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第1話 銀座の地下、潰れかけの店

銀座の夜は、いつだって地上から先に光る。


 磨き上げられたガラスに映るブランドの看板。細いヒールで石畳を鳴らす女たち。低く滑るように交差点を抜けていく黒塗りの車。高級時計店の白い照明は冷たく、クラブの入口に立つ男たちの笑顔は妙に整いすぎていて、どこを見ても金と洗練と余裕でできているように見える。


 だが、その華やかな銀座の裏側には、光の届き方が少し遅い場所がある。


 大通りから一本外れた、車も人も途端に足早になる細い通り。新しく建て替えられたビルの隙間に、時代から置いていかれたような古い雑居ビルがひっそりと残っていた。


 入口の脇に取り付けられた小さな看板には、控えめな文字でこう書かれている。


 Restaurant 玻璃亭


 看板というより、そこに店があることを、申し訳程度に主張しているだけの札だった。


 さらに言えば、その看板を見つけたからといって、すぐに店へ辿り着けるわけでもない。ビルの中に入ると、共用廊下の照明は薄暗く、古いエレベーターはすでに止まったまま。地下へ向かうには、壁際に追いやられるように作られた細い階段を下りなければならない。


 コツ、コツ、コツ。


 靴音が古いコンクリートに吸い込まれていく。


 階段を下りた先の地下フロアは、ひどく静かだ。地上の喧騒がまるで嘘のように遠い。奥へ進むと、ようやく柔らかな橙色の灯りが見えてくる。


 その灯りの先に、玻璃亭はある。


 カウンター六席、二人がけのテーブルが二つだけ。厨房は狭く、それでも磨き込まれた銅鍋と包丁だけは妙に綺麗で、古い木のカウンターは何十年分もの肘と皿と会話を吸い込んだような色艶をしていた。壁の棚にはワインボトルが並び、年月に少し色の落ちたメニュー表は手書きの文字がやけに丁寧で、店内に漂う香りだけは、この銀座のどんな店にも負けていない。


 バターを焦がす匂い。赤ワインの煮詰まった甘い香り。玉ねぎと骨の旨味が溶けたソースの深さ。


 鼻を利かせた人間なら、階段を下りきる前に腹が鳴る。


 だが、匂いがいいことと、商売がうまくいくことは、残念ながら同じではない。


「……今日も、静かだな」


 厨房から小さく漏れた独り言に答える者はいなかった。


 朝倉恒一は、カウンター越しに店内を見回した。


 午後七時十分。銀座の飲食店としては、客が増え始めてもおかしくない時間だ。けれど、玻璃亭の店内はきれいなほど空いている。カウンターの一番端に座っている常連の男性が一人、グラスの赤ワインをゆっくり傾けているだけ。テーブル席は二つとも空いたままだ。


 恒一は小さく息を吐くと、手元の帳面に目を落とした。


 本日の来客予定、予約ゼロ。


 いや、予定と書くのも大げさかもしれない。玻璃亭はもともと大々的に予約を取る店ではない。常連がふらりと来て、食べて、飲んで、静かに帰っていく。昔はそれで十分回っていた。祖父の代までは。


 だが今は違う。


 銀座の地代は年々上がり、周囲の店は次々と改装され、外国語の看板が増え、情報サイトに載るような派手な店が連日行列を作っている。その中で玻璃亭だけが、古いまま、狭いまま、静かなまま、取り残されていた。


 恒一は帳面の数字をもう一度見た。


 見なければ現実が変わるわけでもないのに、つい見てしまう。


 今月の売上。仕入れ。光熱費。家賃。ビル管理費。設備修繕費。税金。細かな雑費。


 赤字。


 しかも、見て見ぬふりでは済まない類の赤字だった。


「……はは」


 笑いが漏れたが、乾いていて、自分で聞いていても冗談のようには聞こえなかった。


 祖父がこの店を遺したとき、恒一はまだそこまで深く考えていなかった。


 料理人として未熟でも、店はなんとか続くと思っていたわけではない。そんな甘い見通しはさすがに持っていなかった。ただ、どうにかするしかないのだと、若さと意地で誤魔化していただけだ。


