第4話 地下の店に、もう一度客が来る
料理店にとって、奇跡には二種類ある。
一つは、誰が見てもわかる奇跡だ。
テレビに取り上げられる。雑誌に載る。予約が埋まる。階段の上まで客が並ぶ。数字で見える。誰の目にも明らかな変化。
もう一つは、もっと小さい。
昨日来た客が、今日も来る。
その程度のことだ。
けれど、銀座の地下にある十席の小さな店にとっては、その「程度のこと」が、時に何より大きい。
朝倉恒一は、開店前の店内でグラスを並べながら、昨夜のことを思い返していた。
やっと帰ってきた味だ、と言った老紳士。
美味しゅうございましたわ、と耳まで赤くして言った、あの妙に高飛車な若い女性。
結局、彼女の名前は聞けなかった。
聞けなかった、というより、聞く隙がなかった。あの口調の破壊力と、料理への反応の素直さの振れ幅が大きすぎて、こちらの接客の段取りのほうが少しおかしくなっていたのだ。
「考えごと多いね」
厨房の奥から澪が言う。
「してない」
「してる顔」
「お前、最近そういうの当てすぎじゃないか」
「ずっと見てるから」
火乃坂澪は、鍋でスープを温めながら淡々と返した。
今日の彼女は、黒シャツに濃紺のエプロン。相変わらず銀座の地下レストランよりも、どこか別の現場の人間に見える。だが、包丁を握っている時だけはちゃんと店の人間の顔になるのが不思議だった。
「で、何考えてたの」
「……昨日の客のこと」
「老紳士?」
「それもあるけど」
「悪役令嬢」
「そう呼ぶなよ」
「わかりやすいじゃん」
「本人が聞いたら泣くかもしれないだろ」
「意外と気は強そうだけど」
「強そうに見えて、たぶん弱い」
「へえ」
澪はそれだけ言って、少しだけ口元を上げた。
「何だよ」
「別に」
「その顔やめろ」
「いや、ちゃんと見てるんだなって」
「客なんだから見るだろ」
「ふうん」
その「ふうん」にいろいろ含まれている気がして、恒一は面倒になって会話を切った。
昨夜のうちに決めた通り、今日の限定は二皿だけにした。風縫いの肉はまだある。だが、いきなり数を増やすのは違う気がした。手応えはあったが、まだ「当たった」と言い切れる段階ではない。何より、異世界食材の存在をあまりに早く店の前面に出しすぎるのは危険だ。
新しい料理とは、客にとっては一皿だが、店にとっては賭けでもある。
材料の原価。客の反応。再現性。次回への期待。全部が絡む。
特に今の玻璃亭には、外せる余裕がなかった。
午後五時半。開店。
昨日よりも少しだけ、二人とも落ち着いていた。いや、正確には、落ち着こうとしていた。
だが、六時を少し回ったところで、あっさりその努力は崩れた。
階段を下りてくる足音。
軽すぎない。けれど、昨日よりは少しだけ速い。
そして、扉が開く。
「ご、ごきげんよう」
来た。
昨日の悪役令嬢めいた女性だった。
今日も綺麗だった。
むしろ、昨日より落ち着いた装いの分だけ、顔立ちの整い方がよくわかる。やわらかな淡い色のワンピースに短いジャケット、控えめなアクセサリー。華美ではないのに、明らかに質がいい。髪も昨日より少しだけゆるく結わえていて、そのせいか近寄りがたい印象がやや薄れている。
ただし、緊張しているのは今日も同じだった。
「い、いらっしゃいませ」
恒一が言う。
「ええ。ま、また来て差し上げましたわ」
「……ありがとうございます」
「感謝なさい」
「はい」
「……はっ」
彼女は言った直後に、自分の言葉に自分でダメージを受けた顔をした。
なぜ毎回そうなるのか。
恒一は笑いそうになるのを堪えつつ、席へ案内する。昨日と同じテーブル席。彼女は座る前に、ほんの少し店内を見回した。どこか確認するような、安心するような目だ。
「本日も、同じものがあるのでしたら」
「風縫いのローストでしたら、ございます」
「そ、そう。ならそれを」
「かしこまりました」
「あ、あと……パンも」
「もちろんです」
「よろしい」
語尾だけは立派だった。
厨房へ戻ると、澪が完全に面白がっている顔でこちらを見た。
「また来たね」
「また来たな」
