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第5話 狩り相棒は、近すぎる

 店を立て直す方法が、銀座の地下からさらに下へ潜った先にある森へ入ることだと、数日前の自分に言ってもたぶん信じない。


 いや、信じないどころか、疲れているから休めとでも返しただろう。


 朝倉恒一は、営業を終えた厨房で、古い冷蔵庫の前に立ちながらそんなことを思った。


 時刻は午後十一時を少し回った頃。

 最後の客を見送って、皿を下げ、床を拭き、売上を記録し、明日の段取りをざっと決めたあとだ。店の中はもう静かで、地上の銀座の喧騒もここまではほとんど届かない。


 届くのは、換気扇の低い唸りと、冷蔵庫の機械音だけ。


 その古い冷蔵庫の底のさらに下に、異世界の森がある。


「また行くよ」


 火乃坂澪は、決定事項みたいな口調で言った。


 黒シャツの袖を肘まで捲り、いつものように無駄のない動きで準備を進めている。革袋の中身を確かめ、短槍の刃先を布で拭き、縄を巻き直し、携帯用のランタンの油量まで見ている。料理店の閉店後とは思えない装備だ。


「また行くって……今からか?」

「今から」

「営業時間終わった直後の料理人に言うことじゃないだろ」

「営業時間終わった直後だから言ってる」

「どういう理屈だ」

「明日のランチまでに戻って仕込みするには、この時間しかない」

「理屈がちゃんとしてるのが嫌だな」


 澪は革手袋を恒一へ放った。

「ほら」

「投げるな」

「受け取ったじゃん」

「落としたらどうする」

「予備ある」

「準備が良すぎるんだよ」


 だが実際、文句を言いながらも恒一は手袋をはめていた。

 行かない、という選択肢を本気で考えていない自分がいることも、もうわかっている。


 風縫いの在庫はまだある。今日の営業で出したのは二皿。残りも工夫すればあと数日は保たせられる。だが、この先店を動かしていくには、風縫いだけでは足りない。限定の目玉が一つ当たったからといって、それだけで店が息を吹き返すほど、銀座の現実は甘くない。


 客は戻り始めた。

 けれど、まだ「少し」だ。


 この店が本当に生き残るには、もう一皿、もう一押し、もう一段深い理由がいる。


 そして、その「もう一段」が、冷蔵庫の奥にある気がしてしまったら、料理人はたぶん抗えない。


「……今日は何狙うんだ」

 恒一が尋ねると、澪は少しだけ考えるように目を細めた。

「本命は角兎」

「かわいい名前だな」

「見た目はそこそこかわいい」

「そこそこって何だ」

「でも走ると速いし、角で刺してくる」

「急にかわいくなくなった」

「あと肉がうまい」

「それは大事だな」


 澪は祖父の残したメモ帳をぱらりとめくった。

 解読したというより、何度も読み返して自分なりに覚えてしまったらしい。祖父の字は相変わらず雑で短いが、澪はそういう省略を読むのが妙にうまい。


「《角兎、腹は淡く、背は強い。焼くより煮るほうが早い》」

「料理メモとしては役立つけど、生態メモとしては不足してないか」

「《耳を見ろ》」

「急に抽象的だな」

「《耳が二度揺れたら跳ぶ》」

「ちょっと面白いな」

「たまにおじいさん、こういう書き方する」

「嫌いじゃない」


 言いながら、恒一は冷蔵庫の底板を持ち上げた。


 冷気の下から、いつものように石の階段が現れる。

 もう「いつものように」と思っている自分がどうかしている気もするが、人間の順応というのは恐ろしい。


 下から上がってくるのは、湿った土と夜の葉の匂い。

 東京の夜気とはまるで違う、生きた森の呼吸だ。


「今日は昨日より少し奥まで行く」

 澪が先に階段へ足をかける。

「少しって、どのくらいだ」

「恒一がついてこれるくらい」

「雑すぎる」

「じゃあ、風縫いの縄張りを抜けた先」

「それ、十分危なそうだな」


 澪は振り返らずに言う。

「危ないよ。でも、店潰れるのも同じくらい危ない」

「極端だな」

「今さらでしょ」


 反論できなかった。


 二人は石段を下りる。

 階段の終わりに近づくほど、空気が変わっていく。冷蔵庫の人工的な冷気はすぐに消え、代わりに森の湿度が肌へまとわりつく。鼻を動かすだけで、土、苔、樹液、水気、獣の残り香まで混ざった複雑な情報が飛び込んできた。