 祖父――朝倉宗司は、恒一が知る限り、最も不器用で最も誇り高い料理人だった。


 必要以上のことを喋らない人だった。弟子を何人も取るタイプでもなく、テレビに出るような華やかさとも無縁だった。だが、鍋の前に立たせれば空気が変わった。包丁を入れる音ひとつ、ソースを煮詰める匂いひとつで、人を黙らせることができる人だった。


 その祖父が最期まで守っていたのが、この地下の小さな店だ。


 恒一に料理の手ほどきをしたのも祖父なら、「店を残せ」ではなく「潰すな」とだけ言い残して逝ったのも祖父だった。


 残せと守れでは、少し違う。


 その違いを、恒一は最近ようやく理解し始めていた。


 守るというのは、想像していたよりずっと泥臭い。毎日の売上に胃を痛め、皿を洗いながら電気代を気にし、ソースを煮詰める横でビルの契約書に目を通し、客が帰ったあとに一人で床を磨きながら、いつまで続けられるのかを考えることだ。


 華やかさなんてどこにもない。


 あるのは、火と油と洗剤の匂いと、数字の重さだけだ。


「マスター」


 カウンターの端から声がした。


 さっきから一人で飲んでいた常連の男性だった。四十代後半くらいの、広告代理店かどこかの役員に見える整った身なりの男で、月に二、三度ふらりとやってくる。ネクタイを少し緩めた姿が妙に似合う人だ。


「はい」

「いつもの、仔牛のやつ。まだあります?」

「あります。少々お待ちください」


 注文が入ると、それだけで背筋が伸びる。恒一は帳面を閉じ、コンロの火を強めた。


 冷蔵庫から下処理済みの仔牛肉を取り出し、フライパンにバターを落とす。じゅわ、と音が立った瞬間、店の空気が少しだけ生き返る。肉を焼く香りは正直だ。どんなに気持ちが沈んでいても、客商売の顔を取り戻させる力がある。


 表面に焼き色をつけながら、横鍋でソースを温める。


 フォンドヴォー。赤ワイン。香味野菜。少量の生クリーム。


 祖父のレシピを、恒一なりに調整した一皿。


 完全に同じ味ではない。いや、同じにすることはできない。祖父の味は、たぶん祖父の腕と時間と人生があって初めて成立していた。だが、だからといって真似を諦めるわけにもいかなかった。料理人が手を動かす理由のほとんどは、諦めないためにある。


 皿を温め、ソースを引き、肉を盛り付ける。添えたポテトピュレの滑らかさをスプーンで整え、最後に黒胡椒をひと挽き。


「お待たせしました。仔牛のソテー、マルサラソースです」

「ありがとう」


 男はフォークを入れ、一口食べる。少し目を細めて頷いた。


「……やっぱり、ここは落ち着くなあ」

「ありがとうございます」

「銀座って、最近どこ行っても派手でしょう。もちろん、派手な店は派手な店でいいんだけど。こういう店、減ったよね」

「そうですね」


 恒一は笑って答えたが、その「減った」の中に玻璃亭自身も含まれている気がして、少しだけ胸が重くなった。


 男は二口目を口に運んでから、思い出したように言った。


「そういえば、この辺もまたいじるらしいね。再開発」

「……聞きました」

「このビルも入ってるんじゃない?」

「まだ、正式な話は」

「でも、いずれ来るよ」


 言い方に悪意はなかった。ただの世間話だ。銀座で働いていれば、そういう話題は珍しくない。けれど、現にその話は恒一の机の上にも乗っている。


 今週の頭、ビル管理会社から封書が届いた。丁寧すぎる文面で、周辺一帯の都市整備計画に関する説明会の案内が記されていた。まだ決定ではない、関係各所と調整中、入居テナントへの配慮を最優先に――そんな言葉がいくつも並んでいたが、要するに、遅かれ早かれ立ち退きの話が出るということだ。


