第14話 地下の店の、小さな満席
満席といっても、玻璃亭の場合は大した数ではない。
カウンター六席。
二人掛けのテーブルが二つ。
それだけだ。
銀座の店として考えれば、笑ってしまうくらい小さい。
人気店と呼ばれるような場所なら、一晩でその何倍もの客を回すだろう。予約が何週間も埋まり、階段の上どころか、表通りまで人があふれる店だってある。
けれど、朝倉恒一にとって、その「大した数ではない」席のすべてが埋まるというのは、数字以上の意味を持っていた。
営業前の玻璃亭は、いつもより少しだけ張りつめていた。
理由ははっきりしている。
今日は予約が二件入っていた。
それに加え、この数日続いている流れからして、当日ふらりと来る客も見込める。
つまり、久々に「埋まるかもしれない夜」なのだ。
「水差し、満タン」
澪が言う。
「了解」
「パン、追加焼いた」
「助かる」
「白いスープ、三杯分まで増やした」
「足りるかな」
「足りなかったら、その時は売り切れって言う」
「……それが普通なんだよな、本来」
「うん」
火乃坂澪は今日はやたらと手が早かった。
角兎の煮込みはすでに仕上がりに近い。風縫いは一皿だけではなく、二皿まで出せるように肉を整えてある。白いスープ――いや、仮の名だが《帰りの白》も、最後の仕上げまであと一歩というところで保っていた。
祖父のレシピ帳にない、新しい皿。
それを今日、正式に客へ出す。
たった一皿のことなのに、店の芯が少しだけ動く気がしていた。
「黒板、書き直す?」
恒一が言う。
「うん。《帰りの白》って」
「……やっぱり、その名前でいく?」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「ならそれで」
「仮だけどな」
「仮でも、呼ぶ名前がないと客も覚えられない」
「そうだな」
恒一は黒板の前に立ち、チョークを取った。
本日のおすすめ
角兎の赤ワイン煮込み
風縫い胸肉のロースト
帰りの白
書き終えて、少しだけ眺める。
祖父の皿。祖父の先にある皿。異世界の食材。銀座の地下の小さな店。
並んだ文字だけを見れば、ますます何の店かわからない。
だが、今はそれが悪くない気もした。
「似合ってる」
澪が言う。
「そうか?」
「うん。変だけど」
「褒めてる?」
「半分」
「もう半分は?」
「玻璃亭らしい」
「それはたぶん褒めてるな」
「そう」
午後五時半。
店を開ける。
最初に来たのは予約の二人組だった。
四十代くらいの女性二人。服装は上品だが気張りすぎていない。入ってきた瞬間、店内を興味深そうに見回し、それでいて失礼にならない程度に視線を抑えている。こういう客は、誰かの紹介で来ることが多い。
「いらっしゃいませ」
「予約していた瀬戸です」
「お待ちしておりました」
テーブル席へ案内する。
二人は黒板を見て、小さく顔を見合わせた。
「帰りの白、ですって」
「名前が素敵ね」
「何のお料理なのかしら」
その会話が聞こえただけで、胸の奥が少し熱くなる。
料理名は、店にとって最初の入口だ。興味を持ってもらえたなら、それだけで一歩進んでいる。
次に来たのは、以前一度角兎を食べて帰った若い夫婦だった。
そして、その十分後。
カウンターの端に、見慣れた上品な老紳士が現れた。
「こんばんは」
老紳士はいつものように言う。
「こんばんは」
恒一が頭を下げる。
「今日は少し賑やかですな」
「ええ。ありがたいことに」
「よいことです」
老紳士はいつもの奥の席へ座った。
その存在だけで、店の中の空気に少しだけ深さが出る。
さらに、予約の三名が時間ぴったりに入ってきた。
店内の席は、そこでほぼ埋まった。
カウンター六席のうち五席。
テーブル二つはすべて使用中。
あと一席。
恒一はグラスを並べながら、内心で少し落ち着かなくなっていた。
満席なんて、昔なら特別でも何でもなかったかもしれない。
だが今の自分にとっては、ほとんど事件に近い。
「顔」
澪が小さく言う。
「何」
「浮かれてる」
「しょうがないだろ」
「バレる」
「もうバレてるか」
「たぶん」
そう言った直後だった。
階段の上から、聞き慣れた足音がした。
