第2話 祖父の冷蔵庫の、その先へ
森の匂いには、理性を鈍らせる力がある。
少なくとも、その夜の朝倉恒一にとってはそうだった。
銀座の地下。祖父の古い冷蔵庫の底。そのさらに先。そこに広がる異様な森を前にして、本来なら先に来るべき感情は警戒や恐怖だったはずだ。見たこともない場所、聞いたこともない鳴き声、得体の知れない気配。まともな人間なら、一度引き返して、明るくなってから考えようとか、警察に相談すべきではないかとか、せめてネットで「冷蔵庫の奥に森があった場合」で検索するとか、そういう段階を踏むに違いない。
だが恒一の頭に最初に浮かんだのは、もっと単純で、もっと救いようのない衝動だった。
この匂いを、皿にできるだろうか。
それが、異世界を目の前にした料理人の第一感想だった。
「顔、やばいよ」
隣で澪が呆れたように言った。
「何が」
「完全に食材見つけた時の顔」
「……お前、もっと他に言うことないのかよ。ここ、どう見てもおかしいだろ」
「おかしいのは今さらでしょ。地下の冷蔵庫の底に森がある時点で」
「正論やめろ」
言いながらも、恒一の視線は森の奥に吸い込まれていた。
月のようなものは見えない。にもかかわらず、暗闇は完全な黒ではなく、葉や苔や木肌のところどころが淡い青緑に光っているせいで、不思議な明るさがあった。夜の森というより、深海を歩いているような色彩だ。大樹の根元には巨大な茸が群生し、笠の裏から白い光をこぼしている。風が吹くたび、葉擦れとともに、知らない香りがいくつも流れてきた。
熟した果実の甘さ。乾いた香辛料の刺激。炙った肉に似た香ばしさ。青臭く瑞々しい草の匂い。
鼻が忙しい。脳が追いつかない。
けれど、その一つひとつが確かに「素材」だった。
「……祖父さん、これを知ってたのか」
「たぶんね」
「たぶんで済ませるなよ」
「だって全部聞いたわけじゃないし」
澪は腰の後ろから、小ぶりのナイフと折りたたみ式の短い槍のようなものを取り出して、手慣れた動きで確認した。普段、店にいる時の彼女は黒いシャツにエプロン姿で、厨房では無駄のない動きしかしない。それが今は、同じ人間なのに、別の現場の空気をまとっているように見えた。
恒一は彼女の手元を見て眉をひそめる。
「何でそんなもの持ってるんだよ」
「少し前から準備してた」
「少し前?」
「店の数字が本当に笑えなくなったあたりから」
「そこ笑顔で言うな」
澪は笑っていなかった。というより、彼女は本気の時ほど表情が薄い。
「おじいさん、昔、何回か言ってたんだよ。『本当に追い詰められたら、奥を見ろ』って」
「俺には一度もそんなこと言わなかった」
「恒一には、たぶん自分で辿り着いてほしかったんじゃない」
「いや、そんな格好いい話にするなよ。普通に教えとけよ」
ぼやくと、澪は肩をすくめた。
「同感」
だが、祖父が黙っていた理由も、少しだけわかる気がした。
もし十代の頃の自分がこれを知っていたら、興奮して突っ込んでいた。料理人見習いとしての好奇心と、若さ特有の無謀さで、準備もなしに森へ入っていたに違いない。澪が横にいてくれてなお、この胸騒ぎなのだ。一人ならもっと危なかっただろう。
澪は通路の先、森との境目にしゃがみ込み、地面を指でなぞった。
「……最近、人が通った感じはある」
「は?」
「見て。草が寝てる」
「いや俺にわかるかそんなの」
「じゃあ見ようとしなよ」
「料理人にトラッキング能力を求めるな」
恒一もしゃがみ込んでみたが、確かに、入口近くの草は不自然に倒れていた。獣の通り道とも違う、人の歩幅に似た乱れ方だ。地面も土ではなく、細かい黒い砂のようなものが敷かれていて、そこに薄く足跡らしき窪みが見えた。