 出口を抜けると、夜の森は今日も青白く光っていた。


 光る茸。巨大な根。葉先に露を溜めた草。

 どれも前に見た時より少しだけ輪郭がはっきりしている。見慣れたわけではない。ただ、怖さの中に「見よう」とする気持ちが生まれたのだ。


「……やっぱり、変な世界だ」

「なのに顔は楽しそう」

「料理人に森見せて食材の匂いさせたらこうなるだろ」

「恒一の場合、たぶん料理人じゃなくてもこうなる」

「それはどういう意味だ」

「好奇心強いって意味」

「褒めてるなら受け取っとく」


 澪は小さく肩をすくめた。


 二人は昨日の風縫いを仕留めた場所を横切り、さらに奥へ進んだ。

 足元は柔らかい黒土で、ところどころ樹の根が張っている。澪は迷いなく進むが、恒一は何度か根に足を取られそうになる。料理人の足腰が弱いわけではない。だが、舗装されていない地面を夜の森で歩くのは、また別の技術だった。


「静かに」

 澪が低く言う。

「努力してる」

「音が大きい」

「お前が軽すぎるんだよ」

「料理人の言い訳」

「今日ずいぶん当たり強くないか」

「緊張してるから」

「……お前も?」

「するよ、普通に」


 その言い方があまりに普通で、恒一は少しだけ驚いた。


 澪は何でも平気そうに見える。

 少なくとも店ではそうだ。客の前で取り乱すこともないし、異世界の森へ入る時だって躊躇なく見える。けれど今の声は、ごくわずかだが本音だった。


「……そりゃそうか」

「何」

「お前だけ平気なのも変だなって」

「平気そうに見えてるなら成功」

「成功させるな」

「でも恒一が固まると困るでしょ」

「……」


 言い返せない。


 澪は少し前を歩きながら、左手で枝を払った。

「私が前見るから、恒一は匂い見て」

「匂いを“見る”って言うな」

「わかるでしょ」

「まあ……わかるけど」


 実際、わかってしまう。


 森の中にはいくつもの匂いが流れている。

 土と葉のベースの上に、ところどころ獣臭、果実の甘さ、樹液の苦み。昨夜仕留めた風縫いに似た匂いはもう遠い。代わりに、もっと淡く、乾いた草のような匂いが前方から漂っていた。


「……何かいる」

「どっち」

「右前」

「距離は?」

「遠くはない。たぶん」

「“たぶん”多いね」

「お前に言われたくない」


 澪はそこで立ち止まり、腰を落とした。

 恒一も隣にしゃがむ。


 茂みの向こう、月光代わりの青い光を受けて、小さな影が動いた。


 兎だった。


 いや、兎に似ている、というべきか。

 体つきは野兎よりやや大きく、毛並みは白ではなく淡い灰青色。長い耳は葉のように薄く、先端が透けて見える。そして額の中央に、短いが確かに一本、角が生えていた。


「……角兎?」

「たぶん」

「かわいいな」

「だから見た目は」


 角兎は草を食んでいた。

 耳がぴくりと動く。もう一度動く。


「耳、二度」

 澪が囁く。

「跳ぶのか」

「来るかも」


 その瞬間、角兎がこちらを振り向いた。

 丸い目は黒く、見た目だけなら確かにかわいい。だが次の一瞬、その小さな体が信じられない勢いで地を蹴った。


「っ!」


 速い。


 風縫いのような飛び道具めいた速さではなく、もっと低く、一直線に滑るような速さ。角がまっすぐこちらを狙ってくる。


 澪が前へ出る。

「右!」

「おう!」


 言われるまま恒一が半歩右へずれると、角兎はその空間を突き抜けるように通り過ぎた。角の先が服の裾をかすめ、ひやりとする。小さいが、まともに当たればただでは済まない。


