第11話 一番近い相手にだけ、言えない
営業を終えた店というのは、不思議な静けさを持っている。
客がいた時間の熱がまだ残っているのに、もう誰の声もしない。グラスの縁に薄く残った水滴、皿の置かれていた跡、椅子の引かれた角度、厨房に漂うソースとワインと火の匂い。その全部が、ついさっきまでここに人がいて、料理を食べ、言葉を交わし、帰っていったことを物のほうだけで語っている。
その夜の玻璃亭も、そんな静けさに包まれていた。
東條院紗雪は、閉店間際まで残っていた。
いつものように長居をするわけではない。けれど、今日は「少しだけ、お話も」と言っていたから、恒一も彼女が帰る前に一度、席へ顔を出すつもりでいた。
だが、その前にやるべきことが一つあった。
冷蔵庫の底の先。
異世界の森へ、今夜も入ること。
それはもはや仕入れであると同時に、確認でもあった。
今日来たあの妙に目の笑わない男が、店だけではなく厨房や冷蔵庫まで見ていたこと。
異世界側でも、人が通ったような痕跡が前からあったこと。
偶然と思いたい材料と、偶然では済ませたくない違和感が、同じ皿の上で噛み合わなくなってきている。
「行く前に、紗雪さんのとこ顔出してくる」
恒一が言うと、澪は濡れた手を拭きながら顔を上げた。
「今?」
「うん。今日、ちょっと話したいって言ってたし」
「……」
「何だよ」
「別に」
「その“別に”は別にじゃないだろ」
「別にじゃないけど、別にいい」
「面倒くさいな」
「お互い様」
火乃坂澪はそう言ってから、カウンターの隅に置いてあったランタンの油量を確かめた。
手は動いている。動いているが、口調だけが少し硬い。
恒一はそこに何か引っかかるものを感じつつも、まずは紗雪の席へ向かった。
店内にはもう紗雪しかいない。
テーブルの上には紅茶のカップが半分ほど残っていて、湯気はもう細い。紗雪は両手でカップを包むように持ち、珍しく少し俯き加減だった。いつものような「堂々としているふり」は薄い。代わりに、何かを言おうとして言い方を探している時の顔だ。
「お待たせしました」
恒一が言う。
「い、いいえ。待たされたなどとは申しませんわ」
「ありがとうございます」
「ええ」
そこで会話が切れる。
紗雪は視線を紅茶へ落とし、カップの縁を親指でなぞった。
話を切り出したいのに、言葉がうまく形にならない時の仕草だった。
「店のことを、って」
恒一のほうから促すと、紗雪は小さく息を吸った。
「……本日いらした方ですわ」
「やっぱり」
「ええ。あのような方が店を見にいらっしゃるのは、よろしくない兆しですの」
「ご存じなんですか。ああいう人たちのこと」
「詳しくはありません」
紗雪はすぐに首を振った。
「ですが、祖父のところへも、たまに似たような雰囲気の方が来ますもの。柔らかく話すくせに、目的は別のところにあるような方々」
「……」
「そういう方が店を見にいらした、ということは」
「何かが動いてる、かもしれない」
「ええ」
紗雪はそこで少しだけ目を上げた。
「祖父は何も申しません。申さないでしょう。ですが」
「ですが?」
「この店は、ただ“古くて残っている店”ではないのだと思いますわ」
「それは、最近ほんとにそう思うようになりました」
「……そう」
彼女は少しだけ安心したようだった。
自分だけが妙なことを感じているのではないとわかった時の顔だ。
「怖がらせたいわけではありませんのよ」
紗雪が言う。
「ただ、軽く見てはいけないと申し上げたかったのですわ」
「ありがとうございます」
「……ええ」
「助かります」
「ですから、そういうふうに素直に礼を言われると困りますの」
「困るんですか」
「わたくしが、何だか……とても心配性みたいではありませんか」
「違うんですか」
「ち、違うとは申しませんけれど」
そこで紗雪は小さく目を伏せた。
「ここは」
