第12話 あなたの店は、まだ終わっていませんわ
店を守るというのは、案外、味だけの話ではない。
もちろん料理店なのだから、最後にものを言うのは皿だ。
出した料理がうまくなければ、どんな思い出も、どんな常連も、どんな後ろ盾も長くは続かない。そういう意味では、料理店は残酷なくらい単純だ。
けれど同時に、店を支えるのは味だけでもない。
階段を下りてくる足音。
扉を開ける時の癖。
毎回同じ席を選ぶ人の視線。
帰り際に残る一言。
そういう小さなものが積もって、店はただの「うまい場所」から、「なくなると困る場所」へ変わっていく。
朝倉恒一は、そのことを最近ようやく実感し始めていた。
営業前の玻璃亭は、いつものように静かだった。
だが、その静けさの中に流れているものは、少し前までと明らかに違う。
再開発の線から外された区画。
店を見に来た再開発側らしき男。
異世界の森に仕掛けられていた罠。
そして、それを心配するようにここへ通い続ける東條院紗雪。
良い変化と悪い変化が、順番など守らず一度に押し寄せてきている。
「塩」
澪が言った。
「はいよ」
恒一は小皿を差し出す。
「ありがと」
「今日はちょっと機嫌いいな」
「そう?」
「少し」
「普通」
「それ、普通の時じゃない」
「うるさい」
火乃坂澪はそう言いながらも、口元だけ少し緩めていた。
昨夜の森での確認以降、二人の間に妙なぎこちなさが残るかと思ったが、むしろ逆だった。罠を見つけ、無茶をするなとぶつかり合い、それでも最後は「一人で背負いすぎないようにする」と口にした。そのせいか、今日は妙な遠慮が少し剥がれている。
もちろん、近すぎる距離感そのものは変わらない。
むしろ近いからこそ、ちょっとした言い方一つでぶつかる。
けれど、今朝の厨房には少なくとも「言わないまま変にこじれる」空気はなかった。
それだけで十分ありがたい。
「今日のおすすめ、どうする」
澪が鍋を見ながら訊く。
「角兎を軸に、白いスープは二杯分」
「風縫いは?」
「一皿だけ」
「まだ出すんだ」
「完全に引っ込めるのも違う気がする」
「まあね」
「ただ、今日は白いスープを前に出したい」
「紗雪さん来たら?」
「来ると思う」
「もう聞かなくても答えるようになったね」
「うるさい」
だが、本当にそう思っていた。
紗雪は、たぶん来る。
理由はうまく説明できない。けれど、白いスープを少しだけ思い出したあの顔を見たら、もう一度確かめに来る気がした。
そしてその気配は、開店して三十分もしないうちに現れた。
階段の上から聞こえてくる、少しだけ速く、少しだけ緊張した足音。
けれど今日は、その歩調に前よりも迷いがない。
扉が開く。
「ご、ごきげんよう」
東條院紗雪だった。
今日の装いは、いつもより少しだけ軽かった。淡い青のワンピースに白いカーディガン。髪も高くまとめすぎず、肩にやわらかく流している。そのせいか、令嬢然とした華やかさよりも年相応の可憐さが先に立っていた。
ただし、口を開くとやはり少し崩れる。
「本日も、席がございましたので、来店を許して差し上げましたわ」
「ありがとうございます」
「ええ」
「いつものお席へどうぞ」
「そのように」
席についた紗雪は、今日はすぐにメニューを開かなかった。
まず、店内を一度見回す。照明、カウンター、厨房、壁際の棚、客の入り具合。何かを確認するような目だ。店の空気が昨日より穏やかなことを、たぶん彼女はそれだけで感じ取っている。
「今日は少し安心しておりますわ」
水を置くと、紗雪が小さく言った。
「何かありました?」
「いえ、その……昨日ほど、外がざわついておりませんから」
「そうですね」
「ええ。ですから、本日は落ち着いて食事ができますわ」
「それはよかった」
「べ、別に、わたくしはいつでも落ち着いておりますけれど?」
「そういうことにしておきます」
「そうなさい」
そのやり取りに、昨日までより余裕がある。
少なくとも、最初の頃みたいに言葉が自爆してそのたびに固まる、というほどではなくなっていた。
「本日は白いスープ、ございます?」
紗雪が少しだけ真面目な顔で訊く。
「あります」
「では……まずはそれを」
「かしこまりました」
「それと、角兎も」
「はい」
厨房へ戻ると、澪が小さく肩をすくめた。
「来たね」
「来たな」
「白いスープから」
「やっぱりな」
「わかりやすい」
「お前もな」
白いスープを温める。
音を立てるな。
祖父のメモの通りに、静かに鍋を揺らす。白濁茸の香りは、派手ではない。だからこそ、余計な熱や雑な手つきにすぐ消される。