 地上の店なら、条件次第で移転も考えられるかもしれない。


 だが玻璃亭は違う。


 この店は、ただの場所ではない。


 祖父の残した厨房であり、匂いであり、癖であり、記憶だった。


 何より、恒一自身、この店を別の場所へ移せる気がまったくしなかった。


 火の入り方まで違ってしまいそうで。


 階段を下りる足音の長さまで別物になりそうで。


 銀座の裏通りの地下にある、この小ささごと失われてしまいそうで。


「まあ、そうなったらそうなったで、またいい店探せばいいんじゃない?」


 男は悪気なく言った。


 恒一は「そうですね」と答えかけて、やめた。


 代わりに曖昧に笑った。


 探せばいい、で済むなら、きっと料理人はもっと気楽だ。


 店は箱じゃない。少なくとも恒一にとっては、そうではない。


 客が食べ終わる頃、階段の上から足音が聞こえた。


 コツ、コツ、コツ。


 この店へ降りてくる人間の足音は、不思議と覚える。常連は階段の下り方が似るからだ。慎重に一段ずつ下りる人、電話を切ってから来る人、酔いを隠しながらやってくる人。


 だが今の足音は、少し速く、迷いがない。


 そして、恒一はその足音の主を知っていた。


 階段の先に姿を見せたのは、短めの焦げ茶色の髪を後ろで一つに束ねた少女――いや、少女と呼ぶには少し大人びているが、銀座の店に立つにはラフすぎる格好の若い女だった。


 黒のジャケット。動きやすいパンツ。細身だが無駄のない体つき。猫のように鋭い目。店員というより、どこか別の現場の人間に見える。


 火乃坂澪。


 玻璃亭で唯一、恒一以外にまともに厨房へ入れる人間であり、同時に、この店の空気に一番似つかわしくない人間でもあった。


「お疲れ」


 入ってくるなり、澪は簡潔に言った。

「お疲れ。今日は早かったな」

「上、思ったより空いてたから」


 上、というのは地上のことではない。彼女は昼間、別の店でバイトをしている。というより、していた、という表現のほうが最近は近い。玻璃亭の手伝いに入る日が増えすぎて、もはやそちらが本業みたいになっていた。


 澪は店内を一瞥すると、カウンターの客に軽く頭を下げ、すぐにバックヤードへ回った。慣れた動きでエプロンをつけ、手を洗い、髪をまとめる。そこに迷いはない。


「客、一人だけ?」

「今のところは」

「ふーん」


 相変わらず愛想のない返事だ。だが、それでいて店内のグラスの減り方や皿の下がり具合はきっちり見ている。客の前で必要以上に喋らないのも、実は祖父に叩き込まれたことの一つだった。


 澪は冷蔵庫の中を覗き込み、明日の仕込み用の食材を確認し始めた。しばらくして、ぴたりと手が止まる。


「……これ、残り少ない」

「わかってる」

「鹿の骨も、香草も、バターも、ワインも」

「わかってるって」

「わかってて、この量?」


 言いながら、澪は扉を閉めた。


 その視線が冷たい。冷たいが、責めているだけではない。現実を突きつけるときの目だ。


 恒一は苦笑した。


「仕入れは明日朝にでも――」

「その金、あるの?」

「……」

「黙るんだ」

「うるさいな」

「うるさく言わないと死ぬでしょ、この店」


 声音は低いが、冗談ではなかった。


 澪は昔からこうだ。余計な慰めを言わない。その代わり、目を逸らすこともしない。


 客の会計を済ませ、見送って、店内に再び静けさが戻る。


 時刻は八時を回った。


 この時間帯でもう一組も来なければ、今日はかなり厳しい。かなり、どころではない。現実的に考えて、続けることそのものが無謀に近づいていく数字だった。


 澪はカウンターの内側に腕をつき、店内を見渡した。

「畳む?」

「……」

「今ならまだ、そこそこ綺麗に終われるかもよ」

「お前がそれ言うのか」

「私は別に、店を閉めるなって言ってるわけじゃない」


 澪はそう言ってから、少しだけ目を細めた。


「でも、このまま終わるのは違うって言ってるだけ」


 恒一は返事をしなかった。


 閉める、という言葉は何度も脳裏をよぎっている。精神論で数字は消えないし、意地だけで家賃は払えない。祖父の店だからという理由で経営破綻するのは、むしろ祖父に失礼なのではないかと思う夜だってある。