彼女は言葉を選ぶようにゆっくり続ける。
「なくなっては困りますの」
「……」
「わたくしだけではなく、祖父にとっても」
「そうですか」
「ですから、その……ご無理はなさらないでくださいまし」
その言葉が、恒一の胸の奥へ静かに落ちた。
ご無理はなさらないでくださいまし。
その言い方はやはり少し不器用で、どこか令嬢めいている。けれど中身は、ひどく真っ直ぐだった。
紗雪は、この店を守りたいと思っている。
客として。
思い出の場所として。
たぶん、祖父との繋がりとしても。
その気持ちは十分伝わった。
「気をつけます」
恒一が答えると、紗雪はようやく少しだけ表情を緩めた。
「……ええ。そのようになさい」
「はい」
「本当に」
「本当に」
すると紗雪は、ほんの一瞬だけ迷ってから言った。
「あなたは」
「はい」
「たまに、店のことになると、自分のことを後回しにしすぎるように見えますもの」
「そんなにわかりやすいですか」
「かなり」
今日だけで二人目だった。
恒一は思わず苦笑する。
「意外と、顔に出るんですね」
「とても」
「じゃあ気をつけないと」
「ええ」
そのやり取りを終えて、紗雪は帰っていった。
今日の足音は、来た時よりも少しだけ静かだった。話したいことを言えたからかもしれない。
扉が閉まり、店の中に完全な静けさが戻る。
恒一はそのまま厨房へ戻った。
そこにいた澪は、もう異世界へ入る準備をほぼ終えていた。黒シャツの上に軽いジャケットを羽織り、革袋には槍、縄、解体用の包丁、ランタン、乾いた布まで揃っている。いつもながら、準備だけを見ると恒一のほうが助手みたいだった。
「話、終わった?」
澪が言う。
「うん」
「何て」
「今日の客、気をつけたほうがいいって」
「へえ」
「あと、無理するなって」
「……ふうん」
その返事が、少しだけ冷たく聞こえた。
「何だよ」
「別に」
「今日そればっかりだな」
「便利な言葉だから」
「便利に使うな」
「でも本当に別に。準備できたから行こうってだけ」
澪は冷蔵庫の前へ向き直った。
だが、恒一にはわかった。
火乃坂澪は今、少しだけ機嫌が悪い。
しかも、その理由をうまく言語化できていない時の顔をしている。
「……何かあった?」
恒一が聞く。
「何も」
「いや、あるだろ」
「ない」
「ある」
「ないって」
「ある顔してる」
すると澪は、ぴたりと動きを止めた。
それから、ゆっくり振り返る。
「人の顔わかるようになったんだ」
「お前のは長い付き合いだから」
「ふうん」
「何だよ」
「……じゃあ言うけど」
澪は腕を組んだ。
「恒一、最近ちょっと周り見えてなくない?」
「は?」
「店のこと」
「店のこと?」
「再開発のこと、変な客のこと、紗雪さんのこと、全部一人で考えすぎ」
「一人では考えてないだろ。お前にも相談してる」
「相談はしてる」
「じゃあ何が」
「背負い方」
その言葉は、思っていたより真っ直ぐに刺さった。
澪は視線を逸らさずに続ける。
「何かあるたびに、自分が前に出て、自分が答え出して、自分が何とかしなきゃみたいな顔する」
「それは店主なんだからそうだろ」
「それ、便利な言い訳」
「言い訳?」
「そう。店主だからって言えば、全部一人で抱えていいと思ってる」
「……」
恒一は反射的に言い返そうとして、言葉を失った。
違う、と言い切れるほど綺麗ではなかったからだ。
確かに最近、自分は店主であることを盾にしていたかもしれない。
祖父の店だから。
守ると決めたのは自分だから。
再開発も、客の質の変化も、異世界の森も、自分が前に出て何とかしなければならないと、半ば当然のように思っていた。
それが間違いだとは、今でも思っていない。
ただ、全部を自分の責任だと思い込むことと、前に立つことは、たぶん少し違う。
「お前だって」
ようやく絞り出した言葉は、少し荒かった。
「お前だって店のことになると一人で突っ込むだろ」
