではない。むしろ、本当に気をつけなければならないのは、目に見えないほど小さな火が、気づかないうちに壁の裏を這っていく時だ。
銀座の飲食店街では、その火の回り方がとくに早い。
表で派手に騒がれない店でも、料理人の間、ワイン好きの間、取引先の間、会食先を探している秘書同士の間、そういう細い水脈のような人のつながりを通して、「あそこ、少し妙だ」「でも、妙にうまいらしい」といった話がじわじわ広がる。
そして、玻璃亭の地下にも、そういう気配が確かに降りてき始めていた。
その日の開店前、朝倉恒一は仕込みの合間に、予約帳を見て、二度見した。
「……何だこれ」
「どうした」
鍋の火加減を見ていた澪が振り向く。
「予約、一件入ってる」
「それは店として普通では」
「いや、うちに前日予約が入るの、最近だとかなり珍しい」
「どんな人」
「名字だけ。三名」
「接待っぽい?」
「っぽい」
玻璃亭は常連がふらりと来る店であって、何日も前から押さえられるような店ではなかった。少なくとも、ここ数年はそうだった。祖父の代ならまだしも、恒一が継いでからは、予約帳に名前が埋まる日より、白紙のまま終わる日のほうが多い。
それが三名。しかも、いかにも会食に使われそうな感じの名字。
恒一は喉の奥が少し乾くのを感じた。
「……来たかもな」
「何が」
「噂」
「ああ」
澪はすぐに意味を察したらしく、短く頷いた。
風縫いのロースト。角兎の煮込み。
どちらも派手に宣伝したわけではない。黒板に小さく書いて、来た客へ出しただけだ。それでも、老紳士のような客、紗雪のような客、そして昨日ふらりと来た男のような客が、それぞれ別の場所へ何かを持ち帰っていく。味そのものか、店の空気か、それとも「銀座の地下に妙な店がある」という話題か。
理由はともかく、波が来るのは悪いことではない。
悪いことではないが、同時に怖い。
「目立ち始めておりますもの、ってこういうことか」
恒一が呟く。
「紗雪さんの言ってた」
「名前で呼ぶの、定着したな」
「だって東條院様って距離あるし」
「いや、そうだけど」
澪はまな板の上で根菜を切りながら、さらりと言った。
「でも、客が増えるのはいいことじゃん」
「いいことだよ」
「なのに顔は重い」
「いいことだけじゃない」
「まあね」
「食材のこともある」
「うん」
「風縫いも角兎も、毎日出せる数じゃない」
「うん」
「しかも、来る客の質が変わると、見られ方も変わる」
「うん」
全部わかっている、という返事だった。
店が流行らない苦しさは、数字としてわかりやすい。
だが、店が少し流行り始めた時の怖さは、もっと曖昧で、もっと厄介だ。客が増えることそれ自体は嬉しい。だが同時に、「どうしてこの店だけがこういう味を出せるのか」という目も増える。食材の出所、料理の再現性、店の背景。誰かがそこへ踏み込んでくる日も、遠くない。
恒一は黒板の前に立ち、今日のおすすめを書いた。
本日のおすすめ
角兎の赤ワイン煮込み
風縫い胸肉のロースト
書いてから、一瞬だけ迷う。
両方出すのは攻めすぎだろうか。いや、今日は予約もある。客が増えるなら選択肢は必要だ。どちらか一つだけだと、店の幅がないと思われるかもしれない。
だが、幅を見せれば、それだけ「この店は何者だ」という疑問も強くなる。
「……どう思う?」
恒一が黒板を見たまま尋ねる。
「出すなら両方」
澪は即答した。
「迷わないな」
「迷うなら、一生迷う」
「雑だな」
「でも当たってるでしょ」
「……当たってる」
店を立て直すと決めた時点で、安全なやり方だけでは足りない。
むしろ、少し危ういくらいの火加減で進めなければ、銀座の地下で埋もれたまま終わる。
だったら今日は両方出す。
その代わり、数は絞る。
風縫い二皿、角兎三皿。
