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第3話 最初の常連は、上品な老紳士

新しい料理を出す日の朝は、店の空気が少しだけ硬い。


 それがたとえ銀座の地下にある、たった十席の小さなレストランであっても、いや、そういう小さな店だからこそ、最初の一皿を客に出すまでの時間には独特の緊張がある。厨房の中にいる人間が自分一人でも二人でも、その緊張だけはきちんと店全体へ伝染する。


 朝倉恒一は、開店前のカウンター越しに店内を見回してから、厨房へ戻った。


 磨いたグラスは定位置に並んでいる。カトラリーの歪みもない。カウンターには、朝のうちに澪が替えたばかりの白いクロスが敷かれていた。壁際の棚のワインはいつも通りだ。橙色の照明も、地下へ下りてきた客の肩の力を抜くように、少しだけ暗めに調整してある。


 何も変わらない。


 見た目は昨日までと同じ店だ。


 違うのは、冷蔵庫の中身だけだった。


「顔、また固い」


 背後から言われて、恒一は振り返った。


 火乃坂澪が、エプロンの紐を結びながらこちらを見ている。朝からいつも通りぶっきらぼうだが、目元だけは少し機嫌が良さそうだった。たぶん、それは昨夜の試食の結果が思いのほか良かったからだろう。


「固くもなるだろ。初めての食材だぞ」

「初めての客じゃない」

「客のほうが怖い時もある」

「まあ、それはわかる」


 さらりと同意されてしまい、恒一は少しだけ肩の力が抜けた。


 昨夜のうちに、風縫いの肉は部位ごとに分けて下処理を済ませてある。胸肉はしっとりとした火入れ向き。腿は脂があり、煮込みやローストでも強い。骨からは朝一番でスープを引いた。月雫の実も裏漉しして、ソースのベースにしてある。


 仕込みの途中で、恒一は何度も祖父のレシピ帳を開いた。


 そこには確かに、今の自分たちがやったのと似た工程が断片的に記されていた。


 《風縫い 胸は火を入れすぎるな》

 《脂を恐れるな、香りで勝つ》

 《月雫は糖を足すな、重くなる》

 《皿に乗せる前に一度匂いを聞け》


 字は祖父らしく簡潔すぎて説明不足だが、その短さの中に妙な確信がある。自分たちが昨夜感じたことが、何年も前に同じように料理として積み上げられていたのだと思うと、不思議な連帯感すらあった。


「限定何食にする?」

 澪が冷蔵庫の前で尋ねる。

「三」

「少なくない?」

「最初から出しすぎて余らせるほうが怖い」

「それはそう」

「それに、三皿なら客の反応も見やすい」

「珍しくちゃんと考えてる」

「失礼すぎるだろ」


 澪は小さく鼻で笑い、下処理した肉をトレーごと作業台へ並べた。


 風縫いの胸肉は、見れば見るほど妙な色気がある。鶏よりきめ細かく、鴨ほど重たくない。皮目にはうっすらと銀色の光沢があり、包丁を入れるたび、脂が細かく滲む。その脂の匂いがまた、やけに上品で、塩と火だけでも料理になると確信させる強さがあった。


 恒一は肉に軽く塩を当てながら、昨夜の感触を頭の中でなぞる。


 皮目から焼いて脂を引き出す。焼き色はしっかり、だが中の火は浅めに。休ませる時間は少し長く取る。月雫のソースは果実の輪郭を残しながら、ワインで奥行きを作る。付け合わせはあくまで脇役。今日の主役は、何が何でもあの肉だ。


「ソース、もう一回味見る」

「はい」

「お前、その返事の時だけ素直だな」

「料理の時に逆らう意味ないし」

「普段もそうしてくれ」

「無理」


 即答だった。


 営業前の準備は、妙に滑らかに進んだ。


 いや、正確には、動きそのものは滑らかでも、その底にずっと細かい緊張が流れている。恒一はソースの濃度を確認するたび、これで本当に客に出していいのかと考えたし、澪は澪で、食材の残量やタイミングを必要以上に確かめていた。


