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第10話 狙われる仕入れ先

 店に来る客には、二種類いる。


 料理を食べに来る客と、料理以外を見に来る客だ。


 その違いは、案外すぐにわかる。皿を見る目つき、水の飲み方、厨房の手元を追うかどうか、会話の間の取り方。料理人は客商売をしているくせに、人の視線には妙に敏感だ。毎日、自分の作ったものを他人の口へ渡しているのだから、当然といえば当然かもしれない。


 朝倉恒一は、その日の開店前から、少しだけ神経が尖っていた。


 昨日、再開発側らしき人間が店を見に来た。

 紗雪はその気配に気づいた。

 そして、白いスープを飲んで、「少しだけ思い出しましたわ」と言った。


 良いことと悪いことが、同じ皿の上に盛られて出てきたみたいな一日だった。


「包丁、危ない」

 澪の声で、恒一は我に返った。

「え」

「今、指まで落としかけた」

「……まじか」

「まじ」


 火乃坂澪は、店の奥で風縫いの骨を砕きながら、じろりとこちらを見た。

 彼女のそういう目はだいたい正しいので、恒一は素直に包丁を置いた。


「悪い」

「考えごとしながら刃物持たない」

「気をつける」

「最近ずっと言ってる気がする」

「気をつける」

「二回言っても信用は増えない」

「厳しいな」


 澪は小さく鼻を鳴らした。

「今日は特に」

「何で」

「顔が“何か来そう”って言ってる」

「そんな顔あるか」

「ある」


 たぶん、ある。


 恒一自身もそんな予感を抱いていた。

 根拠はない。だが、店が動き始めるときには、良い変化だけが順番に来るわけではない。料理の噂が広がれば、それを面白がる客も来るし、品定めする客も来るし、出所を探りたがる人間も来る。


 異世界の食材を銀座の地下で出しているなど、普通に考えれば荒唐無稽だ。

 だが、「普通じゃないうまさ」の匂いだけは、嘘をつかない。


 それを嗅ぎつける人間がいても、おかしくなかった。


「今日は角兎?」

 澪が訊く。

「メインは角兎、風縫いは一皿だけ」

「白いスープは?」

「二杯分だけ」

「紗雪さん来たら?」

「……出す」

「やっぱり」

「お前、そこ突くの好きだな」

「反応わかりやすいから」


 澪は面白がっているようでいて、手は止めない。

 角兎の煮込みを整え、白いスープのベースを静かに温め、風縫いの下処理まで終えている。その淡々とした動きに少し救われる。店がざわつきそうな時ほど、厨房のリズムは平常であるべきだ。


 午後五時半。

 店を開ける。


 最初の客は静かだった。

 常連の老夫婦。次に一人で来た会社員風の女性。角兎の煮込みを頼み、何も言わずに食べ、少しだけ口元を緩めて帰っていく。悪くない滑り出しだ。


 そして、午後六時二十分頃。


 階段を下りてくる足音があった。


 ゆっくりだが迷いがない。

 ただ、その歩幅に妙な計算がある。急がないふりをして店の空気を読んでいる人間の足音だ。


 扉が開く。


 入ってきたのは四十代前半くらいの男だった。

 上質だが主張しすぎないスーツ。腕時計も靴も高いが、嫌味にならないよう抑えている。髪もきっちり整っている。顔立ちは地味に見えるのに、目だけがやけに印象に残る。笑っているようで、まったく笑っていない目。