「どうする? 今日も風縫い?」
「決まってるだろ」
「嬉しそう」
「嬉しくはない」
「嘘」
「うるさい」
嬉しくないわけではなかった。
昨日来た客が、今日も来る。
それはやはり、小さな奇跡に近い。
まして、あの料理を目当てに来たのだとしたら、なおさらだ。
恒一は胸肉を冷蔵庫から出した。昨日よりも手元が落ち着いている。食材の癖が少しだけわかったからだろう。皮目に塩を当てる量、常温へ戻す時間、焼き始めるタイミング。料理というのは、二度目からようやく会話が始まるところがある。
じゅう、とフライパンが鳴く。
その音に、テーブル席の彼女がほんの少しだけ顔を上げたのが見えた。料理が出てくるまでの時間も、ちゃんと食事の一部として受け取っている人間の反応だ。
そういう客はいい。
味だけではなく、店そのものを食べてくれる。
恒一はそんなことを思いながら、ソースの仕上がりを確認した。
月雫の実は、今日のほうが少し甘みが強い。個体差だろうか。なら、ワインの酸を昨日より立てたほうがいい。煮詰める時間をわずかに短くし、脂の量を少しだけ増やす。
「……昨日より好きかも」
澪が小さく言った。
「まだ皿にしてない」
「匂いでわかる」
「お前までそれ言うのか」
「恒一の口癖移った」
そう言われて、少しだけ可笑しかった。
皿が仕上がる。
「お待たせいたしました」
「……ありがとうございます」
今日は「よくってよ」が出なかった。少し慣れたのかもしれない。
彼女は皿を前にすると、昨日と同じように一瞬だけ素の顔になった。
料理の前でだけ、余計な鎧が少し薄くなる。
恒一はその変化を、なぜか少しだけ大切なもののように感じた。
一口目。
彼女は目を閉じない。今日は昨日のような衝撃よりも、確かめるような食べ方をしている。けれど、二口目に入ったところで、肩の力が少し抜けた。
そして、昨日よりずっと小さな声で、でもはっきりと呟いた。
「……やっぱり、美味しい」
今度は令嬢口調ではなかった。
恒一は聞こえないふりをしたが、耳にはしっかり届いていた。
テーブル席へパンを運ぶと、彼女は少しだけ顔を上げる。
「本日は……昨日より、少し香りが丸い気がしますわ」
「よくわかりましたね」
「わ、わたくしを誰だと思っているの」
「そこまでは存じ上げません」
「……」
一瞬、彼女が固まる。
しまった。今の返しは少し意地が悪かったかもしれない。だが、彼女は怒るでもなく、困ったように視線を泳がせたあと、ようやく絞り出すように言った。
「……そ、それは、そうでしたわね」
その言い方が妙にしょんぼりしていて、恒一は少し罪悪感を覚えた。
「すみません。そういう意味じゃ」
「い、いいんですの」
「ええと」
「その……」
彼女はフォークを置き、覚悟を決めるように一度息を吸った。
「東條院紗雪と申しますわ」
名乗った。
それも、本人にしてはだいぶ頑張った感じで。
恒一は一瞬目を瞬いたあと、すぐに頭を下げた。
「朝倉恒一です。この店を任されています」
「し、知っておりますわ」
「そうなんですか」
「……昨日、伝票で見ましたもの」
それはそうだ。
恒一は危うくまた笑いそうになった。
「では、改めて。東條院様」
「紗雪で結構ですわ」
「え」
「そ、その……毎回来ている客に、毎回苗字で呼ばれるのも、変でしょう」
「……わかりました。では、紗雪さん」
「は、はい」
呼ばれた途端、彼女はまた耳を赤くした。
どうにも忙しい人だ。
そのやり取りを、澪が厨房の陰から無言で見ていた。後で絶対に何か言う顔である。考えないことにした。
その日の前半の客入りは、昨日より少し良かった。二組、三組と、派手ではないが途切れずに客が来る。常連らしい顔も混じっている。誰かが店を思い出したように来ているのか、それとも本当に偶然か。まだ判断はできない。
だが、店の空気は昨日よりもわずかに軽かった。
紗雪は食後もすぐには帰らず、紅茶を頼んだ。
高価な店に慣れている人間は、食後の時間の過ごし方でわかる。彼女は決して長居をするわけではないが、急いで立つこともしない。店の余韻をきちんと味わうように、カップを持つ手元が静かだった。
