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第13話 祖父のレシピ帳にない料理

祖父のレシピ帳には、完成された料理が並んでいるわけではない。


 少なくとも、朝倉恒一が受け継いだものはそうだった。


 頁ごとに書かれているのは、料理名ですらないことも多い。

 《風縫い 胸は火を入れすぎるな》

 《角兎 背より腹》

 《白濁茸 音を立てるな》

 そんなふうに、誰に見せるでもなく自分だけがわかればいいという書き残し方で、祖父の知っていた味の断片が閉じ込められている。


 だから、祖父の料理をなぞることはできても、そのままでは前へ進めない。


 そして、そのことを恒一は、この数日でようやく本当の意味で理解し始めていた。


 営業前の厨房で、恒一は開いたままのレシピ帳をしばらく見つめていた。


 古びた紙。

 少し掠れた字。

 油の染みた角。


 そのどれにも、祖父が鍋の前で過ごした時間が残っている気がする。

 けれど、今日はその中に「今夜出すべき答え」が見つからなかった。


「また止まってる」

 背後から澪の声がした。


 火乃坂澪は、シンクで白濁茸を洗いながら、視線だけこちらへ寄こした。今日の彼女は少しだけ機嫌がいい。昨夜、森で目立った異変は見つけたものの、無茶な接触をせず帰ってきたことが、少なくとも彼女の中では合格点だったのだろう。


「止まってるっていうか」

 恒一はレシピ帳を指で叩く。

「ない」

「何が」

「次の一皿」

「祖父さんのメモに?」

「うん」

「へえ」

「へえ、じゃない」

「いや、ようやくそこ来たんだなって」

「何だよそれ」

「だって今までずっと、“祖父さんの残したものをどう再現するか”だったじゃん」

「……」

「でも、今は“その先に何を出すか”で止まってる」

「そう言われると、ちょっと悔しいな」

「何で」

「図星だから」


 恒一はレシピ帳を閉じた。


 そうなのだ。

 風縫いのローストも、角兎の煮込みも、白いスープも、全部「祖父の知っていた味」を、自分たちなりに手繰り寄せたものだった。そこに自分の判断や今の火加減は入っている。けれど、それでも出発点は祖父だ。


 だが、店はもうそこだけでは足りないところまで来ている。


 客が戻り始めた今だからこそ、次に必要なのは「祖父の料理の続き」であって、「祖父の料理の再演」だけではない。


「何か考えてるの?」

 澪が訊く。

「風縫いと白いスープを繋げられないかって」

「繋げる?」

「ローストでもスープでもない、一皿」

「贅沢だね」

「贅沢じゃないと銀座では残れない」

「まあ、それはそう」


 澪は洗い終えた白濁茸をザルへ上げると、カウンター越しにやってきた。

「どんなイメージ?」

「まだ曖昧」

「言ってみて」

「……風縫いの香りは活かしたい。でも、ローストほど正面からぶつけない」

「うん」

「白いスープの静かさもほしい。でも、完全にあっちへ寄せると祖父の皿になる」

「うん」

「もっとこう……」

「“今の店の味”にしたい?」

「そう」


 澪は少しだけ考えて、それから言った。

「じゃあ、皿じゃなくて鍋の発想に戻れば」

「鍋?」

「ローストとスープ、どっちも“出して終わり”でしょ。でも店で続けて出すなら、“食べ進めるうちに変わる”ほうが今っぽい」

「……」

「最初は静かで、途中で風縫いの香りが開くとか」

「それ、いいな」

「でしょ」


 彼女がさらっと言う時のアイデアは、たいてい悔しいくらい使える。


 恒一はすぐにメモ用紙を引き寄せた。

「最初は白濁茸の静かなポタージュ」

「うん」

「そこに風縫いの脂をほんの少し」

「香りだけ立つ」

「さらに、炙った風縫いの薄切りを後乗せ」

「スープの熱で香りが開く」

「……いい」

「いいね」


 料理の形が見え始めると、厨房の空気まで少し変わる。

 頭の中だけで散っていた食材の印象が、一つの皿として並び始める。料理人にとって一番楽しい時間だ。いや、楽しいだけではない。怖さもある。これが外せば、ただの失敗作だ。だが、それでも組み上がる瞬間の興奮には抗えない。