足りなくなるなら足りなくなるでいい。最初は「毎日ある店」ではなく、「運が良ければ出会える店」のほうが、この地下には似合う気もした。
午後五時半。
店を開けると、いつもより少しだけ空気が張っていた。
店内の問題ではない。恒一自身の中にある緊張が、地下の静けさにそのまま乗っているのだ。
「肩上がってる」
澪が言う。
「お前もな」
「私はいつも」
「嘘つけ」
そうしているうちに、最初の客が来た。
昨日まで見たことのない男だった。
三十代後半、上質だが目立ちすぎないスーツ。入ってきた瞬間、店の広さではなく照明の色と椅子の配置を見る目をした。食べる前から「ここを誰かに使わせられるか」を判断している人間の視線だ。たぶん秘書か、あるいは会食先の下見に来た側の人間。
「いらっしゃいませ」
「一人です」
「どうぞ」
男はカウンターではなく、入口に近いテーブル席へ座った。
メニューを見て、水を一口飲み、それから黒板を見る。その視線が一瞬止まった。
「角兎?」
「本日のおすすめです」
「……珍しい名前ですね」
「ええ」
「どちらの食材で?」
「独自の仕入れです」
「そうですか」
それ以上は聞いてこない。
だが、聞かないことと気にしていないことは違う。男の目は明らかに「覚えた」目だった。
「では、その角兎を」
「かしこまりました」
厨房へ戻ると、澪が小声で言った。
「見てたね」
「見てたな」
「探ってる」
「うん」
「どうする?」
「どうもしない。料理出す」
結局、そこへ戻るしかない。
角兎の煮込みを皿へ盛る。
肉はほろりと崩れすぎないぎりぎりで止め、ソースは艶を保つ濃度に整える。付け合わせの根菜は甘みが立つまで火を入れるが、柔らかくしすぎない。料理の印象は一つで決まらない。主役が珍しいほど、脇役は静かに強くあるべきだ。
皿を出す。
男は香りを嗅ぎ、最初の一口を慎重に運んだ。
そして、すぐには表情を変えなかった。そういうタイプだ。だが、二口目でグラスの水ではなくワインリストへ手を伸ばしたので、恒一は少しだけ安心した。
合わない料理に、わざわざ酒は足さない。
そのあと、予約の三名が来た。
想像通り接待に近い空気だったが、店を使う側ではなく「使われる側」に近い客たちだった。誰かに勧められて来たのだろう。黒板を見て、まず風縫いと角兎の両方に目を留める。料理名の意味がわからずとも、そこに何かがあると察する人間の反応だ。
「おすすめは、どちらでしょうか」
一人が尋ねる。
「性格が違います」
恒一が答える。
「風縫いは香りが立つ一皿です。角兎は、より落ち着いた煮込みです」
「では、両方いただいても?」
「もちろんです」
注文が重なる。
厨房の熱が一気に上がる。
「きたね」
澪が短く言う。
「きたな」
コンロを二口使う。
片方で風縫いを焼き、片方で角兎のソースを整える。パンを温め、皿を温め、根菜の焼き目を見て、ワインのタイミングをホールに伝える。店が小さいぶん、忙しさは逃げ場なく厨房へ集まる。
だが、不思議と手は止まらなかった。
祖父と二人でやっていた頃の記憶が、こういう時だけは体の奥から戻ってくる。足りない戦力を嘆くより先に、今ある手でどう回すかを考える感覚。ガラスの向こうの銀座に置いていかれないために、地下の小さな火を絶やさない手際。
皿を出すたび、客の空気が少し変わるのが見える。
風縫いの皿では、まず香りで。
角兎の皿では、二口目以降の静かな満足で。
派手に驚く客はいない。
だが、それでいい。
銀座の食通ぶった客ほど、大声で褒めるより、帰り際の目つきや会計の態度に本音が出る。
今日の客たちは、みなその目をしていた。
そして、そこへまた別の火が落ちる。
階段の上から、聞き慣れた足音。
少し速くて、少し迷いがなくて、でも扉の前で一呼吸置く足音。
東條院紗雪だった。
「ご、ごきげんよう」