その横顔をちらりと見て、恒一はふと思う。
この人は、ただ料理が気に入ったから来ているだけではないのかもしれない。
もちろん、料理目当てなのは間違いないだろう。けれど、それだけなら銀座には他にもいくらでも店がある。彼女くらいの家の人間なら、紹介制の店でも予約の取れない店でも入れるはずだ。
それでも、こんな地下の小さな店に、二日続けて来る。
しかも、明らかに場慣れしていない緊張を抱えてまで。
その理由を尋ねるほど、まだこちらは近くない。だが、理由がある気はした。
「何見てるの」
背後で澪が小声で言った。
「別に」
「見てた」
「客の様子見るのも仕事だ」
「へえ」
「その『へえ』、やめろ」
「楽しそう」
「お前な」
「でもあの人、感じ悪くないね」
「うん」
「最初だけ、すごく変だけど」
「それは否定しない」
「たぶん、緊張するとああなるタイプ」
「だろうな」
「大変そう」
「本人が一番な」
厨房の会話を、紗雪が聞いているわけではない。
だが不思議なことに、彼女は今、少しだけ肩の力を抜いているように見えた。店の空気に慣れ始めているのかもしれない。昨日は、ここにいることそのものが緊張だったのだろう。今日は少しだけ、「また来た場所」になっている。
紅茶を飲み終えると、紗雪は立ち上がった。
「お、お勘定を」
「かしこまりました」
会計を済ませる。
今日は昨日よりもほんの少しだけ、彼女の目がまっすぐこちらを向いていた。
「その……」
「はい」
「本日も、悪くありませんでしたわ」
「ありがとうございます」
「ええ」
「また、よろしければ」
「来ますわ」
即答だった。
自分で言ってから気づいたのか、紗雪は一瞬固まり、視線を逸らす。
「あ……いえ、その、都合がつけば」
「はい」
「……都合は、たぶん、つきますの」
「そうですか」
「そ、それではごきげんよう!」
逃げるように階段を上がっていく足音が、今日も少し忙しい。
扉が閉まったあと、澪が無言でカウンターへ出てきた。
「来るって」
「聞こえてる」
「都合つくって」
「聞こえてるって」
「すごいね」
「何が」
「店に通う宣言された」
「お前、面白がりすぎだろ」
「だって面白いし」
恒一はため息をついたが、完全には否定できなかった。
客が増えるのはいいことだ。常連がつくのはもっといいことだ。
だが、その「いいこと」がただの商売の話だけではなくなりそうな気配に、少しだけ落ち着かない気持ちもある。
その日の営業も終盤に差しかかった頃、ビル管理会社の担当者が顔を出した。
スーツ姿の若い男で、いかにも感じの良い笑顔を浮かべている。だが、こういう顔で来る人間が持ってくる話に、ろくなものはない。恒一は反射的に身構えた。
「こんばんは、朝倉さん」
「こんばんは」
「営業中にすみません。少しだけ、お時間よろしいですか」
「今ですか」
「簡単なご連絡だけですので」
店の空気に不似合いなビジネス用の柔らかい笑顔。その裏にある用件は、たいてい柔らかくない。
恒一は澪を見た。
澪は黙って頷く。
客はいない。なら聞くしかない。
担当者は入口近くで資料の入った封筒を差し出した。
「周辺の再開発計画について、また少し動きがありまして」
「……はい」
「正式決定ではないんですが、今後この一帯の区画整理が進む可能性が高くなっています」
「このビルもですか」
「そのあたりは、まだ詳細調整中です」
「詳細調整中、ですか」
便利な言葉だ。
決まっていないように聞こえる。だが、現場にいる人間は知っている。そういう言葉が出た時点で、もうかなり話は進んでいる。
担当者は気まずそうに咳払いした。
「ただ、朝倉さんのお店の区画については、現時点で少し特殊な扱いになっていまして」
「特殊?」
「その……再開発の検討線から、いったん外れているんです」
「は?」
思わず素で聞き返した。
担当者も困ったように眉を下げる。
「正直、私も詳しい経緯は聞かされていません。ただ、上からは『現時点で朝倉さんの店舗については強く動かないように』と言われていて」
