第6話 悪役令嬢みたいなお嬢様は、本当はいい子
料理店における「感じのいい客」というのは、案外単純ではない。
愛想よく褒めてくれる客が、必ずしも料理人にとってありがたいとは限らない。反応が大きくても、それが場のノリだけなら皿には残らない。逆に、言葉少なくても皿のソースまできれいに拭って帰る客のほうが、よほど店を覚えていることもある。
朝倉恒一は、その日の仕込みをしながら、昨日の最後に見た東條院紗雪の背中を思い出していた。
来ますわ、と言って。
自分で言ってから真っ赤になって。
逃げるみたいに階段を上がっていった、あの足音。
「また考えてる」
背後から澪の声。
「最近そればっかりだな、お前」
「わかりやすいから」
「顔に出てる?」
「出てる」
「最悪だな」
「店員兼相棒としては便利」
火乃坂澪は、シンクで洗ったばかりの根菜を水切りしながら、いつもの調子で言った。
昨日仕留めた角兎は、すでに半分ほどが赤ワイン煮込みへ化けている。鍋の中では、祖父から受け継いだデミグラスソースに星喰いの実の果汁が混ざり、深い甘さと微かな刺激を含んだ香りを立てていた。風縫いのローストが「銀座の地下に突然現れた異質な一皿」だとしたら、角兎の煮込みは「この店が昔からずっと知っていた味」に近い。
現代の食材ではないのに、不思議と懐に入ってくる香りだった。
「煮込み、かなり良い」
澪が鍋を覗き込みながら言う。
「昨日より肉が早くほどけた」
「角兎、やっぱり煮る向きなんだね」
「祖父のメモ、正しかった」
「今さら疑ってたの?」
「いや、正しいのは知ってるけど、説明不足なんだよ全部」
「それは同意」
「《煮るほうが早い》じゃなくて、もうちょい書けるだろ普通」
「おじいさんの中では十分だったんでしょ」
「料理人って、たまに自分だけわかってる前提で書くから困る」
「恒一も将来そうなりそう」
「やめてくれ」
そう言いながらも、恒一は少し笑っていた。
祖父のメモは相変わらず雑だ。
けれど、その雑さの奥にあるものを、今の自分は少しずつ読めるようになってきている。
風縫いのローストに続いて、角兎の煮込み。
もしこれも当たれば、玻璃亭は「一度だけ面白い料理を出した店」ではなくなるかもしれない。少なくとも、そういう可能性に賭けられる。
店の立て直しは、奇跡の一皿では足りない。
客が「また来たい」と思う理由を、いくつも重ねなければならない。
その意味で、今日来るであろう客は、かなり重要だった。
「……やっぱり来ると思う?」
恒一が何気なく聞くと、
「悪役令嬢?」
と澪は即答した。
「その呼び方やめろって」
「でもわかるじゃん」
「わかるけど」
「来ると思う」
「即答だな」
「昨日の顔」
「顔?」
「風縫い食べた時の。あれは来る」
「そこまでわかるのか」
「料理で顔変わる客は、だいたいもう一回来るよ」
「お前、接客向いてるのか向いてないのかわからんな」
「向いてないから厨房いる」
その自己分析は妙に正確だった。
午後五時半。
店を開ける。
階段を下りてくる最初の足音が紗雪のものであることを、恒一は三段目くらいで察した。昨日までと違い、もう耳が覚えてしまっている。上品に歩こうとしているのに、緊張で少し速くなる足音。立ち止まらない。けれど、開店直後に来るのを気にしているらしい微妙なためらいもある。
扉が開いた。
「ご、ごきげんよう」
今日も来た。
東條院紗雪は、昨日よりやや落ち着いた色味の服を着ていた。薄いグレーのワンピースに、白に近い淡いジャケット。髪はまとめすぎず、片側だけ耳にかけている。そのせいか、きつく見えがちな目元も少しだけ柔らかい。
ただし、緊張しているのは変わらなかった。
「いらっしゃいませ」
恒一が言う。
「ええ。本日も参りましたわ」
「ありがとうございます」
「当然ですの」
「そうですか」
「……そ、そうですわ」
自分で言って自分で少ししぼむ。この流れも、もう見慣れてきた。
「お席は昨日と同じでよろしいですか」
「そ、そのように取り計らいなさい」