今日はいつもより少しだけ遅い時間の来店だった。
そのせいか、店内にはすでに他の客がいる。紗雪は一歩入ったところで、その視線の数に気づいたらしく、一瞬だけ肩を固くした。
けれど、帰らない。
「いらっしゃいませ」
恒一が言う。
「ええ。……本日も、席が空いているようですので」
「どうぞ」
「ええ」
紗雪はいつものテーブル席へ向かう。
他の客の視線を受けても、歩き方は崩れない。姿勢も綺麗だ。ただ、席についたあとメニューを開く指先だけが少し強張っていた。
恒一は水を運ぶ。
「今日は少し賑やかですね」
紗雪が小さく言う。
「ありがたいことに」
「……そうですわね」
「何かお召し上がりになりますか」
「風縫いを」
「かしこまりました」
「それと」
「はい」
「……本日は角兎も少し、いただいてみたいですわ」
「両方?」
「も、問題がありまして?」
「いえ、嬉しいです」
「そ、そう」
また耳が赤くなる。
そのやり取りを、さっきの秘書らしき男がちらりと見ていた。
ただし、今度は品のない視線ではない。むしろ、「常連なのか」と値踏みする目だ。店の常連客の顔ぶれまで、その店の格に数える人種はいる。
それに気づいた瞬間、恒一の胸に少しだけ嫌なものが走った。
紗雪は、この店に来るだけで十分に目立つ。
育ちの良さも、装いの質も、隠しようがない。
もしこの店が変に噂になれば、彼女にまで余計な視線が向くかもしれない。
「どうした」
澪が小声で言う。
「いや」
「顔」
「出てる?」
「ちょっと」
「最悪だな」
「今日は多いね」
言いながらも、澪の手は止まらない。
風縫いの皿と角兎の小皿を同時進行で作る。今日は忙しい。だが、忙しさの中に確かな手応えがある。
これが欲しかった。
料理店としての熱だ。
皿を紗雪の前へ出す。
「お待たせしました。風縫いのローストと、角兎の小さな煮込みです」
「……まあ」
紗雪の目が静かにほどける。
彼女はまず風縫いを一口、それから角兎を少しだけ口にした。
食べ比べるみたいに、行ったり来たりしながら皿を見る。その姿は、最初に来た頃よりずっと自然だった。料理を味わう時だけ、余計な鎧が薄くなるのは相変わらずだが、今日はその薄さが少し長く続いている。
「本日は、店の空気まで少し違いますわね」
ふいに紗雪が言った。
「違いますか」
「ええ。忙しそうなのに……どこか、生きている感じがいたしますの」
「それ、たぶん褒めてくれてますよね」
「もちろんですわ」
「ありがとうございます」
「ただし」
「ただし?」
「少々、浮かれてもいらっしゃいますわ」
「……そんなにわかりやすいですか」
「少しだけ」
「紗雪さんに言われると、ちょっとへこみます」
「へこまないでくださいまし。いえ、その……悪い意味ではなく」
紗雪は慌てて言い直し、また少し赤くなる。
だが、今の言葉は図星だった。
恒一は、店の空気が動き始めたことに確かに浮かれていた。
嬉しかったのだ。
客が料理を待ち、皿が次々出て、会計の音が重なり、地下の小さな店が「ちゃんと店になっている」と感じられることが。
けれど、それに酔いすぎれば足元をすくわれる。
紗雪は、客としてそれを見抜いたのだろう。
「気をつけます」
恒一が言うと、
「ええ。そのほうがよろしくてよ」
紗雪はどこか安心したように頷いた。
その時、予約の三名のうち一人が会計の際に言った。
「ごちそうさまでした。ここ、誰に教わったんだったかな」
「確か、木崎さんだよ」
「ああ、あの人か。『銀座で人に教えたくない店見つけた』って言ってたな」
「なるほど」
恒一は表情を動かさなかったが、内心ではかなり強くその言葉を受け止めていた。
人に教えたくない店。
それは誉め言葉だ。間違いなく。
だが、その一方で、教えたくないと言いながら結局人に教えられている時点で、噂はもう細い輪ではなくなりつつある。