今日は昨日よりも少しだけ、乳脂を控えた。代わりに、風縫いの骨から引いた出汁の輪郭を少しだけ前へ出している。紗雪の記憶の中にある「白いスープ」とまったく同じにはできない。なら、今の自分の皿としてどこまで近づけるかだ。
「出すよ」
恒一が言う。
「はいはい」
澪が受ける。
テーブルへ運ぶ。
「お待たせしました」
「……ありがとうございます」
紗雪はスプーンを取る前に、少しだけ目を閉じた。
香りを確かめているのだろう。店の空気も一緒に吸い込むみたいに、ゆっくりと。
一口。
彼女の睫毛が小さく震えた。
二口。
今度は、ほんの少しだけ目元が和らぐ。
三口目を飲み込んでから、紗雪はようやく息を吐いた。
「……昨日より」
「はい」
「近い気がいたしますわ」
「本当ですか」
「ええ。昨日は“思い出しかけた”という感じでしたけれど、今日は……少しだけ、帰ってきた感じが」
「……よかった」
「ただし」
紗雪はいつもの調子を少しだけ取り戻すように顎を上げる。
「だからといって、わたくしを泣かせるほどの出来ではありませんの」
「泣くんですか」
「な、泣きませんわ!」
「そうですか」
「そうですわ!」
そう言い切りながら、目元は少しだけ熱を帯びていた。
泣くほどではない。
けれど、記憶の奥に触れたことは隠しきれていない。
恒一はそこで、ふと訊いてみたくなった。
「昔、この店で何があったんですか」
「え?」
「ここをそこまで覚えているってことは、ただ食事しただけじゃないのかなって」
「……」
紗雪はスプーンを置いた。
言葉を選んでいる。
こういう時の彼女は、何かを隠しているというより、どこまで話していいか自分でも測っているように見える。
「……大したことではありませんの」
しばらくして、紗雪は言った。
「本当に?」
「ええ。ですが、その……わたくし、子どもの頃、少しだけ食が細かったのですわ」
「今もそう見える時あります」
「そ、それは余計ですの」
「すみません」
「まったく」
紗雪は少し頬を膨らませ、それから静かに続ける。
「家では、ちゃんとしなさい、残してはいけません、好き嫌いをしてはいけません、と言われるたび、余計に食べられなくなってしまって」
「……」
「ですが、祖父に連れられてここへ来た時だけは、不思議とそうではなかったのですわ」
その声は、いつもの令嬢めいた調子を薄くしていた。
素の彼女に近い、小さくてやわらかな声だ。
「誰も急かさないのです」
紗雪は言う。
「祖父も、こちらの店主様も。食べなさいとも、残してはいけないともおっしゃらない。ただ、目の前に皿が置かれて、それを飲んでみたら……おいしかった」
「……」
「それだけですの。けれど、その“それだけ”を、子どもの頃のわたくしはずっと覚えていたのだと思いますわ」
恒一はしばらく何も言えなかった。
祖父らしい、と思った。
食べなさいとも、残してはいけないとも言わない。
ただ皿を出して、待つ。
料理人としては不器用なくせに、そういうところだけは妙に人に寄り添う人だった。
「だから」
紗雪が小さく続ける。
「この店がなくなるのは、困りますの」
「……ありがとうございます」
「別に、感謝される筋合いでもありませんけれど」
「でも嬉しいです」
「そういうふうに返されると困りますのよ」
「またですか」
「またですわ」
紗雪はそこで、紅茶もまだ頼んでいないのに、すでに少し照れていた。
その様子が妙に可笑しくて、恒一はほんの少しだけ笑う。
すると紗雪は、むっとした顔をしてから、諦めたように肩を落とした。
「……笑うなら、最後まで笑ってくださって結構ですわ」
「いえ、ただ」
「ただ?」
「だいぶ自然に話せるようになってきたなって」
「……っ」
紗雪の顔が一気に赤くなる。
「そ、それは!」
「はい」
「こちらが努力して差し上げているからですの!」
「ありがとうございます」
「まったく……」
言葉は相変わらず少し変だ。
けれど、最初の頃のぎこちなさとは明らかに違う。今はもう、ただの緊張ではなく、この店にいることそのものに慣れ始めた人間の崩れ方になっている。
その時、店の外で誰かの話し声がした。
扉の向こう、階段の途中あたりだろうか。
はっきりとは聞こえないが、男の声が二つ。笑い混じりの低い声。
紗雪の指先が、ぴたりと止まった。
「……また」
小さく漏れた声は、たぶん無意識だった。
恒一はすぐに店の入口へ目をやる。
聞き耳を立てるようなことはしたくない。だが、今の紗雪の反応を見ると、放っておくわけにもいかなかった。
「知ってる声ですか」
恒一が小さく訊く。
「い、いいえ。そこまでは」
「でも気になる」
「……ええ」
紗雪は少し迷ってから頷いた。
「最近、こういうふうに外で立ち止まる方が多い気がいたしますの」
「この店の前で?」