「かしこまりました」
テーブル席へ案内すると、紗雪は座る前に小さく店内を見回した。
その視線に、昨日までとは違うものがある。
初めて来た場所を見る目ではなく、二度目、三度目に入った場所の確認の仕方だ。照明、カウンター、壁際の棚、厨房の奥。ここに何があるかを少し知った人間の目になっている。
それだけで、店の空気が少し変わる。
「本日のおすすめは?」
紗雪がメニューを開きながら言う。
「本日は、角兎の赤ワイン煮込みをご用意しています」
「つ、角兎……?」
「はい」
「角が生えておりますの?」
「ええ、まあ」
「……不思議な店ですわね」
「最近、僕もそう思ってます」
「店主がそれでよろしくて?」
少しだけ、会話が噛み合った。
紗雪自身もそれに気づいたのか、目をぱちりと瞬かせる。そして、昨日までよりほんの少しだけ自然な声で言った。
「では……それをいただきますわ」
「かしこまりました」
厨房へ戻ると、澪がすでに鍋の火を調整していた。
「来たね」
「来たな」
「今日はちょっと普通だった」
「ちょっとな」
「その“ちょっと”でも大進歩」
「確かに」
角兎の煮込みは、仕上げの段階に入っている。
肉はほろりと崩れる一歩手前まで柔らかくなり、ソースはデミの深みに星喰いの実の甘みと微かな刺激が溶けて、重いのに重すぎない。煮込み料理は見た目こそ派手ではないが、店の底力が出る。
恒一は一口だけソースを味見した。
昨日より少し塩を立てている。角兎の身が優しい分、輪郭を作らないと沈むからだ。付け合わせはバターを控えめにした根菜のロースト。皿全体としては重心が低いが、星喰いの実の香りが後ろへ抜けるようにしてある。
「出せる」
恒一が言う。
「うん」
澪が短く返す。
皿を仕上げ、紗雪の前へ運ぶ。
「お待たせいたしました。角兎の赤ワイン煮込みです」
「……あ」
紗雪の目が丸くなった。
風縫いのローストの時とは違う。
あちらが異質さで驚かせる料理だとすれば、こちらは香りの時点で安心と違和感が同時に来る。煮込みの甘い深さの中に、嗅いだことのない青い刺激が混ざっているせいだろう。
紗雪はスプーンを取り、まずソースから少しだけ口へ運んだ。
そのあと、肉を切る。
ほろりと崩れる。
小さく息を飲む。
口へ入れる。
「……っ」
今度の反応は、昨日とも一昨日とも違った。
驚きというより、温度だった。
頬の緊張がほどけて、目元にだけやわらかな熱が残る。
「……これ」
言いかけて、彼女は言葉を探すように黙り込んだ。
「お口に合いましたか」
恒一が尋ねると、紗雪はほんの少し俯いてから答える。
「……あたたかい、ですわ」
それは料理の感想としては少し曖昧だ。
だが、たぶん今の彼女にはそれが一番正確な言葉だった。
「ありがとうございます」
「ええ。いえ、その……変な意味ではなく」
「わかります」
「そ、そう?」
「はい」
紗雪はそれ以上うまく言えなかったのか、また一口、煮込みを口へ運んだ。
皿に向き合う姿勢が綺麗だ。
必要以上に音を立てない。急がない。けれど、遠慮して食べているわけでもない。料理に対する礼儀がきちんとある人間の食べ方だった。
恒一はその様子を見て、やはり思う。
この人は、ただの「上流の客」ではない。
皿を前にした時の真剣さが、銀座で見かけるただのグルメ気取りとは違う。
その印象をさらに強くしたのは、それから十分もしないうちに起きた小さな出来事だった。
四十代くらいの男性客が一人、ふらりと入ってきた。
常連ではない。スーツは高そうだが着崩しが雑で、香水が少し強い。店を見回す視線が、料理を見るより先に「どんな店か値踏みする」類のものだ。
「へえ、こんなとこに店あったんだ」
「いらっしゃいませ」
「今から一人いける?」
「はい、どうぞ」
カウンターへ案内する。
男はメニューを開きながら、ちらりと紗雪のほうを見た。
その視線に、ほんのわずかだが、品のない軽さが混じっている。恒一はすぐに気づいたが、反応するほどでもないと判断した。客商売をしていれば、その程度の視線は珍しくない。