 だが、それでも進めるしかない。


 新しい料理を出す時、最後にものを言うのは、迷った時間の長さではなく、皿の上で決め切れるかどうかだ。


 午後五時半。店を開ける。


 銀座の裏通りはまだ夕方の明るさを少し残していたが、階段を下りて地下に来ると、その光もすぐに遠くなる。扉を開けた瞬間、外の時間と切り離されるような感覚は、この店の好きなところでもあり、今は少しだけ心細いところでもあった。


 開店してしばらくは、客が来なかった。


 六時を過ぎる。


 恒一はグラスを磨き直し、メニュー表を確認し、予約帳に意味もなく目を通し、また厨房へ戻る。限定の文言は黒板にだけ小さく書いた。


 本日のおすすめ

 風縫い胸肉のロースト 月雫のソース


 名前だけ見れば、知らない客には創作料理のように見えるかもしれない。むしろ、そう見えてくれたほうがありがたい。正体を一から説明するわけにはいかないのだ。


「……来ないね」

 澪がぽつりと言う。

「まだ六時十分だ」

「銀座基準では結構経ってる」

「やめろ、数字みたいなこと言うな」

「事実だから」


 その時、階段の上から、ゆっくりとした足音が聞こえた。


 コツ、コツ、コツ。


 急がない。迷わない。けれど、けっして重くもない。


 恒一はその足音を知っていた。


「……来た」

「常連?」

「たぶん」


 扉が開いた。


 現れたのは、上品な老紳士だった。


 年齢は七十を超えているはずだが、背筋がまるで若い頃のまま時間を止めたみたいに真っ直ぐだ。白髪は綺麗に整えられ、濃紺のスーツには無駄な皺一つない。杖は持っていない。歩く速度はゆっくりなのに、足元に衰えを感じさせない。


 この店には何度も来ている。


 だが、毎度のように「なぜこの人がここへ来るのだろう」と思わせる客だった。


 銀座には格式を金で買ったような人間もいる。身なりだけ整えた成金もいる。だがこの老紳士から感じるのは、それらとは別種の静けさだ。高いものを着ているのではなく、高いものを身につけることが自然である種類の人間。そんな空気。


「いらっしゃいませ」


 恒一が頭を下げると、老紳士は小さく頷いた。

「こんばんは」

「こんばんは。いつものお席へ」

「ええ」


 カウンターの一番奥。壁側の席。


 彼はいつもそこに座る。そこからだと店全体がよく見えるし、厨房の手元もほどよく見える。料理人を緊張させる位置を、あまりに自然に選ぶ人だ。


 老紳士が席につくと、澪が水を出した。彼はそれにも、きちんと目を見て礼を言う。

「ありがとう」

「……どうも」


 澪が一瞬だけ言葉に詰まったのを、恒一は見逃さなかった。


 彼女は人を見て態度を変えるタイプではないが、この老紳士には毎回ほんの少しだけ慎重になる。たぶん、相手の物腰に飲まれるのだろう。無理もない。彼には、静かなのに人を正す種類の気配がある。


「お飲み物は、いつも通りで?」

「そうですね。赤を一杯だけ」

「かしこまりました」


 恒一はグラスへワインを注ぎながら、ちらりと老紳士を見た。


 今日も表情は穏やかだ。だが、何となく、普段よりも周囲をよく見ている気がした。店の壁、カウンター、黒板、厨房の奥。まるで、何かの変化を探しているような目。


 あるいは、探すまでもなく知っているのか。


 祖父の代から通っていた人だと聞いている。詳しいことは知らない。ただ、祖父がこの人の来店にだけは妙に気を配っていた記憶がある。必要以上にもてなすのではなく、必要なものを過不足なく整える、あの独特の緊張感。相手が大物だからという媚びではなく、料理人が料理人として認めた相手に向ける礼に近かった。


「本日のおすすめ、変わっていますね」


 老紳士が黒板を見て言った。


 恒一は心臓が少しだけ跳ねるのを感じた。

「はい。本日限定で、新しい料理を」

「風縫い胸肉、月雫のソース」

「……ええ」


 一瞬、ほんの一瞬だけ、老紳士の目の奥で何かが揺れた。


 懐かしさ、驚き、あるいは確信。


 だがそれはすぐに穏やかな微笑へ戻る。

「では、それをいただきましょう」

「かしこまりました」


 注文を受けた瞬間、店の空気が変わった気がした。


 最初の一皿。


 それが、よりによってこの人だというのは、偶然にしては出来すぎている。だが料理人にとって、最初の皿を誰に出すかは選べない。だからこそ、その巡り合わせには意味があるのだと、自分に言い聞かせるしかない。