少し速く、少しだけ息を弾ませていて、けれど最近はもうこの地下へ下りてくること自体には迷いのない足音。
東條院紗雪だ。
扉が開く。
「ご、ごきげんよう」
紗雪はいつも通り、きちんと綺麗だった。
今日は白に近い薄いクリーム色のワンピースで、髪には控えめなリボンがひとつだけ。華やかなのに、以前のような「近寄りがたい感じ」よりも、この店に馴染み始めた柔らかさのほうが目につく。
だが、店内を見た瞬間、その表情が固まった。
席が、ほとんど埋まっている。
彼女の視線が、テーブル席、カウンター、老紳士の姿、空いている最後の一席へと流れる。
そして、自分が今ここで立ち止まっていること自体が少し恥ずかしくなったのか、頬がわずかに赤くなる。
「いらっしゃいませ」
恒一が言う。
「……ええ」
紗雪は小さく返す。
「本日は」
「はい」
「その……たいへん、ご盛況ですのね」
「ありがたいことに」
「そう……」
そこで彼女は、空いている最後の一席へ目を向けた。
カウンターの中央寄りの席だ。
いつものテーブルではない。
他の客もいる。
少なくとも、彼女が最も落ち着ける状況ではない。
「カウンターでしたら、一席だけ」
恒一が言う。
「……」
「もしよろしければ」
「……いただきますわ」
ほんのわずかに、声が小さくなった。
恒一は席を引く。
紗雪は静かに座る。
その所作は相変わらず綺麗だ。だが、膝の上で手を重ねた指先にだけ、少し緊張が残っている。
彼女にとって、ここはもう通う店だ。
けれど、いつもの場所ではないことが、少しだけ不安なのだろう。
「本日は、帰りの白を」
紗雪が小さく言う。
「もちろんです」
「それと……角兎も」
「かしこまりました」
厨房へ戻ると、澪がぽつりと言った。
「埋まった」
「埋まったな」
「全部」
「全部だ」
「どうする」
「どうするって」
「顔」
「そんなにやばい?」
「ちょっと泣きそう」
「泣かないわ」
「でも近い」
「……うるさい」
けれど、否定はしきれなかった。
満席。
カウンター六席、テーブル二つ。
たったそれだけの席だ。
だが、その全部に客がいて、皿を待っている。グラスを持ち、黒板を見て、厨房の火を見ている。
店が、ちゃんと店になっている。
その実感は、数字以上に重かった。
「鍋見る」
澪が言う。
「うん」
「泣くのは後」
「だから泣かないって」
「はいはい」
忙しい。
角兎を出す。
風縫いを焼く。
帰りの白を仕上げる。
パンを温める。
ワインのボトルを確認する。
皿を拭き、グラスを足し、タイミングを見て料理を切らさない。
だが、その忙しさは今までの「客が来ないことへの焦りからくる空回り」とは違う。
出すべき皿があり、待っている客がいて、料理を出した瞬間に店の空気が少しずつ変わっていく。その手応えがちゃんとある。
帰りの白を予約の女性客へ出すと、二人は顔を見合わせてから、ひと口ずつすくった。
「まあ……」
「不思議ね」
「最初は静かなのに、途中から香りが変わるわ」
「店の名前みたい」
聞こえた会話に、恒一は思わず背筋を伸ばす。
老紳士は風縫いを食べながら、店内の空気を静かに見ていた。
若い夫婦は角兎の煮込みを食べて、小さく笑い合っている。
予約の三名は、料理ごとに声のトーンが変わっていく。
そして紗雪は、カウンター席で少しだけ緊張しながら、それでも帰りの白をゆっくりと味わっていた。
いつものテーブルではない。
他の客も多い。
それでも、彼女はこの店にいる。
その事実が、妙に胸へ残った。
皿を追加で出した時、紗雪が小さく言った。
「……本日は、なんだか」
「はい」
「少し、誇らしいですわ」
「誇らしい?」
「ええ」
紗雪はカウンターの先にいる客たちへ、ほんのわずかに視線を流す。
「ここが、ちゃんと賑わっているのを見るのは」
「……」
「まるで、自分のことのように嬉しいだなんて、変ですわね」
「変じゃないと思います」
「そう?」
「はい」
「そうでしたら……よろしいですわ」
その声は小さかったが、確かだった。
営業の波が一段落したのは、午後八時を少し過ぎた頃だった。
最後の客が食後の紅茶を終え、会計を済ませ、静かに階段を上がっていく。