「祖父さん、最近まで来てた?」
「亡くなる前は体力的に無理だったと思う」
「じゃあ誰だよ」
「……それは、まだわからない」
その「まだ」が少し引っかかったが、問い詰めるより先に、森の奥で何かが鳴いた。
ギィ、と、金属をこすったような不気味な声。
恒一の背筋が強張る。澪は一瞬で立ち上がり、恒一の前に半歩出た。
「下がって」
「お、おう」
素直に下がるのが情けない気もしたが、今はそんなことを言っている場合ではない。二人は入口の影に身を寄せ、音のした方向を見つめた。
しばらくして、茂みの向こうを、小さな影が横切った。
四足。狐くらいの大きさ。だが足が妙に長く、背中には薄い膜のようなものが生えている。目だけが白っぽく発光し、鼻先をひくつかせながら辺りを探っていた。
「何だあれ」
「たぶん『風縫い』」
「たぶんでモンスター名を言うな」
「おじいさんのメモにあった」
「メモ?」
「あとで見せる」
風縫い。名前だけ聞けば詩的だが、実物はあまり詩的ではない。かわいげのない狐と、肉食鳥と、コウモリを雑に混ぜたような姿だ。爪は細く長く、尻尾の先は針のように尖っている。だが、何より恒一の注意を引いたのは、その体から漂ってくる匂いだった。
「……鶏、じゃない」
「ん?」
「もっと脂がある。でも獣ほど重くない。香りは、ハーブっぽい……何だこれ」
澪は半目になった。
「今それ?」
「いや気になるだろ普通に」
「普通じゃないから言ってる」
風縫いは二、三度地面を嗅いだあと、茸の群生地の近くで何かをついばみ始めた。敵意は見せていない。警戒はしているが、こちらに気づいている様子もない。
「小型だし、最初の獲物にはちょうどいいかも」
「さらっと言うな。俺、狩りなんてやったことないぞ」
「包丁持ったことあるでしょ」
「料理人に対する侮辱がすごいな」
「でも刃物を扱う手首は使える」
そう言って澪は、通路の壁に立て掛けてあった古い革袋を取り出した。いつからそこに置いてあったのか。開くと、中には短剣、解体用の包丁、折りたたみの弓、細い縄、革手袋、油紙に包まれた何かが整然と入っていた。
「……これも祖父さん?」
「たぶん」
「たぶん多いな今日」
「だって死んでるし」
その返しがあまりに容赦なくて、恒一は思わず黙った。
澪は袋の中から、木の柄に革を巻いた短めの槍を抜き、恒一に差し出した。
「持って」
「これで?」
「突く。投げない。振り回さない。前に出しとくだけでいい」
「料理人の初異世界対応が雑すぎるだろ」
「大丈夫。私がいるから」
あまりに当然のように言うので、恒一は一瞬だけ言葉に詰まった。
澪は昔からそうだった。根拠のない励ましはしない。できないことはできないと言うし、危ない時は危ないと言う。だが、引き受けると決めたことに対しては、妙に迷いがない。
私がいるから。
その言葉の重さを、今の恒一は知っている。
「……死ぬなよ」
「そっちこそ」
「それ、俺が言ったんだけど」
「じゃ、同時に言ったことにして」
澪は軽く息を整えると、低い姿勢で前に出た。恒一も後ろに続く。森の地面は柔らかく、靴の裏が少し沈む。湿った土の感触と、冷たい草の擦れる音が、東京のどんな路地とも違っていた。
風縫いとの距離が縮まる。
十歩。
八歩。
五歩。
突然、風縫いが顔を上げた。白い目がぎらりと光る。鼻先がこちらの匂いを捉えたのだろう。次の瞬間、獣は跳ねるように身を翻し、横へ逃げようとした。
「今!」
澪が叫ぶ。
彼女が地を蹴るのと、恒一が反射で槍を突き出すのはほぼ同時だった。