「私は前に出る。でも、抱え込まない」
「そうか?」
「そう。少なくとも、恒一みたいに“自分が倒れても店が回ればいい”みたいな顔はしない」
「そんな顔してるかよ」
「してる」
即答だった。
恒一は舌打ちしそうになって、やめた。
そこまで言われてしまうと、怒るのも違う気がしたからだ。
けれど、気持ちは落ち着かない。
図星を刺された苛立ちと、心配されていることへの後ろめたさと、今このタイミングでそれを言われることへの反発が、全部混ざっていた。
「今それ言うか?」
恒一が低く言う。
「今だから言う」
「これから森行くんだぞ」
「だから」
「集中切れるだろ」
「切れるならその程度」
「……っ」
そこまで言うか、と思った。
思った瞬間には、口が先に動いていた。
「じゃあお前はどうなんだよ」
「何が」
「お前だって、この店のことになったらおかしいだろ」
「おかしいよ」
「認めるんだな」
「認めるよ。でも私は、恒一が勝手に無茶するのが一番嫌なだけ」
「勝手にって何だよ」
「そのままの意味」
「一人で背負ってるつもりはない」
「つもりじゃなくて、そう見えるって言ってる」
「……」
近い。
気づけば、二人とも冷蔵庫の前でかなり距離を詰めていた。
厨房が狭いせいもある。
だが、それだけではない。
互いに引いていないのだ。
澪の目は怒っていた。
正確には、怒りの奥に焦りがある。今日の森で足を取られた時に向けられたものと同じ種類の、怖かった後にしか出ない怒りだ。
恒一はそこで、少しだけ冷静になった。
この相棒は、喧嘩をしたいわけではない。
ただ、本当に嫌だったのだ。
自分が勝手に前へ出て、勝手に危ない方へ行くように見えることが。
それがわかった瞬間、逆にうまく言葉が出なくなった。
「……わかった」
恒一はようやく言った。
「わかってない顔」
「わかったけど、言い方が腹立つ」
「それはごめん」
「謝るんだな」
「そこは早いほうがいいと思った」
「ずるいな」
澪は少しだけ息を吐いた。
それでも眉間の皺は消えていない。
「私も」
彼女が言う。
「店のことになると強く言いすぎる」
「それは、まあ」
「わかってる」
「でも、言わないよりはいい」
「そう?」
「うん。たぶん」
そこで、ようやく少しだけ空気が緩む。
だが、完全に戻りきる前に、澪がまた低く言った。
「だから、今夜も無茶しない」
「……はい」
「確認優先」
「はい」
「変な痕跡あったら、食材捨ててでも帰る」
「そこまで?」
「そこまで」
「……わかった」
「返事が軽い」
「いや、ちゃんとわかったって」
「ほんとに?」
「ほんとに」
やっとそれで、澪はほんの少しだけ表情を緩めた。
冷蔵庫の底板を開ける。
石の階段。
湿った土の匂い。
夜の森の気配。
何度目かの異世界行きにもかかわらず、通路を前にすると空気の温度まで変わる気がする。
今回は仕入れが主ではない。
確認だ。
誰かがこのルートを探っている気配がないか。森の中に不自然な痕跡が増えていないか。
だが、そう頭で整理していても、料理人の鼻は勝手に別のことを拾う。
森の奥から流れてくる樹液と果実と獣の香り。
未知の食材の気配。
それが本能を刺激するのだから困る。
「行くよ」
澪が先に降りる。
「うん」
二人は石段を下り、森へ入った。
今夜は風が弱い。
そのぶん、匂いが滞留している。
いつもの湿った青い夜の匂いに混じって、何か鉄っぽい、乾いた気配がある。昨日までより少しだけ人為的な、道具の匂いに近いもの。
「……やっぱりいる」
恒一が小さく言う。
「何が」
「人っぽい匂い」
「人?」
「完全にはわからない。でも、獣とも土とも違う」
「……どっち」
「奥」
「行ける?」
「確認だけなら」
澪は頷き、今日はいつもより慎重に歩幅を詰めた。