「……どういうことですか」
「そこまでは。ただ、立ち退き交渉などがすぐ発生する状況ではない、ということだけお伝えできればと」
恒一は封筒を受け取った。
中身を見るまでもなく、胸の奥がざわつく。
周囲一帯が動いているのに、この店だけが検討線から外れている。
そんな都合のいい話があるのか。
普通なら、少しだけ安堵すべき場面なのかもしれない。少なくとも、今すぐ店を失う危険が減ったのなら、それは喜ぶべきことだ。
だが、理由が見えない保留は、料理人より先に商売人の勘を刺激する。
不自然だ。
「何か、ご存じの方がついていらっしゃるとか……?」
担当者が探るように言う。
「いえ」
「そうですか。まあ、こちらとしても動きがあればまたご連絡しますので」
「……わかりました」
「では、失礼します」
担当者は再び感じのいい笑顔を貼りつけて帰っていった。
扉が閉まる。
地下の店に、また静けさが戻る。
だが、その静けさはもう、少し前までのものとは違っていた。
「……何それ」
澪が低く言う。
「こっちが聞きたい」
「この店だけ外れてる?」
「らしい」
「ありえないでしょ」
「俺もそう思う」
恒一は封筒を開いた。
中の資料をざっと見ても、確かに周辺区画は色づけされているのに、玻璃亭のある区画だけが妙に曖昧な表記になっている。白紙のまま残された穴みたいだ。
「祖父か?」
澪が言う。
「何が」
「昔のツテとか」
「そんな便利なものがあったなら、もっと早く教えてほしい」
「だよね」
「でも……」
恒一はそこで言葉を止めた。
祖父の顔を思い出す。
寡黙で、不器用で、頑固な料理人。
あの人が政財界に顔が利くようには見えない。見えないが、見えていなかっただけのことが、最近いくつも出てきている。
異世界の森。
風縫い。
月雫の実。
祖父のメモ。
そして、あの上品な老紳士。
店の過去には、自分の知らない層が確実にある。
「……たぶん、この店、俺が思ってたより変だ」
恒一が言う。
「今さら?」
「今さらだよ」
「知ってた」
「お前、どこまで知ってる?」
「少しだけ。ほんとに少しだけ」
澪は壁にもたれ、腕を組んだ。
「でも、おじいさんがこの店をただの店として見てなかったのは確か」
「ただの店じゃない?」
「そう。たぶん、誰かにとっては、ここが残ってないと困る場所なんだよ」
その言葉は、なぜかすっと腑に落ちた。
ここが残ってないと困る場所。
料理店にしては大げさだ。だが、ここ数日で起きたことを並べると、むしろそのくらいの大げささでないと説明がつかない。
営業後、恒一は一人でカウンターを拭いた。
いつもの仕事だ。
濡れ布巾で木目に沿って拭き、乾いた布で水気を取る。皿の当たる位置、肘の置かれる位置、客が何気なく指をかける位置。そういうところほど丁寧に拭くのは祖父の癖だった。
手を動かしながら、今日の出来事を反芻する。
紗雪はまた来た。
風縫いの料理は今日も通用した。
この店の区画だけが、再開発の線から外れていると知らされた。
客の数はまだ少ない。売上も劇的ではない。
それでも、昨日までより、店の未来が少しだけ違う色を帯び始めている気がする。
ただ、その色は希望一色ではない。
秘密の色だ。
誰が、なぜ、この店を残しているのか。
祖父は何を知っていたのか。
あの老紳士は、何を見に来ているのか。
そして、東條院紗雪は、なぜあんなに緊張しながらこの店へ来るのか。
店の灯りを落とす前、恒一は無意識に階段のほうを見た。
今日、彼女はまたここを下りてきた。
それは偶然ではなく、意思だ。
昨日の一度きりではなかった。
たぶん明日も、来る。
そう思うと、少しだけ笑えた。
妙な常連がつく店は、案外悪くないのかもしれない。
そしてその夜、閉店作業を終えたあと。
地下の静まり返った店内で、古い冷蔵庫の奥から、ふっと森の匂いがした気がした。
気のせいかもしれない。
だが恒一は、その匂いに向かって小さく呟く。
「……まだ終わってない、か」
祖父の店は、たぶん今、ようやく本当に動き始めている。