 恒一は厨房へ戻る。


 澪が無言で頷いた。もう必要な会話はない。


 フライパンを熱する。皮目を下に。脂が溶ける。じゅう、と立つ音は昨夜よりも少し低く、落ち着いて聞こえた。肉から出た脂をスプーンで回しかける。香りが立つ。火を強めて皮を香ばしく仕上げ、いったん休ませ、その間にソースを温める。


 月雫の果実を煮詰めた紫の艶が、鍋の中で静かに揺れる。赤ワインの深さと、果実の酸味がきちんとまとまっている。味を見る。よし、いける。


 付け合わせは控えめに。じゃがいものピュレと、小さく火を入れた茸。皿を温め、ソースを引き、肉を切る。


 断面は、理想に近い。


 しっとりとした桜色に近い色合い。肉汁は濁らず、艶だけを残している。


「……大丈夫」

 恒一は小さく呟いた。

「聞こえてる」

 澪が言う。

「独り言だ」

「嘘。自分に言い聞かせた」

「うるさい」

「はい、早く出して」


 皿を持った瞬間、指先に緊張が集まる。


 恒一は深呼吸を一つしてから、カウンターへ出た。


「お待たせいたしました。本日のおすすめ、風縫い胸肉のロースト、月雫のソースです」

「ありがとう」


 老紳士の前に皿を置く。


 その瞬間、ほんのわずかに、彼の指先が止まった。


 視線が皿の上に落ちる。香りを受け止めるように、目を細める。すぐには食べない。まず見る。次に匂いを確かめる。それからナイフとフォークを取る。


 その所作の丁寧さに、恒一のほうが息を止めそうになった。


 ナイフが肉へ入る。


 切り分けた一切れがソースをまとい、口へ運ばれる。


 老紳士は、静かに咀嚼した。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


 そして、目を閉じた。


 恒一は自分でも驚くほど、その反応を食い入るように見ていた。


 まずいのか。違和感があるのか。祖父の味と違いすぎたのか。いや、そんな表情には見えない。だが、なら何だ。懐かしんでいるのか。確かめているのか。


 やがて老紳士はゆっくりと目を開き、ワイングラスへ手を伸ばした。一口だけ含み、再び肉を口へ運ぶ。


 二口、三口。


 その間、余計な言葉は一切ない。


 やがて皿の半分ほどを食べたところで、彼はようやく、小さく息を吐いた。


「……やっと」


 恒一の背筋が自然と伸びる。

「はい?」

「やっと、帰ってきた味だ」


 低く穏やかな声だった。


 だが、その一言には妙に重みがあった。


 帰ってきた味。


 新しい料理を出したつもりだった。実際、昨日初めて自分たちで仕留め、自分たちで調理し、自分たちで形にした一皿だ。祖父のメモは参考にしたが、そのまま再現したわけではない。


 それなのに、帰ってきた、と彼は言った。


「……祖父をご存じで?」

 恒一が思わず尋ねると、老紳士は少しだけ微笑した。

「ええ、昔から」

「この料理も?」

「食べたことがあります。ずいぶん昔に」


 やはり、祖父は出していたのだ。


 恒一の胸の中で、驚きと納得と、少しの悔しさが混ざる。自分だけが知らなかったという感覚は、料理人としては複雑だ。けれど同時に、自分たちが昨夜手探りで掴んだ味が、確かに店の歴史へ繋がっていたのだとわかることは、奇妙な安堵にもなった。


「ただ」


 老紳士はそこで一度言葉を切り、皿の上のソースを少しだけフォークで掬った。

「同じではありませんね」

「……はい」

「それでいい」


 恒一は一瞬、呼吸を忘れた。


「同じではない。けれど、忘れていたものを思い出させるには十分です」

「……ありがとうございます」

「礼を言うのは、皿に向かってでしょう」


 そう言って老紳士は、ほんのわずかに口元を緩めた。


 その表情があまりに自然で、恒一は少し遅れて、祖父がこの人を気に入っていた理由を理解した気がした。料理に向かう人間の言葉を持っている。褒めるための褒め言葉ではなく、食べた人間にしか言えない言葉をくれる人だ。