 けれど、閉める決断を下そうとすると、喉の奥に骨が引っかかったようになる。


 火を落とした厨房を想像できない。


 階段の灯りを消したあとの地下を、想像したくない。


 澪は恒一をしばらく見つめ、それから、ぽつりと言った。


「まだ終わってない」

「……何が」

「この店」

「終わりかけてるだろ、十分」

「終わりかけてるのと、終わってるのは違う」


 そこで彼女は、ふいに踵を返した。


 向かった先は、店の奥。


 厨房のさらに奥、普段は酒のストックと備品を置いているだけの狭い通路。その先には、古い業務用冷蔵庫が一台置かれている。白い塗装はところどころ剥げ、取っ手の金属は鈍くくすんでいた。祖父が最後まで買い替えを拒んだ、年季の入りすぎた代物だ。


 恒一もあとを追う。


「おい、澪」

「来て」

「何する気だ」

「見るだけ」


 澪は冷蔵庫の前で立ち止まった。


 その冷蔵庫の存在に、恒一は昔から少しだけ違和感を抱いていた。厨房の広さに対して不自然に大きいこと。ほとんど使われていないはずなのに、祖父がここだけは妙に丁寧に手入れしていたこと。中に入っているのは古い瓶や乾物、空になったケースばかりで、とても営業に使っているようには見えなかったこと。


 そして何より、祖父が亡くなる直前、かすれた声で言った言葉。


『奥を見る時は、一人で見るな』


 あのときは、遺言としてはあまりに要領を得なくて、熱で譫言でも言っているのかと思った。だが、澪はそれを覚えていたらしい。


「……まさか、お前」

「知ってた、とは言わない。聞いてた、くらい」

「誰に」

「おじいさんに」


 祖父に。


 その一言で、胸の奥がざわついた。


 澪は冷蔵庫の扉を開く。冷気が流れ出る。中には相変わらず、大して物は入っていない。乾いた香草、空瓶、古い木箱。


 だが澪は迷わず奥に手を伸ばし、最下段の金属棚を持ち上げた。


 がこん、と鈍い音がした。


「……は?」


 恒一は思わず目を疑った。


 棚の下には、さらにもう一枚、床板のようなものがはめ込まれていた。冷蔵庫の底だと思っていた部分が、実は二重になっていたのだ。澪はその板の端に指をかけ、持ち上げる。


 ぎ、と古い蝶番が鳴る。


 現れたのは、下へ続く暗い空間だった。


 冷蔵庫の底の下に、さらに奥がある。


 いや、奥という表現では足りない。それは通路だった。冷気の匂いの奥から、土と石と、湿った森のような匂いが上がってくる。冷蔵庫の中にあるはずのない匂いだ。


 恒一の喉が、からりと鳴った。


「……何だよ、これ」

「だから、まだ終わってないって言った」


 澪は懐中電灯を取り出し、下を照らした。


 石造りの狭い階段が続いている。かなり古い。人ひとり通るのがやっとの幅。湿気を含んだ空気が、現実とは違う温度でそこから流れ込んでくる。


 恒一はしばらく言葉を失った。


 祖父は、この下を知っていたのか。


 知っていて、ずっと黙っていたのか。


「おじいさん、昔、言ってた」


 澪が静かに言う。


「店を残したいなら、地上の仕入れだけ見てるなって」

「……意味わからなかった」

「私も。今まではね」


 恒一は冷蔵庫の底に開いた暗闇を見下ろした。


 心臓の音がうるさい。


 頭のどこかが、やめろと言っている。疲れているのだと、現実逃避の妄想だと、そんな馬鹿な話があるわけがないと。だが、それよりずっと強く、料理人としての勘に似た何かが騒いでいた。