予約客たちを見送ったあと、最初に来た秘書らしき男も帰り際に名刺を置いていった。
「また使わせてもらうかもしれません」
「ありがとうございます」
「料理、印象的でした」
「光栄です」
印象的。
便利な言葉だ。
だが銀座でその言葉が出た時は、だいたい悪くない。
店内がようやく落ち着くと、紗雪は最後の一口をゆっくり食べ終えた。
「……今日は、いつもより少し、誇らしい気持ちになりますわ」
「誇らしい?」
「ここが賑わっているのを見ておりますと」
「それは、店としてはすごく嬉しいです」
「そうでしょうとも」
紗雪は小さく顎を上げる。
だが次の瞬間には、視線を少しだけ伏せた。
「ただ」
「ただ?」
「少しだけ……不安でもありますの」
「何が」
「こういう店は、本来、静かに守られるべきもののような気もいたしますから」
その感覚は、恒一にもわかる。
玻璃亭はもともと、階段を下りてきた者だけが辿り着けるような店だった。
見つかりすぎないことも、この店の一部だった。
だが、今は客が増えなければ潰れる。
そして、増えれば秘密は薄くなる。
「難しいですね」
恒一が言う。
「ええ。とても」
「でも、誰にも知られないままだと、残れない」
「……それも、わかりますわ」
「だから、たぶんちょうどいいところを探すしかないんでしょうね」
「料理も、人も、そういうものですの?」
「かもしれません」
「そう」
紗雪はそれ以上言わなかった。
けれど、その横顔は少しだけ柔らかかった。
この店のことを、自分一人だけが思っているわけではないとわかって、少し安心した人の顔だった。
閉店後、紗雪を見送ったあとで、恒一は売上帳を開いた。
数字は、明らかにここ数日で一段上がっている。
爆発的ではない。
だが、はっきりと変わっている。
「どう?」
澪が皿を拭きながら聞く。
「……笑えない赤字ではなくなってきた」
「それはかなり大きい」
「うん」
「でも」
「うん、でも怖い」
「だよね」
「客が増えるほど、食材のこと誤魔化しきれなくなる」
「うん」
「毎日同じもの出すわけにもいかない」
「うん」
「それに……」
恒一はそこで少し言い淀んだ。
「紗雪さん」
「何」
「目立つ」
「まあ、目立つね」
「この店が変に噂になると、あの人まで巻き込むかもしれない」
「……」
澪は少しだけ手を止めた。
「優しいじゃん」
「そういう言い方やめろ」
「でもそうでしょ」
「客に余計な迷惑かけたくないだけだ」
「はいはい」
「何だよ」
「別に。ただ、そこまで考えるくらいには常連なんだなって」
「……」
「私も気をつける」
「え」
「店の中、変なの入れないように」
「お前が言うと、物理的に聞こえるな」
「半分くらいはそういう意味」
冗談とも本気ともつかない顔だった。
恒一は苦笑したあと、もう一度売上帳を見た。
数字は確かに上向いている。
だが、その数字の裏には、今までなかった種類の緊張も積み上がっていた。
地下の小さな店に、客が戻る。
それは希望だ。
そして同時に、何かに見つかり始める合図でもある。
銀座で出してはいけないうまさ、という言葉がふと頭をよぎる。
もちろん、本当に出してはいけないわけじゃない。
むしろ出さなければ店は終わる。
けれど、あまりに人を惹きつける味というのは、それだけで秘密を削る。
「……次、どうする」
澪が聞いた。
「次?」
「食材」
「そうだな……」
「また潜る?」
「潜るしかないだろ」
「うん」
その短い会話の中に、もう迷いはあまりなかった。
店を回しながら、森へ行く。
森から持ち帰ったものを、銀座で皿にする。
その危うさごと抱えながら、玻璃亭は少しずつ息を吹き返していく。
火は小さい。
だが、もう確かに消えかけてはいなかった。