 澪が厨房の奥から、ちらりとこちらを見た。


 その目は「どうだった」と聞いている。


 恒一はわずかに頷いた。


 澪もまた、小さく息を吐いた。


 その時だった。


 階段の上から、今度は少し急いだような足音が響いた。


 コツ、コツ、コツ、コツ。


 一定のようでいて、どこか落ち着かない。途中で一段飛ばしそうになって、でもすぐに慎重さを取り戻すような足音。


 恒一は首を巡らせた。


 扉が開く。


 そこに立っていたのは、ひどく華やかな若い女性だった。


 年の頃は恒一たちと大きくは変わらないはずだ。だが、纏っている空気はこの地下の店と明らかに別の世界のものだった。艶のある金に近い明るい髪が肩から流れ、上品に整えられた装いは一目で高価だとわかる。けれど、やりすぎた装飾ではない。質の良さだけが前に出ている。顔立ちは整いすぎるほど整っていて、少しきつめに見える目元のせいで、ぱっと見た印象は「近寄りがたい美人」だった。


 だが、その第一印象を一秒で裏切ったのは、彼女自身の表情だった。


 入ってきた瞬間、あきらかに緊張している。


 視線が少し泳いでいる。背筋は伸ばしているのに、肩が固い。呼吸のリズムもぎこちない。


 それでも彼女は気丈に顎を上げ、店内を見回し、そして恒一へ向かって言った。


「べ、別に期待して来たわけではありませんの」


 いきなりの一言で、店の空気が止まった。


 恒一も、澪も、危うく表情筋が固まる。


 彼女はそれに気づかず、さらに言葉を重ねた。


「ですが……その、席が空いている以上、迎え入れる栄誉を認めて差し上げてもよろしくってよ」


 完全に悪役令嬢だった。


 それも、漫画やゲームの中で主人公に婚約者マウントを取ってくるタイプの、語尾がやたら華美な令嬢そのものの口調である。


 だが、当の本人はそれを言いながら耳まで赤い。


 強気に振る舞いたいのに、どう考えても言葉選びに失敗している。


 恒一は数秒遅れて、ようやく接客用の顔を取り戻した。

「……い、いらっしゃいませ」

「ふ、ふん」

「お、お席へどうぞ」

「ええ。導きなさいな」


 足取りだけは妙に優雅に、彼女は空いているテーブル席へ向かった。座る所作も綺麗だ。バッグの置き方、椅子の引き方、背を預けすぎない姿勢。言葉だけが変なのに、他の全部は洗練されている。


 澪が小声でぼそりと言った。

「何あれ」

「知らん」

「怖いんだけど」

「俺だって怖いわ」


 だが、接客は接客だ。


 恒一は水とメニューを持って彼女の席へ向かう。近くで見ると、やはり整った顔立ちの美人だ。瞳は青みがかった灰色で、睫毛が長い。だが、その瞳は今、ひどく泳いでいる。緊張と気まずさで、自分の発した言葉の破壊力に本人も耐えかねているのが丸わかりだった。