「こんばんは」

 男は柔らかく言った。

「いらっしゃいませ」

 恒一も店主の声で返す。

「一人ですが」

「どうぞ」


 男はカウンターの中央を選んだ。

 厨房の手元がよく見える席だ。しかも、他の客の出入りも視界に入る。料理を食べるだけなら、もっと端の落ち着く席もあるはずなのに。


 澪が厨房の奥で、ほんのわずかに目を細めた。


 水を出す。

 男は礼を言い、メニューを開く。だが、目が文字を追っている時間は短い。すぐに黒板、それからワイン棚、厨房の奥、冷蔵庫の位置、床の導線へ視線が走る。


 料理を選ぶ目ではない。

 店を読む目だ。


「おすすめは、どれになりますか」

 男が言う。

「本日でしたら、角兎の赤ワイン煮込みと、風縫い胸肉のロースト、それから白いスープをご用意しています」

「角兎に風縫い……」

 男は小さく笑った。

「面白い名前ですね」

「ええ」

「どちらの地方のお料理で?」

「店の昔からの呼び方です」

「なるほど。では、角兎を」


 それだけなら、まだ普通の客の範囲内だった。

 だが、料理を待つ間の会話が、少しずつ違った。


「失礼ですが」

 男はワイングラスの位置を整えながら言う。

「こちら、昔から銀座で?」

「祖父の代からです」

「長いのですね」

「ええ」

「仕入れも独自ルートでしょうか」

「食材によります」

「面白い食材を使われているので、少し気になりまして」

「ありがとうございます」


 恒一はそれ以上を返さなかった。

 聞き方が自然すぎる。自然すぎる質問は、だいたい一番自然ではない。


 男はそれ以上強くは追ってこず、水を一口飲む。

 その引き方がまたうまい。露骨に探っているように見せないための、間の取り方を知っている。


 厨房へ戻ると、澪が小さく言った。

「やだね」

「うん」

「何者」

「たぶん“その手”の人」

「どの手」

「情報を持って帰る人」

「再開発?」

「かもしれないし、グルメ系かもしれないし、ただの面倒くさい好奇心かもしれない」

「全部嫌」

「同意」


 角兎の煮込みを皿へ盛る。

 手は冷静でいた。

 こういう客に対して、料理人ができることは少ない。料理をごまかさないこと、余計なことを喋らないこと、顔に出しすぎないこと。そのくらいだ。


 皿を出す。


「お待たせしました」

「ありがとうございます」


 男はまず香りを嗅いだ。

 そこまでは普通だ。

 だが次に、スプーンでソースだけを少し掬い、舌の上で転がした。そのあと肉を食べる。さらに付け合わせ、パン、もう一度ソース。


 分解して見ている。


 うまいかどうかだけではなく、構造を探っている食べ方だった。


 気づかないふりをしてカウンターの向こうへ戻る。

 だが、背中に視線が刺さる感じが消えない。


「……ねえ」

 澪が低く言う。

「ん」

「今、冷蔵庫見た」

「見たな」

「二回」

「気づいたか」

「そりゃね」

「俺も気づいた」


 古い冷蔵庫。

 祖父の残した、底に異世界への通路を隠したあの冷蔵庫。


 もちろん、外から見ればただの古びた業務用だ。

 だが、何かを探る目を持った人間にとっては、「あの厨房で妙に場違いなもの」と映るかもしれない。


 恒一の背筋を、ひやりとしたものが走った。


 男は煮込みを食べ終えると、今度は白いスープを追加で頼んだ。

「もしまだあるなら、白いスープも」

「ございます」

「ぜひ」


 その頼み方が、まるで予定調和みたいで嫌だった。

 角兎で店の芯を見て、次にスープで奥行きを測る。料理好きの客にも見える。だが、それだけではない。


 白いスープを温める。


 音を立てるな。

 祖父のメモが頭をよぎる。


 白濁茸の香りは繊細だ。煮立てすぎれば飛ぶ。だが、今の恒一の集中は少し違う方向へ引っ張られていた。男の視線、質問、冷蔵庫への注意。無視したいのに無視できない。


「恒一」

 澪が低く呼ぶ。

「大丈夫」

「顔」

「……」

「客じゃなくて鍋見て」


 ぴしゃりと言われて、ようやく我に返る。


 そうだ。

 相手が何を見ていようと、皿を粗末にした時点で負ける。


 恒一は呼吸を整え、火を少し落とした。

 スープの表面が静かに揺れる。白い香りがやわらかく立ち上がる。カップに注ぎ、余計な飾りはせず、そのまま出した。


 男は一口飲んだ。


 今度は、ほんの一瞬だけ、本当に驚いた顔をした。


 その反応自体は嬉しい。

 だが、次に来た言葉が問題だった。


「面白いですね」

 男が言う。

「この茸の香り、どこか乳のようでもありながら、乳ではない」

「……」

「白いのに重くない。何を使えばこうなるんでしょう」


 質問が、料理の感想と見せかけて核心に寄ってくる。


「店の秘密です」

 恒一が答えると、

「それは失礼」

 男は笑った。

「でも、こういう秘密がある店は、長く持たないこともありますから」


 その一言で、空気が変わった。


 カウンターの端で飲んでいた常連の男性が、ほんの少しだけ顔を上げる。

 澪は完全に無言になった。