狙ったわけではない。むしろ、逃げる影に対して無我夢中で前へ出しただけだ。だが、その偶然の軌道が、風縫いの脇腹をかすめた。獣が甲高く鳴き、体勢を崩す。その一瞬の隙へ、澪の短剣が閃いた。
鈍い音。
血しぶき――と思ったが、飛び散ったのは赤ではなく、わずかに青みを帯びた黒だった。
風縫いは数歩よろめき、倒れた。
森が静かになる。
恒一の心臓だけが、やけにうるさい。
「……え、終わった?」
「終わった」
「今、俺、刺した?」
「少しかすった」
「少しかよ」
「でも十分。私一人よりやりやすかった」
澪はしゃがみ込み、風縫いの様子を確かめた。完全に絶命しているのを確認してから、ようやく緊張を解く。
恒一は膝に手をついて息を吐いた。手が震えている。料理中の緊張とは全然違う。包丁を落とさないように意識する種類の震えではなく、自分が今、生き物を仕留めたのだという現実に、体が後から追いついてくる震えだった。
「……無理だ。心臓に悪い」
「最初はそんなもん」
「最初じゃなかったら困る」
「でも匂い嗅いでる」
「うるさい」
図星だった。
倒れた風縫いからは、さらに濃く香りが立っている。羽毛のような膜の下にある肉の匂いが、血の鉄っぽさと混ざり合って、不思議な食欲を刺激してくる。鳥に近いのに、もっと豊かで、脂の粒子が細かい印象だ。しかも嫌な獣臭さがほとんどない。
恒一は恐る恐るしゃがみ込んだ。
「……これ、食えるのか」
「食えなかったらおじいさんが残してないでしょ」
「それもそうか」
「あと、この辺」
澪は風縫いの足元に落ちていた小さな木の実を拾った。葡萄に似ているが、一粒一粒が透明な琥珀色をしている。皮の表面にうっすらと銀色の粉がまぶされているようにも見えた。
「こいつ、これ食べてた」
「果実か?」
「たぶん。メモだと『月雫の実』」
「祖父、ネーミングだけ無駄に格好いいな」
「昔の料理人ってそんなもんじゃない」
「偏見が強い」
月雫の実、と呼ばれたそれを一つ割ってみると、中から透明に近い果汁がとろりと溢れた。香りは甘いのに、後ろに柑橘のような鋭さがある。恒一の鼻が一気に冴える。
「待て、これ……」
「またその顔」
「ソースになる」
「はいはい」
「いや絶対なるだろ。肉の脂と合わせたら――」
「その前に持ち帰るよ」
澪は素早く作業に入った。風縫いの脚を縛り、持ち帰りやすいように革袋へ固定する。月雫の実も周囲からいくつか摘み取って布袋に入れた。解体は店に戻ってからのほうが安全らしい。
「もっと奥に行けば他にもありそうだけど」
「今日は帰る」
「まだ三十分も経ってない」
「初日で欲張って死ぬの、すごくダサいでしょ」
「……否定できない」
それに、恒一自身、興奮している割に足元が少し浮ついていた。未知の場所にいるという事実を、脳がまだ処理しきれていない。今は成功体験に酔うより、持ち帰って確かめるほうが先だ。
二人は来た道を戻った。
異世界の森から石の通路へ入ると、急に現実感が戻る。湿った土の匂いが徐々に冷蔵庫の冷気に変わり、冷たい石の壁が、いつもの厨房の裏に近づいてくる。通路を上がりきって冷蔵庫の底から顔を出した瞬間、恒一はくらりとした。
そこにはさっきまでと同じ厨房があった。
ステンレス台。古い換気扇。壁に吊るされたフライパン。営業中の店の気配。つい数分前まで、ここが自分の知る世界のすべてだったのに、そのすぐ下に森がある。
狂っている。
だが、狂っているのに、革袋の中には確かな重みがあった。
「……戻ってきた」
「だから言ったでしょ」