「ご注文、お決まりでしたら」

「ま、まだ決まっておりませんわ」

「かしこまりました」

「ですが、あの……おすすめなどがあるなら、聞いて差し上げなくもありませんことよ」

「……本日のおすすめでしたら、風縫い胸肉のローストが」

「そ、それをいただきますわ!」


 食い気味だった。


 しかも言い終えたあと、自分で少し驚いたように口元を押さえる。たぶん、本当はもう少し余裕のある感じで注文したかったのだろう。


「かしこまりました」

「あと、そ、その……」

「はい」

「パンも、いただいてよろしくてよ」

「もちろんです」


 恒一が一礼して離れると、厨房へ戻った瞬間、澪が真顔で言った。

「面白い客来たね」

「笑うな」

「笑ってない」

「目が笑ってる」

「少しだけ」


 恒一は肩を落としつつも、どこか妙に気持ちが軽くなっているのを感じていた。


 緊張していたのだ。新しい料理を出すことに。最初の客に評価されることに。店の未来に。その硬さを、あの妙な令嬢口調の女性が、強引に別の空気へ変えてしまった。


 もちろん、だからといって料理の緊張感が消えるわけではない。


 ただ、客商売というのは本来こういうものでもある。思い通りにならない人間が来て、予想していなかった空気を持ち込み、それが店を少しだけ生かす。


 恒一は二皿目の風縫いを焼き始めた。


 今度は少しだけ落ち着いている。


 澪がパンを温め、バターを小皿に取り分ける。老紳士は静かに食事を続けている。テーブル席の令嬢めいた女性は、パンが来るまでの間、姿勢良く座ったまま、しかし時々落ち着かなさそうに店内を見回していた。


 風縫い胸肉のローストが焼き上がる。


 月雫のソースを引き、皿へ乗せる。


「お待たせいたしました。本日のおすすめです」

「……あ」


 皿が置かれた瞬間、彼女の表情がふっと変わった。


 さっきまでのぎこちない威圧感も、取り繕おうとする気配も、一瞬だけ消える。ただ純粋に、目の前の料理へ見入っている顔だった。


 香りが届く。


 彼女は小さく息を呑んだ。


「どうぞ、ごゆっくり」

「……え、ええ。そうさせていただきますわ」


 言葉はまだ変だ。だが、その声は少しだけ柔らかくなっていた。


 ナイフとフォークを取る手元は綺麗だった。無理に気取っているのではなく、きちんとした家で教わった人間の手つきだとわかる。肉を一口分に切り分け、ソースを絡め、口へ運ぶ。


 次の瞬間。


 彼女の肩が、ぴくりと揺れた。


 目が見開かれる。


 それから数秒、完全に無言になった。


 恒一はカウンター越しに、その反応を見ていた。見てはいけない気もするのだが、初めて出す料理に対する客の最初の反応だけは、どうしても見てしまう。料理人の悪癖だ。


 彼女はもう一口食べた。


 そして、俯きがちに、小さく言った。


「……お、美味しゅうございましたわ……」


 その声音には、さっきの妙な威圧感がひとかけらもなかった。


 ただ純粋に、感動した人間の声だった。


 恒一は思わず笑いそうになったのを堪えた。


「ありがとうございます」

「べ、別に……これしきで動揺したわけではありませんの。ただ、まあ……予想よりは、いくらか、かなり、ずっと……悪くなかっただけですわ」

「それは、だいぶ良かったって意味で受け取っていいんでしょうか」

「そ、そう受け取るかどうかは、そちらの自由でしてよ!」


 言い切ったあと、彼女はまた耳まで真っ赤になる。


 完全に、言葉が感情に追いついていない。


 澪が厨房の陰で肩を震わせているのが見えた。

「おい」

 恒一が小声で牽制する。

「無理」

「耐えろ」

「面白すぎるでしょ」

「客前だぞ」


 だが、恒一自身も少し危なかった。


 あの女性はたぶん、偉そうにしたいわけではない。ただ緊張すると、なぜかこういう方向へ言葉が転ぶのだろう。ある意味、不器用にもほどがある。けれど、料理への反応だけは本物だ。そこに打算や演技は感じない。


 老紳士が食後のワインを静かに飲み干し、席を立った。


「ごちそうさまでした」

「ありがとうございました」

「また来ます」


 それだけ言って会計を済ませる。帰り際、彼は一瞬だけテーブル席の女性に目をやったが、特に何も言わず、静かに店を出ていった。


 その視線の意味を、恒一はまだ知らない。


 だが、どこか見守るような温度があったことだけは、なぜか印象に残った。


 テーブル席の彼女は、老紳士が出ていったあとも、しばらく皿を見つめていた。すでにほとんど食べ終えている。ソースまできれいにパンで拭っていて、そのくせ、最後の一口を食べるのが惜しいようにも見える。