だが、紗雪は違った。
彼女は自分の皿を前にしたまま、ほんの少しだけ表情を固くした。気づいていないふりをしているが、気づいている。
男はワインを注文し、店の様子を見回しながら言う。
「この辺、再開発でずいぶん変わるらしいねえ」
「そうですね」
「こういう古い店、残れんのかね」
「どうでしょう」
「まあ、銀座は金持ってるとこしか残らないからなあ」
軽い調子。
会話の内容以上に、その店を「なくなっても仕方ないもの」として扱う温度が気に障る。
恒一は表情を崩さなかったが、澪の目が少し冷たくなったのがわかった。
その時だった。
紗雪が、テーブル席から静かに口を開いた。
「そのようなことは、軽々しく仰るべきではありませんわ」
店内の空気が止まる。
男が振り返る。
恒一も、澪も、一瞬動けなかった。
紗雪は立ち上がってはいない。
煮込みの皿の前に座ったまま、まっすぐその男を見ている。声は強くはない。だが、通る。店の奥まで、すっと届く。
「店には、残る理由がございます」
紗雪は続けた。
「少なくとも、今日初めていらした方が、なくなってもよろしいなどと判断できるものではありませんわ」
「……いや、別にそういうつもりじゃ」
「そういうつもりでなくとも、お言葉には重みがございます」
完璧に悪役令嬢みたいな台詞だった。
だが、不思議なことに、全然滑稽ではなかった。
むしろ、その場にいた誰もが一瞬で理解した。
この人は怒っているのではない。守ろうとしているのだと。
男は気まずそうに肩をすくめた。
「悪かったよ」
「でしたら結構ですわ」
紗雪はそれだけ言って、また静かにスプーンを取った。
何事もなかったように煮込みへ戻る。
だが、耳だけはほんのり赤い。たぶん今、自分が何を言ったのかを思い返して、猛烈に恥ずかしくなっている。
恒一は思わず口元を押さえた。
笑ったわけではない。
ただ、胸の奥に妙にあたたかいものが広がっていた。
澪が小声で言う。
「……いい子じゃん」
「うん」
「かなり」
「かなりな」
男はそれ以上余計なことは言わず、料理を食べて帰っていった。
去り際に、恒一へ「煮込み、うまかった」とだけ言ったので、少なくとも食事はきちんとしたらしい。
店内が再び静かになる。
紗雪は最後の一口まで食べ終えてから、カップの水を少し飲み、それでもまだ顔を上げられないでいた。
恒一は会計のタイミングを見て、そっと声をかける。
「ありがとうございました」
「……」
「助かりました」
「え」
紗雪が顔を上げる。
「さっきのことです」
恒一が言うと、紗雪は目を見開いたあと、急に視線を逸らした。
「べ、別に。わたくしは当然のことを述べただけですの」
「それでも、うれしかったです」
「……」
紗雪はますます赤くなる。
「お店のこと、ちゃんと見てくださってるんですね」
「そ、それは……」
「ありがとうございます」
「わ、わたくしは、その……」
何か言いたいのに、言葉が追いつかない。
それでも彼女は、しばらく黙ったあと、ようやく小さく言った。
「ここは……落ち着きますの」
その一言だけで、十分だった。
恒一はそれ以上聞かなかった。
聞けば、きっと彼女はまた変な言い回しで取り繕おうとする。だから今は、そのまま受け取るのが一番いい。
会計を済ませる時、紗雪はバッグから財布を取り出しながら、ふと店の外――つまり階段のほうへ視線を向けた。
「……最近、この辺り」
「はい」
「少し、空気が騒がしい気がいたしますわ」
「再開発の話ですか」
「ええ。そういうものも、たぶん」
“たぶん”と付けたのは、言い切りたくないからか、それとも他にも何か感じているからか。
「お帰り、お気をつけて」
恒一が言うと、紗雪は小さく頷いた。
「ええ。あなたがたも」
「僕たちも?」
「この店は……その、少し目立ち始めておりますもの」
その言葉は、昨日までの彼女より一段だけ踏み込んでいた。
店のことを、外から眺める客の目で言っている。
しかも、おそらく彼女はそれを心配している。