「かわいくねえ!」

「言ったでしょ!」


 角兎は一度離れて向きを変え、再びこちらを測るように耳を揺らす。

 今度は動きを読める気がした。澪が短槍を構える。恒一は祖父の槍を前へ出したまま、相手の軌道だけを見る。


「耳、来るよ」

「見てる」

「焦らないで」

「焦ってるのはお前だろ」

「ちょっとだけ!」


 叫んだ直後、角兎が跳んだ。


 今度は恒一にも見えた。

 低く沈んで、そこから爆ぜるように前へ出る。その直線を予測して槍を出す。昨日のような偶然ではなく、今度は少しだけ狙った。


 角が木の柄をかすめ、衝撃が手首へ走る。

 だがその一瞬のぶつかりで、角兎の軌道がずれた。


 澪の槍が横から入る。


 短く、鋭い音。


 角兎は二度ほど地面を蹴ってから、動かなくなった。


 森がまた静かになる。


「……っ、は」

 恒一は思わずその場に膝をついた。

「大丈夫?」

 澪が振り向く。

「大丈夫じゃない。手が痺れた」

「でも当てた」

「当てたな」

「うん。今のはかなりよかった」


 澪は本気で褒めていた。


 そのせいで、痛みより先に変な達成感が来る。

 料理人として生きてきて、「獲物の突進を受け流した」と褒められる日が来るとは思わなかった。


「……店の料理人に求められるスキルじゃないな」

「この店では求められるんじゃない?」

「祖父、どんな店にしてたんだよ本当に」


 澪は角兎の体を持ち上げる。

 軽い。だが、抱えた瞬間にふわりと匂いが立った。


 恒一は思わず顔を寄せる。

「ちょっと」

「いや、確認」

「距離」

「仕方ないだろ、匂いが」

「完全に料理人モード入ってる」


 角兎の香りは、風縫いとはまったく違った。


 野兎や仔牛に近い淡い乳っぽさがある。

 だが、その奥に青い草のような清涼感が混ざり、血の匂いが不思議なほど重くない。脂も多くはなさそうだ。代わりに筋肉のきめが細かい。煮れば柔らかくほどけそうで、焼けば締まりすぎるかもしれない。