 やがて彼女は会計を済ませるため立ち上がった。


「お、お勘定をお願いしてよろしくてよ」

「かしこまりました」


 恒一が伝票を渡すと、彼女は財布を開きながら、少しだけ逡巡するような表情を見せた。何か言いたいことがあるのだとわかる。だが、うまく言葉にできないのだろう。


 そして、ようやく絞り出すように口を開く。


「その……」

「はい」

「本日のお料理、べ、別に毎日求めているわけではありませんけれど」

「はい」

「もし明日も同程度の水準を維持できる自信があるのなら、再訪を検討して差し上げなくもなくってよ」

「……ぜひ、お待ちしております」

「そ、そうでしょうとも」


 彼女は会計を済ませ、ぎこちなく、それでも綺麗に一礼した。


「ごちそうさまでしたわ」

「ありがとうございました」


 階段を上っていく足音が、やはり来た時より少しだけ慌ただしい。


 扉が閉まる。


 店内に静けさが戻った。


 恒一はしばらくその扉を見ていたが、やがて大きく息を吐いた。

「……何だったんだ」

「悪役令嬢」

「そのまんますぎるだろ」

「でもいい子そう」

「それは思った」

「料理、ちゃんと食べてたし」

「ソースまできれいだったな」

「うん。嫌いじゃない」

「お前、そこ基準なんだ」

「料理残す人は信用しない」


 澪らしい判断基準だった。


 そのあと、店にはもう一組、ふらりと来た客が入り、今日は終わった。満席にはほど遠い。売上も劇的には変わらない。だが、限定の三皿のうち二皿がきちんと客へ出た。そのうち一皿は祖父の代を知る老紳士へ、もう一皿は妙な口調の華やかな若い女性へ。


 営業を終えた後、恒一はカウンター席へ座り込み、今日の帳面をつけた。


「数字、どう?」

 澪が後片付けをしながら聞く。

「良くはない」

「だろうね」

「でも、悪くもない」

「ふうん」

「少なくとも、昨日よりはましだ」


 澪はそれを聞いて、洗い物の手を止めずに言った。

「じゃあ明日も出す?」

「出す」

「三食?」

「いや……二食にする」

「減らすんだ」

「今日の反応なら、少しずつでいい。焦るとバレる」

「何が」

「こっちが本気で浮かれてること」

「もう顔に出てるけど」

「やめろ」


 澪はまた少し笑った。


 営業後の厨房には、まだ風縫いの脂の香りがうっすら残っている。月雫のソースの甘酸っぱさも、鍋の底から消えきっていない。そこへ、客が残した空気が重なる。


 やっと帰ってきた味。


 美味しゅうございましたわ。


 どちらも、今日この店に落ちた言葉だ。


 料理は皿から消える。だが、言葉だけは不思議と残る。厨房の隅やカウンターの木目に染み込むように、店の中へ沈んでいく。


 恒一は帳面を閉じて、背もたれもない椅子に少しだけ体を預けた。


「……なあ、澪」

「何」

「店、少しだけ戻るかもしれない」

「少しだけ?」

「まだ少しだけだ」

「それで十分」

「そうか?」

「うん。ゼロじゃないなら十分」


 澪は皿を拭き上げながら、まるで当然のことのように言った。


 ゼロじゃないなら十分。


 それは今の玻璃亭にとって、何より現実的で、何より希望に近い言葉だった。


 銀座の地下。潰れかけの小さな店。


 そこへ今日、二人の客が来た。


 一人は祖父の味を知る、上品な老紳士。

 一人は悪役令嬢みたいな口調で、美味しいと言うのが下手すぎる若い女性。


 どちらも、この店にとってただの一見客ではない気がした。


 もちろん、そんな直感に根拠はない。客は客であり、また来る保証もない。料理人が勝手に意味を見出しているだけかもしれない。


 だが、店というのはたぶん、そういう予感の積み重ねでできていく。


 何もない一日の連続の中に、たまに妙な客が現れて、妙な一言を残していく。その意味がずっと後になってからわかることもある。


 恒一は厨房の奥――古い冷蔵庫のほうを、無意識に見た。


 あの底のさらに先にある森は、まだ何も語っていない。


 だが、少なくとも今日わかったことが二つある。


 一つ。あの森の食材は、本当に料理になる。

 一つ。この店の過去を知っている人間が、思っていた以上に近くにいる。


 祖父は何を隠していたのか。

 老紳士はこの店で何を見ているのか。

 そして、あの妙な令嬢口調の女性は、なぜあんなに緊張していたのか。


 地下の店は、少しずつ騒がしくなっていく気がした。


 それはきっと、悪いことではない。

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