澪は慣れた手つきで冷蔵庫の底を閉じ、棚を元に戻した。そうすると、そこにはただ古い冷蔵庫があるだけだ。秘密の通路なんて最初から存在しなかったかのように、完璧に隠れる。
「これ、誰かに見つかったら終わりだな」
「うん。だから誰にも見つけさせない」
「そんな簡単に言うな」
「簡単じゃないよ。でも、やる」
その短い言葉に、奇妙な現実味があった。
店の入口を確かめると、もう客はいなかった。閉店時間も近い。恒一は表の札を「本日終了」にひっくり返し、鍵をかけた。地上から切り離された地下の店は、再び小さな秘密の箱になる。
そして、今夜からは、本当に秘密の箱だ。
「解体、できる?」
「見た目ほど複雑じゃないはず。おじいさんのメモにも――」
「メモ万能すぎない?」
「だから後で見せるって」
澪は革袋から風縫いを取り出し、まな板へ置いた。
改めて見ると、奇妙な生き物だ。羽毛とも鱗ともつかない膜。脚は鳥に近いのに、肋の形は獣っぽい。けれど、包丁を入れるべき位置はなぜか感覚でわかった。生き物として理解しているわけではない。ただ、料理人として、どこに可食部があって、どこに旨味が詰まっていそうかが、匂いと手触りで伝わってくる。
「……やるか」
「うん」
二人は並んで立った。
営業後の厨房は静かだ。店内の橙色の照明が、バックヤードのステンレスにも柔らかく反射している。遠くで冷蔵庫が低く唸り、換気扇の残響がわずかに残っていた。
恒一は解体用の包丁を握る。
刃を当てた瞬間、皮膜は驚くほど滑らかに裂けた。抵抗が少ない。脂は透明感のある淡い金色で、筋肉の色は鶏より深く、鴨ほど重くない。内臓の匂いも想像していたほど強くはなく、むしろハーブを乾かしたような清涼感が混じっていた。
「何だこれ……」
「うまそう?」
「ものすごく」
「顔が気持ち悪い」
「料理人への侮辱が一周して褒め言葉になってるな」
解体を進めるほど、恒一の脳内では料理の形が浮かび始める。
胸肉は火入れを慎重にすればしっとり仕上がる。腿は脂があるからコンフィか低温ローストがいいかもしれない。骨はスープにできる。翼の付け根のあたりは強い旨味がありそうだ。月雫の実はソースか、あるいはグレーズ。甘味だけでなく酸味もあるから、脂のある部位に合わせれば重くならない。
「澪」
「何」
「これ、絶対いける」
「うん」
「しかも、ただ珍しいだけじゃない。ちゃんとうまい」
「それ、わかるんだ」
「匂いで八割わかる」
「残り二割は?」
「食えば埋まる」
澪は口元だけで笑った。
胸肉を一部切り分け、塩だけで軽く下味をつける。余計な調味はまだいらない。未知の食材の味を知るには、まず素材そのものを見なければならない。恒一はフライパンを熱し、油を引かずに皮目から焼いた。
じゅう、と音が立つ。
その瞬間、二人は同時に顔を上げた。
「……何これ」
「やばい」
香りが一気に広がる。
鴨を焼いた時のような強い脂の香ばしさに、山椒にも似た爽やかな刺激が混じる。しかも熱を入れたことで、隠れていた甘い匂いまで立ち上がった。厨房の空気が変わる。深夜の店の静けさの中で、その香りだけが異様に生きていた。
表面に焼き色をつけてから、少し火を落とす。別鍋で月雫の実を少量の赤ワインとともに煮詰めると、果汁は淡い琥珀色から深い紫へ変わっていった。砂糖を加えなくても十分に甘く、だが後味は驚くほど軽い。そこへ風縫いから出た脂を一滴落とす。香りが一段深くなる。
「はい、優勝」
「まだ食べてない」
「匂いの時点で強い」
澪が珍しく前のめりだ。恒一も同じ気分だった。