「このビルのあたりで、ですけれど」
恒一の胸の奥に、昨夜見つけた異世界の罠が重なる。
店の外。
森の中。
どちらにも「探っている人間の気配」がある。
まだ線では結べない。
けれど、気味が悪いほど同じ方向を向いている。
「……大丈夫ですか」
紗雪が逆に訊いてきた。
「え?」
「あなたの店ですのよ」
「そうですね」
「なのに、少しも大丈夫そうではありませんもの」
図星だった。
外の気配が気になって、たぶん今の自分は少し険しい顔をしているのだろう。
紗雪は白いスープの皿を前にしたまま、真っ直ぐこちらを見ていた。怖がってはいる。だが、それ以上に、言わなければならないことがあるという顔だ。
「あなたの店は、まだ終わっていませんわ」
紗雪は、はっきりとそう言った。
店の中が一瞬だけ、ひどく静かになる。
恒一は言葉を返せなかった。
紗雪自身も、口にした瞬間に少し息を止めたようだった。
だが、もう引っ込めない。
「再開発がどうとか」
紗雪は続ける。
「外で誰が見ているとか、そのようなことは……たしかに、よろしくありませんわ」
「……」
「ですが」
彼女の指先が、白いスープの皿の縁にそっと触れる。
「ここにはまだ、帰ってきたい味がございますもの」
「紗雪さん」
「祖父にとっても、わたくしにとっても、ここはもう終わった場所ではありませんの」
「……」
「それを、店主であるあなたが、先に終わったようなお顔をしてはなりませんわ」
完璧に、令嬢の叱責みたいな口調だった。
だが、その中身はきっと、これ以上なく優しかった。
終わっていませんわ。
その言葉は、ただの励ましではない。
この店を覚えている客として、ここが必要だと知っている人間として、紗雪が出した小さな宣言だった。
恒一は、ようやく息を吐いた。
「……そうですね」
「ええ」
「終わってない」
「当然ですわ」
「ありがとうございます」
「べ、別に感謝など」
「でもします」
「も、もう」
紗雪はそこで限界が来たらしく、顔を真っ赤にしてスプーンを手に取った。
それ以上まともな顔でこちらを見ていられなくなったのだろう。
けれど、その赤くなった横顔は、最初の頃よりずっと自然だった。
この店で、自分の言葉が少しだけ通じた人の顔だ。
その後、紗雪は角兎の煮込みも頼み、今日はいつもよりゆっくり食べていった。
外の話し声はいつの間にか消えていたが、店の中には彼女の言葉が残っている。
あなたの店は、まだ終わっていませんわ。
営業を終えたあと、恒一は売上帳をつけながら、その一文を何度も思い返していた。
「そんなに刺さった?」
澪が片付けをしながら言う。
「刺さった」
「素直だね今日は」
「隠す意味ないだろ」
「ないけど」
「でも、ああいうこと言われると思ってなかった」
「紗雪さん、結構まっすぐだよ」
「そうだな」
「言い方は遠回りだけど」
「それも含めてあの人だろ」
「認めたね」
「何を」
「だいぶちゃんと見てる」
「客だからな」
「はいはい」
からかわれているのはわかる。
だが、それを否定する気にもならなかった。
紗雪は、この店をただ懐かしんでいるだけではない。
今の玻璃亭を、今の自分たちの店として見てくれている。
だからこそ、「終わっていませんわ」と言えたのだ。
「で」
澪が言う。
「今夜は?」
「行く」
「森?」
「うん」
「さっきまで落ち込んでた顔が、ちょっと戻った」
「単純だな」
「単純でいいんじゃない」
「……そうかもな」
店はまだ終わっていない。
なら、終わらせないためにやることは一つだ。
料理を作る。
次の食材を探す。
外の動きを警戒する。
そして、一人で全部抱え込まない。
そのくらいしかできない。
だが、そのくらいならできる。
古い冷蔵庫の前に立つ。
冷蔵庫の底板を持ち上げると、いつものように湿った森の空気が上がってきた。
少し怖い。
少し気味が悪い。
でも、今夜は昨日ほど心が曇っていない。
「行くよ」
澪が言う。
「ああ」
「無茶しない」
「はい」
「返事だけはいい」
「努力する」
「それでよし」
二人は石段を下りていく。
銀座の地下の、さらにその下。
誰も知らないはずの仕入れ先。
けれど、もう誰かが手を伸ばし始めている場所。
それでも、火はまだ消えていない。
消えていないどころか、誰かの言葉で少しだけ強くなった気さえする。
朝倉恒一は、石段を下りながら静かに思った。
この店を守りたい理由は、もう赤字を埋めるためだけではない。
祖父の味のため。
自分の料理のため。
澪と並んで立つ厨房のため。
そして、白いスープを飲んで「まだ終わっていませんわ」と言ってくれた、あの不器用なお嬢様のためにも。
だから、まだ終われない。