 恒一自身も、一瞬だけ声を失った。


 脅しではない。

 そう聞こえないように、うまく作られた言葉だ。


 けれど意味は十分に伝わる。

 秘密のある店は、見つかれば長く持たない。そういう種類の視線を、男は今ここへ置いていった。


「うちは、長くやるつもりです」

 恒一はできるだけ平坦に言った。

「それは何よりです」

 男はそう返し、それ以上は踏み込まなかった。


 会計を済ませ、去り際に名刺も残さない。

 ただ、「ごちそうさまでした。印象に残る味でした」とだけ言って階段を上がっていく。


 足音が完全に消えるまで、恒一は扉のほうを見ていた。


「最悪」

 先に口を開いたのは澪だった。

「最悪だな」

「何あれ」

「たぶん、知りたいんだろうな」

「何を」

「この店がどこからあの味を持ってくるのか」

「気持ち悪い」

「うん」


 それ以上に、嫌だったのは自分の中にも同じ怖さがあることだ。

 この店の味が噂になるのは嬉しい。

 けれど噂が広がれば、いつか誰かは「味の理由」を探り始める。料理店としての評価が、そのまま秘密への導線になる。


 しかも今の男は、ただの食通ではなかった。

 店の構造、厨房の導線、冷蔵庫の位置。料理と同じかそれ以上に、そういうものを見ていた。


「今夜、行く」

 恒一が言った。

「異世界?」

「うん」

「何で」

「次の食材も欲しいけど、それだけじゃない」

「……様子見る?」

「見たい」

「何を」

「こっちの動きが、向こうからも嗅がれてないか」


 澪は少しだけ目を細めた。

「それ、昨日も似たようなこと言ってた」

「昨日は気配だけだった」

「今日は?」

「気配じゃない。こっち側で動いてる人間が増えた」

「それと向こうが繋がると思う?」

「思いたくはない」

「でも、思ってる」

「……うん」


 嫌な想像だ。

 異世界はこっちの都合だけで開かれているわけではない。森にいた大きな獣。風縫いの縄張りの先。人が通ったような痕跡。祖父が残した曖昧なメモ。あの通路の先にあるものが、単なる食材庫みたいに都合よくこちらへ口を開けていると考えるほうが不自然なのかもしれない。


「わかった」

 澪は短く言った。

「でも、今日は慎重に」

「うん」

「仕入れついでじゃなく、確認優先」

「わかってる」

「あと」

「あと?」

「さっきみたいなのに、顔で反応しない」

「……気をつける」

「三回目」

「信用ないな」

「今はない」


 そのやり取りの直後、階段の上から、また別の足音がした。


 恒一と澪は反射的に顔を上げる。

 だが次に聞こえたのは、もうだいぶ耳に馴染んだ、少し忙しない足音だった。


 扉が開く。


「ご、ごきげんよう!」


 東條院紗雪だった。


 今日は少し遅い来店だったせいか、店内の空気がいつもと違うことを入った瞬間に察したらしい。

 視線が恒一、それから澪、最後にカウンター席の空き方へと流れる。


「いらっしゃいませ」

 恒一が言う。

「ええ……その、何やら少し、空気が刺々しいようでしたけれど」

「そんなことまでわかるんですか」

「わ、わかりますわよ、それくらい」

「助かります」

「助かるのです?」

「今ちょうど、そういうのを無理に隠しても仕方ないと思ってたところなので」

「……そう」


 紗雪は少しだけ眉を寄せた。

「何かございましたの?」

「ちょっと、面倒そうな客が」

「また」

「“また”なんですか」

「ええ。そのような顔をしていらっしゃる時は、だいたい店の外側が騒がしい時ですもの」

「そんなにわかりやすいですか」

「かなり」


 言われてみれば、紗雪も澪と同じことを言う。

 それはつまり、本当に顔に出ているのだろう。


「今日は白いスープ、まだあります」

 恒一が話題を変える。

「……いただきますわ」

 紗雪はすぐに答えた。

「それと」

「はい」

「もしよろしければ、今日は……少しだけ、お話も」

「お話?」

「ええ。店のことを」


 その言い方はいつもより少し真面目だった。


 ただ食事をしに来た客の声ではない。

 この店に起きている何かを、彼女なりに確かめようとしている声だ。


「わかりました」

 恒一は頷いた。

「営業が落ち着いたら」

「ええ」


 紗雪は席へ座る。

 その横顔に、いつもの不器用な強がりではない、別の種類の緊張が見えた。


 彼女も何かを感じ取っている。

 再開発のこと。

 店を見に来る人間のこと。

 そして、おそらく祖父がこの店に関わっていることの重さも。


 地下の小さなレストランは、静かに賑わい始めている。

 だがその静けさの下で、別の何かも確実に動いていた。


 その夜、営業を終えたあとで、恒一と澪は再び冷蔵庫の底を開けることになる。


 だがその前に、まずは店の中で答え合わせをしなければならないことが、一つ増えていた。


 東條院紗雪は、ただの常連客ではない。

 そしてこの店も、たぶん、ただの地下の小さな店ではない。

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