皿に簡単に盛り付ける。試食なのだから見た目は最低限でいい。それでも、切り分けた肉の断面は美しかった。淡い桜色。繊維は細かく、肉汁がしっとりと光っている。そこへ月雫のソースを少しかけると、皿の上だけが異世界みたいな色になった。
カウンターへ皿を二つ運ぶ。
営業後の店内に、二人だけが向かい合って座った。
「……食うか」
「食う」
ナイフを入れる。抵抗が少ない。
一切れを口に運んだ瞬間、恒一は思わず目を閉じた。
うまい。
いや、そんな簡単な言葉で片づけたくないくらい、うまい。
最初に来るのは鶏肉に近い上品な旨味だ。けれどそのあとに、山の獣のような深い香りが追いかけてくる。脂は軽いのに厚みがある。月雫のソースは果実の甘みだけでなく、ほのかな苦味と酸味が肉の輪郭を引き締めて、最後に鼻へ抜ける香りを長くする。
知らない味だ。
なのに、ちゃんと「料理」になっている。
「……っ」
向かいで、澪も固まっていた。
彼女はもう一口食べ、今度はゆっくり咀嚼し、それから小さく息を吐く。
「何これ」
「だろ」
「悔しいけど、すごい」
「悔しいって何だよ」
「店、まだ終われない」
澪のその一言に、恒一は笑った。
笑いながら、胸の奥が熱くなった。
終われない。
その言葉は呪いみたいでもあり、救いみたいでもあった。
赤字も再開発も消えていない。問題は何一つ解決していない。地下の冷蔵庫の底に森があったところで、家賃が免除されるわけでも、明日から満席になるわけでもない。
けれど、それでも。
祖父がなぜこの店を畳まなかったのか、ほんの少しだけ理解できる気がした。
店とは、ただ同じ料理を繰り返す場所じゃない。新しい一皿に出会った瞬間、その未来を信じたくなってしまう場所だ。
澪がフォークを置いて、恒一を見る。
「明日、限定で出す?」
「出す」
「本気?」
「本気」
「正体、聞かれたら?」
「……祖父の秘蔵ルート」
「雑」
「他に言いようがないだろ」
「でも、まあ」
澪は再び一切れ食べ、わずかに頬を緩めた。
「これなら、客は帰ってくるかもね」
その言い方は控えめだったが、恒一には十分だった。
帰ってくるかもしれない。
その「かもしれない」が、今夜の自分たちには何より大きい。
恒一は皿の上の最後の一切れを見つめた。
銀座の地下にある、潰れかけの小さな店。祖父の遺した厨房。再開発で消えるかもしれない場所。そこに、異世界の森から持ち帰った肉がある。
ひどく現実離れしている。
だが、それでも皿の上の味だけは、どうしようもなく本物だった。
厨房の奥、古い冷蔵庫が低く唸る。
まるで何も知らないふりをして。
けれど、その白い箱の底のさらに先に、まだ見ぬ食材と、まだ知らない危険と、祖父の隠していた時間が続いているのだと思うと、恒一の心は妙に冴えた。
「澪」
「何」
「明日、少し早く来れるか」
「仕込み?」
「仕込みもあるけど、その前に祖父のメモ、全部見せてくれ」
「いいよ」
「あと」
「あと?」
「……もう一回、行く」
澪は少し驚いたように目を瞬かせ、それから、いつもの淡い無表情のまま言った。
「うん。そう言うと思った」
その声は不思議と、最初から答えを知っていた人間の響きをしていた。
店の灯りはまだ消さない。
消せないではなく、消さない。
営業後の地下の店で、朝倉恒一はようやく、自分の中の何かがはっきりと前を向いたのを感じていた。
赤字の数字よりも、冷蔵庫の奥の匂いを信じたい夜がある。
そして、その夜はたぶん、料理人にとって一度きりでは終わらない。
明日、この皿を出す。
銀座の地下にある、小さな店で。
異世界の森の匂いを、何も知らない客の前へ運ぶのだ。