藪を避け、足跡を踏み荒らさず、音を立てないように進む。恒一もその後ろについていく。店の中では近すぎる相棒なのに、森の中ではこの距離が一番しっくりくる。
やがて、少し開けた場所へ出た。
そこには、以前はなかったものがある。
「……何だこれ」
澪が低く言う。
黒土の上に、浅く掘られた窪み。
その周囲に散る、細い金属片。
そして何より、明らかにこちらの世界のものではない細工のされた紐が一本、木の根元に引っかかっていた。
罠だ。
雑だが、獲物を引っかける意図だけはわかる。
異世界の獣が作るものではない。
誰かがここへ来て、仕掛けたのだ。
「……人が来てる」
恒一が言う。
「うん」
澪の声は短かった。
「しかも、一回や二回じゃない」
「そうだね」
「どうする」
「確認できた。今日は帰る」
「食材は」
「いらない」
その判断は早かった。
たぶん、今の澪はかなり冷えている。怖い時ほど、彼女は決断が早い。
恒一も異論はなかった。
罠があるということは、ここを「狩り場」として見ている何者かがいるということだ。異世界の獣ではなく、人間が。こちら側の人間なのか、向こう側の人間なのか、それすらまだわからない。だが、どちらにせよ、都合のいい仕入れ先だと思い込むには危険すぎる。
「帰る」
恒一も繰り返す。
二人はすぐに来た道を戻った。
その間、ほとんど言葉はなかった。
言わなくても、今のところはそれで足りた。
石段を上がり、冷蔵庫の底から厨房へ戻る。
ステンレスの台、吊られた鍋、乾いた布巾。
見慣れた店の空気が、今夜ばかりは妙に現実味を持って迫ってくる。
「……危なかったな」
恒一が言う。
「うん」
「仕入れ先どころじゃない」
「うん」
「向こうも“狩る場所”として見てる」
「しかも、うちだけじゃないかもしれない」
「それが一番嫌だ」
冷蔵庫の底板を閉じる手が、少しだけ重い。
異世界の森は、祖父が残した秘密の食材庫ではなかった。
少なくとも、今のままではそう思えない。
誰かがすでに入っている。
罠を仕掛けている。
食材を獲ろうとしている。
もしそれがこちら側の人間なら、秘密は想像よりずっと薄い。
もし向こう側の人間なら、それはそれで厄介すぎる。
「店、どうする」
澪が訊く。
「どうするも何も、明日も開ける」
「そうだね」
「でも仕入れの頻度は落とす」
「うん」
「白いスープと角兎で回しながら、少し様子見る」
「うん」
「それと……」
「それと?」
「俺、一人で考えすぎないようにする」
自分で言って、少しだけ気恥ずかしかった。
だが、言わなければたぶん伝わらない。
澪は一瞬だけ目を見開き、それから、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「それならまあ」
「まあ、って何だよ」
「今のところは合格点」
「上からだな」
「相棒だから」
その言い方に、妙に救われる。
一番近い相手にだけ、言えないことがある。
たぶん、それは距離が近すぎるからだ。
心配しているとか、無茶するなとか、助かったとか、そういう言葉ほど、変な照れや反発が混ざって真っ直ぐ出てこない。
けれど、言えなくても、わからないわけではない。
火乃坂澪は、自分が一人で背負おうとするのを嫌がっていた。
自分は自分で、澪が無茶して前へ出るのを、たぶん同じくらい嫌だと思っている。
その確認だけでも、今夜の森に入った意味はあったのかもしれない。
店の灯りを落とす前、恒一は一度だけ振り返って冷蔵庫を見た。
古びた白い業務用冷蔵庫。
何も知らない人間が見れば、ただの古い設備だ。
だが今は、その向こうにあるものが以前とは違って見える。
秘密の扉。
同時に、誰かが手を伸ばしている入口でもある。
玻璃亭は、ますます「ただの地下の小さな店」ではなくなっていく。
そして、その変化の中で一番近くにいる相手にだけ、うまく言葉にできない感情が増えていくのも、たぶん同じだった。