「心配してくれてるんですか」
恒一が少しだけ意地悪く聞くと、
「そ、そのように受け取っても差し支えありませんことよ!」
紗雪は見事に崩れた。
「ありがとうございます」
「うう……」
最後はもはや令嬢口調も保てていなかった。
扉を開ける前に、彼女は一度だけ振り返る。
「……また参りますわ」
「お待ちしてます」
「当然ですの」
言い切ってから、また顔を赤くして階段を上がっていく。
足音が消えるまで、恒一はなんとなく扉を見ていた。
店に戻ると、澪が腕を組んでいた。
「はい」
「何だよ」
「本当はめちゃくちゃいい子だった」
「そうだな」
「認識改める」
「悪役令嬢扱いの?」
「そこは保留」
「ひどいな」
「でも中身はすごくいい」
「うん」
「店のこと、本気で大事に思ってる感じあった」
「……あったな」
恒一はカウンターへ手をついた。
紗雪の言葉が頭に残っている。
ここは落ち着きますの。
少し目立ち始めておりますもの。
単なる常連になりかけの客が言うには、少しだけ踏み込んだ言葉だ。
けれど、その踏み込み方が妙に慎重で、不器用で、だからこそ本音に見えた。
そしてその夜、営業が落ち着いたあと。
店の外で、恒一は偶然にも妙な会話を耳にすることになる。
仕入れ先への連絡をするため、閉店前に一度だけ階段の上へ出た時だった。
地上の裏通りは、銀座の中では静かなほうだが、それでも完全な無音にはならない。遠くの車の音、どこかの店から漏れる笑い声、タクシーのドアが閉まる音。
その中に、低い男の声が二つ混ざっていた。
「……このビルも、時間の問題だろ」
「でも地下の店だけ、まだ動かすなって話らしい」
「誰が噛んでる?」
「知らん。ただ、上からそう来てる」
「面倒だな。飲食なんてまとめて出てもらったほうが早いのに」
「まあ、あそこは客筋も少し変らしいぞ」
「変?」
「詳しくは知らんけどな」
恒一は、ビルの角の影で足を止めた。
再開発関係者だろうか。
姿は見えにくい。だが、話している内容からして無関係ではない。
「……あそこだけ、妙に残されてるのが気持ち悪いんだよ」
片方の男が言った。
「何かあるのかもな」
「店ごときに?」
その言葉に、恒一は無意識に拳を握った。
店ごとき。
たぶん、何の悪意もない。
彼らにとっては、銀座の一角にある小さな地下飲食店など、地図上の記号程度のものなのだろう。
けれど、そういうふうに扱われるものを、今日、紗雪はたった一人で庇ったのだ。
たぶん、彼女にとってこの店は「店ごとき」ではない。
それを思うと、胸の奥が妙に熱くなる。
男たちが去ってから、恒一は店へ戻った。
地下へ下りる階段の途中で、自分の店の灯りが見える。古い雑居ビルの中で、ひどく控えめな橙色だ。目立たない。派手でもない。だが、その灯りは今日、誰かに守られていた。
紗雪に。
そして、おそらく他の誰かにも。
「遅かったね」
店に戻ると澪が言った。
「上、ちょっと変な話聞いた」
「再開発?」
「たぶん」
「やっぱり動いてるんだ」
「うん」
恒一はカウンターの中へ戻りながら、ゆっくりと言った。
「でも、この店を“なくなってもいいもの”だと思ってない人が、思ってたよりいる気がする」
「紗雪さんとか?」
「……名前で呼ぶんだな」
「常連になりそうだし」
「そうだな」
澪は少しだけ笑った。
「じゃあ、なおさら簡単には潰せないね」
「うん」
「料理、頑張ろう」
「そこはシンプルだな」
「店だし」
結局、最後はそこへ戻る。
外で何が動いていようと。
誰が店を守っていようと。
誰がこの店を好きでいてくれようと。
皿がまずければ、全部終わる。
だから料理する。
それがこの店の一番強いところで、一番脆いところでもある。
営業後、恒一は角兎の鍋をもう一度見た。
少し煮詰まりすぎたソースを、ほんの少しだけスープで伸ばす。味を見て、うなずく。まだいける。
地下の小さな店には、今日も火が残っている。
そしてその火は、ほんの少しずつ、誰かの心にまで届き始めていた。