「煮込み向きだな……」

「まだ森の中」

「わかってる」

「でも目が本気」

「お前だってさっきから店の仕込み計算してるだろ」

「してる」

「してるんだ」


 澪は否定しなかった。


 そこが妙に可笑しくて、恒一は息を吐いた。

 ここは夜の森で、目の前には角の生えた兎の死骸があって、いつ別の何かが襲ってくるかわからない。それなのに、自分たちはすでに鍋の大きさやソースの相性を考えている。


 まともではない。


 だが、たぶんこの「まともじゃなさ」がないと、この店はもう前へ進めない。


「今日はこれで帰る?」

 恒一が聞く。

「本当は果実もほしい」

「果実?」

「角兎が食べてる実、あるはず」

「じゃあ探すのか」

「近くにあると思う」


 澪は周囲の茂みを見渡した。

 しばらく歩くと、少し開けた場所に低木が群れているのが見えた。枝先には、小さな赤紫の実が鈴なりに下がっている。光を受けると表面にうっすらと銀が走る。


「これか?」

「たぶん《星喰いの実》」

「名前が物騒だな」

「でも角兎が食べてたならたぶん平気」

「“たぶん”頼りすぎじゃないか」

「おじいさんのメモだと《煮ると丸くなる》」

「何が」

「味じゃない?」

「ざっくりしすぎだろ……でも嫌いじゃない」


 恒一は一粒摘み、香りを嗅いだ。


 強い。

 葡萄に似た甘さの奥に、胡椒のような刺激がある。果実というより、香辛料の気配まで持っている。これをそのまま肉と煮れば、甘みだけでなく香りの芯にもなりそうだ。


「角兎の煮込みに合う」

「まだ食べてもないのに」

「匂いでわかる」

「はいはい」


 果実を袋へ入れ、角兎を縄でまとめる。

 その作業を終えたあたりで、恒一はようやく周囲の静けさに気づいた。さっきから、妙に何も鳴かない。風も弱い。森が息を潜めているような、そんな不自然さ。


「……澪」

「わかってる」


 彼女の声が低くなる。


「何かいる?」

「いる」

「どこ」

「左後ろ。たぶん大きい」


 恒一の背中に冷たい汗が走った。


 振り向きたいが、無闇に動くのは危ない気がする。

 匂いを探る。土、苔、果実、角兎の血。その向こうに、鈍く湿った獣臭。昨日の風縫いとも、今の角兎とも違う。もっと重い。大きい。


「帰る」

 澪が短く言う。

「賛成」


 二人はじりじりと後退した。


 その時、左後方の茂みが揺れた。


 出てきたのは、犬とも狼ともつかない生き物だった。

 いや、生き物と呼ぶには少し異形すぎる。四足の体は大きく、毛並みは黒緑に濡れた藻のようで、肩から背にかけて細い棘が並んでいる。口元が裂けるように長く、そこから白い息が漏れた。


「何だあれ」

「知らない」

「知らない!?」

「メモにない!」


 それは困る。


 異世界に来て一番困る返答かもしれない。


 獣は低く唸った。

 こちらを見ている。角兎の血の匂いに引かれたのだろうか。今にも飛びかかりそうな前脚の沈み方だ。


「走る?」

「無理。追いつかれる」

「じゃあどうする」

「ゆっくり下がる。刺激しない」

「それで済みそうか?」

「済ませるしかない」


 澪はそう言うが、額に汗が浮いていた。


 恒一は槍を構えた。手が震える。

 料理中の震えとは違う。けれど、不思議と頭の芯は冷えていた。怖い。すごく怖い。だが、怖がっている暇があるなら前を見るしかない。


 一歩、下がる。


 獣も一歩、詰める。


 もう一歩。


 通路の入口までは、あと十数歩。


 その時、恒一の足が露出した根に引っかかった。


「っ!」


 体が大きくぐらつく。


 まずい、と思った瞬間には遅かった。

 獣が弾かれたように前へ出る。


「恒一!」


 澪の声が近い。


 次の瞬間、恒一は強く腕を引かれた。


 自分が転ぶより先に、澪が体ごとぶつかってきて、二人まとめて横へ転がる。黒土と草の匂いが一気に鼻へ入った。肩を強く打つ。目の前を、獣の爪が掠めて通り過ぎる。


 すぐ耳元で、澪の荒い呼吸がした。


「立って!」

「……お、おう!」


 ほとんど抱き起こされるようにして立ち上がる。

 距離が近すぎる。近すぎるが、そんなことを言っている場合ではない。澪の腕は細いのに、引く力は驚くほど強かった。


 二人は通路へ向かって走った。


 後ろで獣が土を蹴る音。

 近い。近いが、通路はすぐそこだ。石の入口へ飛び込み、狭い通路に入ったところで、獣の気配が止まった。森の外へは追ってこないらしい。入口ぎりぎりまで迫ってきたが、それ以上は入ってこず、暗がりの中でこちらを睨むだけだ。


 恒一と澪は石の壁にもたれて、しばらく息を整えた。


「……死ぬかと思った」

「私も」

「お前、ああいう時ちゃんと焦るんだな」

「だからさっきからそう言ってる」

「いや……悪い」


 恒一はようやく、それを言った。


「何が」

「足取られて」

「次から気をつけて」

「怒らないのか」

「怒ってるよ」


 澪は肩で息をしながら、じろりと睨んだ。

「でも、今言っても意味ない」

「……」

「店戻ったら言う」

「怖いな」


 そう返すと、澪はそこでようやく、少しだけ笑った。


 その笑い方が、さっきまでの緊張をほどくようにやわらかくて、恒一は妙に安心してしまった。

 同時に、さっき自分を引き倒した時の近さを思い出して、今さら心拍数が変な方向に上がる。


 服の袖を掴まれた感触。

 肩にぶつかった体温。

 耳元の声。


 命が危なかった直後に考えることではない。

 だが、考えるなと言われても無理だった。


「……何」

 澪が怪訝そうに見る。

「いや」

「変な顔してる」

「してない」

「してる。赤いし」

「走ったからだろ」

「ふうん」


 絶対に納得していない顔だった。


 二人は慎重に石段を上り、冷蔵庫の底から店へ戻った。

 厨房の空気に触れた瞬間、張り詰めていた糸が少しだけ緩む。ステンレスの台、吊るされた包丁、洗ったばかりの鍋。こっちはこっちで十分おかしい場所のはずなのに、今は妙に安心できた。