「名前どうする」

 澪が訊く。

「まだ早い」

「いや、恒一こういう時、先に名前つけたほうが固まるでしょ」

「……わかってるな」

「長い付き合いなので」

「腹立つけどその通り」


 恒一はメモを見ながら呟く。

「風縫いの白い皿……いや違う」

「まんますぎ」

「わかってる」

「もっと店っぽいの」

「店っぽいのって何だよ」

「玻璃亭っぽいの」

「難題だな」


 その時、階段の上から足音がした。


 少し速く、少し緊張していて、でも今日はほんの少しだけ軽い。

 東條院紗雪だと、今では三段目くらいでわかる。


 扉が開く。


「ご、ごきげんよう」


 今日の紗雪は、薄い桃色のブラウスに濃紺のスカートという装いだった。華やかすぎず、それでいてきちんと良い家の空気がにじむ。髪はいつもより少し低い位置で結ばれていて、そのせいか表情がやわらかく見えた。


「いらっしゃいませ」

 恒一が言う。

「ええ。本日も、参って差し上げましたわ」

「ありがとうございます」

「当然ですの」

「そうですか」

「……そうですわ」


 今日も自分で少し照れていた。

 だが、最初の頃に比べれば、この店へ来ることそのものへの緊張はかなり薄れている。


「本日は、何か新しいものでも?」

 席につくなり、紗雪がそう言った。


 恒一と澪は一瞬だけ目を見合わせる。

 まだ試作段階だ。メニューにも出していない。けれど、紗雪の勘は妙に鋭い。あるいは単に、今日の自分たちの空気がいつもと違うだけなのかもしれない。


「まだ形の途中なんですが」

 恒一が言う。

「もしよければ、試していただけるものはあります」

「……まあ」

 紗雪の目が少し大きくなる。

「ならば、その名誉を受けてもよろしくてよ」

「助かります」

「ええ」


 厨房へ戻ると、澪が小声で言った。

「ちょうどいいね」

「うん」

「一人目」

「頼りにしてる」

「知ってる」


 白濁茸を丁寧に火へかける。

 風縫いの脂をほんのわずか。

 塩は最低限。

 炙った風縫いの薄切りを、最後に皿の中央へ置く。


 静かな白。

 その真ん中にだけ、香りの芯。


 祖父のレシピ帳にはない皿だ。

 祖父ならもっと違う形にしたかもしれない。そもそも、こんな中途半端な段階で客に出すこと自体、好まなかったかもしれない。


 けれど今の店には、こういう一歩が必要だ。


「お待たせしました」

 恒一が皿を置く。

「これは……」

 紗雪は少し身を乗り出した。

「スープ、ですの?」

「はい。でも、飲むというより、食べる感じで」

「まあ」


 紗雪はスプーンを取る。

 まず白い部分だけをひと口。

 次に、中央の風縫いと一緒に。

 そこでぴたりと動きが止まった。


「……」

「どうでしょう」

 恒一が恐る恐る聞くと、紗雪はすぐには答えなかった。


 もう一口。

 今度は皿の端から中央へ寄せるように食べる。


「……不思議ですわ」

 ようやく出た言葉は、それだった。

「どんなふうに?」

「最初は白いスープなのに、途中からまるで別のお料理になっていくみたい」

「うん」

「けれど、喧嘩しておりませんの」

「……」

「それぞれが勝手なことをしていない」

「……」

「同じ皿の中で、順番に話している感じがいたしますわ」


 恒一は思わず、ふっと息を吐いた。

 その表現は、自分が曖昧に掴んでいたものにかなり近かった。


「ありがとうございます」

「これは……」

 紗雪は少し迷ってから言う。

「祖父様のお料理ではありませんわね」

「はい」

「ですが、この店の料理ですわ」

「……そう言ってもらえると、嬉しいです」

「ええ。褒めて差し上げておりますの」

「光栄です」


 紗雪はそこで少しだけ頬を染めたが、今日はそれ以上崩れなかった。


 代わりに、スプーンを置いたあと、少し真面目な顔で言う。

「進んでいらっしゃるのですね」

「え?」

「この店が、ですわ」

「……そうだといいんですけど」

「そうですわ」

 紗雪は言い切った。

「ずっと祖父様の味だけを追っていらしたのではなく、今は……あなた方のお店になろうとしているのですもの」

「あなた方?」

「ええ」


 紗雪の視線が、ほんの一瞬だけ厨房のほうへ向いた。

 澪がその視線に気づき、少しだけ目を細める。


「火乃坂さんも含めて、ですわ」

 紗雪は言う。

「……」

「お二人で作っていらっしゃる空気が、最近は皿にも見えますもの」


 その言葉に、恒一は一瞬だけ言葉を失った。


 自分では気づかなかった。

 いや、気づいていないふりをしていたのかもしれない。

 この店の料理は今、明らかに自分一人ではできない形に変わり始めている。森での狩りも、厨房での判断も、澪の感覚が入ることで、玻璃亭の味は少しずつ別の方向へ伸びている。