老紳士もいつものように一礼して帰る。
紗雪は最後まで残ったが、今日は「少しだけ」と言って紅茶を一杯だけ頼み、店の賑わいの余韻ごと飲み込むようにゆっくりと過ごしていた。
やがて彼女も席を立つ。
「本日は」
紗雪が言う。
「ええ」
「とても、よい夜でしたわ」
「ありがとうございます」
「このような日が、今後も続くとよろしいですわね」
「そうなればいいと思います」
「なりますわ」
「言い切りますね」
「わたくし、今日は機嫌がよろしいのです」
「それは何よりです」
「ええ。ですから、言い切って差し上げますの」
彼女はそう言ってから、ほんの少しだけ声を落とした。
「ただし」
「ただし?」
「浮かれすぎてはなりませんことよ」
「……」
「店というものは、賑わう夜ほど、足元も見なければなりませんのでしょう?」
「……その通りですね」
「ええ。そのくらいは、もうわたくしにもわかりますの」
紗雪は最後に小さく笑った。
「ですけれど」
彼女は扉の前で振り返る。
「本日は、浮かれてもよろしいのではなくて?」
そう言い残して、階段を上がっていった。
その足音が消えたあと、恒一はしばらく扉を見ていた。
店内には、静かな余韻だけが残っている。
満席だった席。
空になったグラス。
皿を下げたあとの木の表面。
ほんの少しだけ温度の残る空気。
「……終わったな」
恒一が言うと、
「終わったね」
と澪が返した。
片づけを始めながら、二人とも少しだけ動きが遅かった。
疲れているのもある。
だが、それ以上に、今夜の手応えをすぐには消化しきれないのだろう。
「満席」
澪がぽつりと言う。
「うん」
「すごいね」
「……うん」
「泣く?」
「だから泣かない」
「でもちょっと近い」
「近いな」
「ほら」
「……でも、ちょっとだけな」
恒一はカウンターの中央へ立った。
ここから見ると、店は本当に小さい。
十席しかない。
厨房も狭い。
階段も細い。
銀座の地上から見れば、たぶん地図の端にも引っかからない程度の小ささだ。
それでも、今夜はその全部が埋まった。
祖父が残した店。
自分が何とかしようともがいてきた店。
異世界の食材を使い、秘密を抱え、再開発の影にさらされながら、それでも今夜はちゃんと「生きている店」だった。
「……じいちゃん」
恒一は小さく呟く。
「見てたら、ちょっとくらい褒めろよ」
当然、返事はない。
だが、その代わりみたいに、営業後の静かな店内で、ふっと老紳士の言葉が思い出された。
店とは、不思議なものですな。残したいと思われた時点で、もう料理だけの場所ではなくなる。
あの言葉の意味が、今夜は前より少しだけわかった気がした。
玻璃亭は、ただ料理を出す場所ではなくなり始めている。
帰りたい味のある場所。
守りたいと思われる場所。
自分にとっても、誰かにとっても、なくなると困る場所。
それはたぶん、料理店にとっていちばん尊い変化だ。
片づけを終えたあと、恒一は売上帳を開いた。
数字は、今までにないくらいまともだった。
もちろん、これ一日で全てが解決するわけではない。
再開発の話も、異世界の罠も、店を探る視線も、何一つ終わっていない。
だが、それでも。
今夜だけは、少しくらい浮かれてもいいのかもしれない。
「で」
澪が言う。
「何」
「次、どうする」
「何が」
「次の皿」
「……そう来るか」
「だって今日で終わりじゃないし」
「そうだな」
店は満席になった。
だが、それは終わりではなく始まりだ。
帰りの白が受け入れられたなら、その次がいる。
祖父のレシピ帳にない料理を、もっと増やしていかなければならない。
この店を“今の玻璃亭”にしていくには、そこから先へ進むしかない。
恒一は売上帳を閉じ、ふっと息を吐いた。
「明日も開ける」
彼は言った。
「うん」
「森にも行く」
「うん」
「店も守る」
「うん」
「忙しいな」
「今さら」
澪はそう言って、小さく笑った。
地下の小さな店に、夜の最後の静けさが降りる。
だがその静けさは、もう以前のそれとは違う。
火が消えかけた店の沈黙ではなく、火を残したまま次の夜を待つ静けさだ。