 澪は冷蔵庫の底板を閉じ、棚を元に戻すと、ようやく大きく息を吐いた。

「……はい、説教」

「早いな」

「早いほうがいい」

「聞く」

「無茶しない」

「したつもりはない」

「結果的にしてる」

「……はい」

「店を守る前に死んだら意味ないでしょ」


 その言い方は、ぶっきらぼうなのに妙に真っ直ぐだった。


 恒一は反射的に言い返そうとして、やめた。

 澪の声が少しだけ掠れていたからだ。さっき本当に焦ったのだろう。自分よりたぶん、ずっと。


「悪かった」

「うん」

「助かった」

「うん」

「……ありがとな」

「うん」


 三回とも「うん」だった。

 けれど、その三回目だけ、澪はほんの少し目を逸らした。


 沈黙が落ちる。


 近い。

 さっき森の中で体をぶつけ合って転がったせいか、今も互いの距離感が少しおかしい。厨房の狭さのせいだけではない。恒一が一歩動けば肩が触れそうで、澪が手を伸ばせばすぐに届く。


 店員兼、狩りの相棒。


 それだけのはずだ。

 そういう距離のはずだ。


 なのに、今は妙に意識してしまう。


 澪が先にその空気を壊した。

「で」

「で?」

「角兎、どう料理するの」

「……切り替え早いな」

「店だから」

「そうだな」


 その返しに、恒一は少し救われた。


 角兎をまな板へ乗せる。

 解体しながら匂いを確かめると、やはり予想通りだった。身はきめ細かく、脂は少ない。だが筋に旨味が強い。煮込めば絶対にほどける。星喰いの実を割ると、果汁の奥にわずかな辛みがあった。これはワインとも合うし、煮込みの重さを逃がしてくれる。


「赤ワイン煮込み」

 恒一が言う。

「うん」

「でも普通の赤じゃ足りない」

「月雫混ぜる?」

「いや、あれは風縫いに残したい」

「じゃあ?」

「店のソースベース使う。祖父のデミを少し足して、星喰いで立てる」

「いいね」

「付け合わせは」

「マッシュじゃ重い」

「だよな。根菜」

「うん」


 会話が、自然に噛み合う。


 こういう時、澪は強い。

 料理人として訓練を受けたわけではないはずなのに、食材を前にすると理解が早い。味の方向、皿の重さ、客がどこで飽きるか。感覚の読み方が近い。


「……お前、ほんと便利だな」

 恒一がぼそりと言うと、

「便利って言うな」

 澪が即座に返した。

「褒めてる」

「雑」

「じゃあ、頼りになる」

「それならまあ」

「あと、近い」

「は?」

「いや、距離が」

「厨房狭いからでしょ」

「そうじゃなくて」


 言いかけて、恒一はやめた。

 何を言おうとしたのか、自分でもよくわからなかったからだ。


 澪はしばらくこちらを見ていたが、やがて視線を落とし、包丁を手に取った。

「……変なこと言うと、明日から一人で狩り行かせる」

「それは困る」

「でしょ」

「すごく困る」

「なら普通にして」

「善処する」


 澪はまた、少しだけ笑った。


 その夜の厨房には、角兎の淡い香りと、星喰いの実の刺激的な甘さが広がっていった。

 森の恐ろしさも、獣の爪の音も、石の通路で止まった影も、まだ完全には消えていない。手首の痺れも、肩の痛みも残っている。


 それでも、鍋に火を入れた瞬間、不思議と心は前を向く。


 店を守る前に死んだら意味がない。

 その通りだ。


 だから、生きて戻って、料理にする。


 それがたぶん、この店のやり方なのだろう。


 銀座の地下、狭い厨房の中で。

 朝倉恒一は、鍋から立ちのぼる香りを嗅ぎながら思った。


 この店は、料理だけではなくなってきている。

 そして、火乃坂澪は、ただの店員でも、ただの狩り仲間でもなくなりつつある。


 けれど、その名前をつけるには、まだ少しだけ距離が近すぎた。

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