 それを客の側から見抜かれると、妙に照れくさい。


「変な意味ではありませんのよ」

 紗雪が慌てて付け足す。

「その、仲がよろしいとか、そういう……」

「いや」

 恒一はつい笑ってしまった。

「わかってます」

「そ、そう?」

「でも、ありがたいです」

「そうですの」

「はい」

「ならよろしいですわ」


 紗雪はやや強引に話を閉じたが、耳はきれいに赤かった。


 その後、彼女はいつものように角兎の煮込みも頼み、ゆっくり食べていった。

 営業中に他の客も二組入ったが、今日は妙に店全体の空気がやわらかい。賑わっているのに騒がしくない。新しい皿を出した日特有の、少しだけ高揚した静けさがあった。


 営業が落ち着いたあと、紗雪が会計の席で言った。


「本日のあの白いお料理」

「はい」

「名前はまだございませんの?」

「まだなんです」

「そう」

 紗雪は少しだけ考えるように視線を落とした。

「なら、つけるべきですわ」

「やっぱり」

「ええ。名のない料理は、まだ居場所が定まっていないようで気になりますもの」

「それは確かに」

「ですから、早くお決めなさい」

「命令ですか」

「助言ですわ」

「そういうことにしておきます」

「そうなさい」


 最後まで食べ終え、紗雪は立ち上がる。


「また参りますわ」

「お待ちしてます」

「当然ですの」


 今日の彼女の足音は、最初の頃よりずっと軽かった。

 この店へ来ることが、もうだいぶ彼女の中で自然になっている。


 扉が閉まり、静けさが戻る。


 澪がすぐに厨房から出てきた。

「聞いた?」

「だいたい」

「“この店の料理”だって」

「……うん」

「よかったじゃん」

「よかった」

「あと、“お二人で作ってる空気”だって」

「そこ、わざわざ拾うな」

「大事でしょ」

「面白がってるだけだろ」

「半分は」

「半分かよ」

「もう半分は本気」


 澪はそう言って、試作の皿が置かれていたテーブルを片づけ始めた。


「名前、どうする」

「まだ迷ってる」

「玻璃の白?」

「まんますぎ」

「じゃあ、帰りの白」

「意味がわからない」

「紗雪さんが“帰ってきた感じ”って言ってたから」

「……」

「何」

「いや」

「何」

「それ、ちょっといい」

「でしょ」

「でもまだ少し違う」

「じゃあ考えて」

「考える」


 恒一は再びレシピ帳を開いた。

 そこには当然、今の皿のことは書かれていない。

 祖父のメモにない料理。

 つまり、この店が今ようやく自分たちのほうへ一歩進んだ証だ。


 頁をめくる。

 古い断片の中に、ひどく短い一文があった。


 《帰る味は、一つでなくてよい》


 恒一は思わず手を止めた。


「……何?」

 澪が覗き込む。

「いや、祖父のメモ」

「何て」

「“帰る味は、一つでなくてよい”」

「へえ」

「珍しく詩人みたいなこと書いてる」

「でも今ちょうどいいね」

「……うん」


 そうだ。

 紗雪が帰ってきたと言った白いスープもある。

 老紳士が帰ってきた味だと言った風縫いもある。

 そして今、新しい皿も少しだけその列へ加わろうとしている。


 店が帰る場所になるなら、その味が一つである必要はない。


 恒一はメモ帳へ新しい料理名を書いた。


 帰りの白


 仮の名前だ。

 まだ完成でもない。

 けれど、その不完全さごと、今の店には似合っている気がした。


「いいじゃん」

 澪が言う。

「悪くない」

「お前が言い出したんだけどな」

「最終的に決めたのは恒一」

「そういうことにしとくか」

「そうしといて」


 片づけをしながら、恒一はふと思った。


 この店は、料理だけでできているわけではない。

 祖父の残した味、森の匂い、再開発の影、老紳士の視線、紗雪の記憶、澪との言い合い。その全部が混ざって、今の玻璃亭になっている。


 だから、新しい皿もきっと一人では作れない。


 けれど、それでいいのだろう。

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