 この匂いを見過ごすな、と。


 澪は恒一の横顔を見て、小さく口の端を上げた。

「行く?」

「……はあ?」

「今ならまだ引き返せる」

「引き返す前提で言うな」

「じゃ、行くんだ」


 恒一は乾いた唇を舌で湿らせた。


 怖い。


 それはそうだ。冷蔵庫の底から現れた謎の通路へ、夜の銀座で、営業中の地下レストランの奥から降りていこうというのだ。まともな神経なら止める。


 だが、この店がもうまともな理屈だけでは立っていないことも、恒一は嫌というほど知っていた。


 赤字。再開発。先の見えない仕入れ。閉店の現実味。


 その全部が背中を押す。


 店を畳むかどうかの話をしていたはずなのに、気づけばその選択肢がひどく遠く感じられた。


「……少しだけ、見る」


 ようやく出た声は、自分でも驚くほど低かった。


 澪は満足そうに頷く。

「そうこなくちゃ」


 彼女は先に一段目へ足を下ろした。


 石の階段がわずかに軋む。


 恒一は一度だけ、背後を振り返った。


 営業灯の落ちた厨房。磨いたばかりのまな板。銅鍋。祖父の包丁。狭い店内に漂うソースの残り香。客のいないカウンター。橙色の灯り。


 いつもと同じ、自分の店。


 なのに、その奥にこんなものが隠れていたなんて。


「恒一」


 下から澪に呼ばれる。

「早く」


 恒一は息を吸い込み、冷蔵庫の底へ足をかけた。


 石の階段は思ったより深い。


 一段、二段、三段。


 地上から遠ざかるごとに、空気の匂いが変わっていく。土の匂い。湿った葉の匂い。水気を含んだ夜の森の匂い。料理人の鼻が、異常だと告げていた。これは東京の地下にある空気じゃない。


 階段の先に、ぼんやりと青白い光が見えた。


 澪が懐中電灯を消す。


「ほら」

「……」


 言葉が出なかった。


 石の通路の先に、ぽっかりと出口が開いていた。


 その向こうには、銀座の地下にあるはずのない景色が広がっている。


 夜の森だ。


 見たこともないほど巨大な樹々が、黒い空へ向かって枝を広げている。葉はところどころ淡く光り、地面には青い苔のようなものが広がっていた。遠くで水の流れる音がする。獣のような、鳥のような、聞いたことのない鳴き声が闇の奥から響く。冷たく湿った風が、恒一の頬を撫でた。


 そしてその風は、確かに匂っていた。


 肉の匂い。


 草の匂い。


 果実の匂い。


 香辛料にも似た刺激。


 知らないのに、食材だとわかる匂い。


 恒一の喉が鳴る。


 料理人として、抗えない種類の衝動が胸の奥で火を噴いた。


 澪はその横顔を見て、呆れたように笑った。


「その顔すると思った」

「……何だよ」

「店、畳む顔じゃなくなった」

「まだ、何も見てない」

「でも匂いでわかってるでしょ」


 図星だった。


 わかってしまった。


 この先に、何かがある。


 この店の終わりを先延ばしにする程度ではない。祖父が最期まで伏せていた理由がある。玻璃亭という小さな地下の店が、ただ古くて静かなだけの場所ではなかった理由がある。


 恒一は、目の前の異界の森を見つめたまま、小さく呟いた。


「じいちゃん……何を隠してたんだよ」


 返事はない。


 あるのは、夜の森の息づかいだけだ。


 銀座の地下の冷蔵庫の底から、別の世界へと続く扉が口を開けている。


 潰れかけの店の奥で。


 火の消えかけたレストランの、そのさらに先で。


 朝倉恒一は、自分の知っている日常が、今、音もなく形を変え始めたのを感じていた。


 そして、その変化に対して恐怖より先に浮かんだ感情が、ひどく不純で、どうしようもなく料理人らしいものだったことを、まだ誰にも言えなかった。


 ――あの森の匂いを、皿の上に乗せたい。

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