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第15話 守られていたのは、場所だけじゃない

満席になった翌日の店は、不思議なくらい静かだった。


 客が来ないという意味ではない。

 むしろ、前より確実に人の流れはある。予約帳にも、数日前までなら考えにくかった名前がぽつぽつと書き込まれ始めている。


 それでも静かに感じるのは、たぶん店の中の時間の流れ方が少し変わったからだ。


 焦りだけで動いていた頃は、客がいない時間そのものが騒がしかった。

 誰もいないカウンターを見て焦り、空のテーブルを見て焦り、帳面の数字を見てさらに焦る。店が静かなのではなく、自分の中がうるさかったのだ。


 だが今は違う。

 昨日の小さな満席が、一度だけでも「この店は埋まる」と証明してしまった。だからこそ、次の静けさには別の重さがある。


 残せるかもしれない。


 そう思った瞬間から、守るべきものの輪郭は、以前よりはっきりしてしまう。


「今日は顔が少しマシ」

 澪が言った。


 火乃坂澪は、営業前の厨房で風縫いの骨を砕きながら、視線だけをこちらへ寄こしていた。

 黒シャツの袖を捲り、腕にはうっすら筋が浮いている。店員であり、狩りの相棒であり、最近では厨房の空気の半分くらいを勝手に背負っている人間だ。


「少し、って何だよ」

 恒一が返す。

「昨日までより」

「そんなにひどかったか」

「かなり」

「お前と紗雪さん、そこだけは妙に一致するよな」

「だってわかりやすいし」

「最悪だな」

「見てる側としては便利」


 澪はそう言って、砕いた骨を鍋へ落とした。

 深い旨味のある音がした。骨から出る香りは、森の匂いが皿へ変わっていく最初の瞬間に近い。


 恒一は、昨日つけた売上帳をもう一度見た。


 数字はたしかに良かった。

 良かったが、劇的というほどではない。

 満席になっても、この小さな店の売上が銀座の相場を塗り替えるわけではない。たった十席だ。奇跡みたいに全部埋まっても、それで全ての赤字が吹き飛ぶほど甘くはない。


 けれど、意味はある。


 この店が「ただ残念に消えていく古い地下店」ではないと、数字が初めて裏付けた夜だった。


「今日、老紳士来ると思う?」

 恒一が何気なく言うと、澪は少しだけ手を止めた。

「来るかも」

「曖昧だな」

「でも、来たほうがいい感じはする」

「何だその勘」

「あるでしょ、そういう日」

「……あるけど」


 不思議なもので、あの上品な老紳士が来る夜は、店の空気が少し深くなる。

 売上が跳ねるわけでも、客が急に増えるわけでもない。

 ただ、玻璃亭という場所そのものの輪郭が、一段だけくっきりするのだ。


 祖父の代を知り、紗雪を連れてくる人。

 おそらく再開発の線の外側に、この店を置き続けている人。


 その正体を、恒一はまだ知らない。

 だが、このまま知らないふりだけで進むのも違う気がしていた。


 営業を始めて一時間ほど経った頃、その気配は本当にやってきた。


 階段の上から響く、ゆっくりで無駄のない足音。

 急がない。迷わない。こちらの空気を勝手に乱さない。


 扉が開く。


「こんばんは」

 老紳士はいつものように言った。


 濃紺のスーツ。整えられた白髪。静かな目元。

 今日も品の良さだけが先に店へ入ってくるようだった。


「こんばんは」

 恒一は頭を下げる。

「お席は」

「いつもので結構です」

「かしこまりました」


 カウンターの一番奥へ案内する。

 老紳士は席につく前に、店内をひと巡りするように見た。客の入り、黒板、棚、照明、そして厨房の火。


「昨日は賑わっていたようですね」

 その一言に、恒一は少しだけ目を上げた。

「……ご存じなんですね」

「噂は早いものです」

 老紳士は穏やかに言う。

「もっとも、この店の場合、噂というより“戻ってきた者が一人増えれば、もう一人呼ぶ”に近いのでしょうが」

「戻ってきた者」

「ええ」


 老紳士はそれだけ言って、メニューも見ずに「今日は角兎を」と頼んだ。

 まるで、その皿が店の今の流れに必要だと知っているみたいに。


 厨房へ戻ると、澪が小声で訊く。

「来たね」

「来たな」

「何か言われた?」

「昨日のこと知ってた」

「やっぱり」

「やっぱりって何だ」

「何でも知ってそうだし」


 恒一は苦笑しつつ、鍋の火を調整した。


 角兎の煮込みは、少し寝かせた今日のほうが味がまとまっている。

 赤ワインと星喰いの実の香りが、一晩で角を落としていた。温めると、深いのにきつくない香りが立つ。こういう料理は、店そのものに似ている。最初の一口で驚かせるのではなく、二口目、三口目で居場所を作る。


 皿を出す。


「お待たせしました」

「ありがとう」


 老紳士は静かにスプーンを取った。


 一口。

 二口。

 そのあいだ、表情は大きく変わらない。だが、彼の場合はその変化の小ささがむしろ答えだった。気に入らなければ、もっとわかりやすく皿との距離が遠くなる。今日は違う。最初の一口から、料理へ自然に入っていく。


「よくなりましたね」

 老紳士が言った。

「前回よりも」

「ありがとうございます」

「少し、腹側の旨味を使う位置を変えたでしょう」

「……わかりますか」

「食べれば」


 その返し方まで、紗雪と似ている気がした。

 やはり、この人とあの孫娘は、血筋というより“食べ方の気配”が近い。


「昨日、紗雪も喜んでいたでしょう」

 ふいに老紳士が言う。

「ええ」

「あなたの新しい皿を」

「……」

「白いスープの記憶はあの子にとって少し特別ですから」

「聞きました。子どもの頃、この店でだけ飲めたって」

「そうです」


 老紳士はワインを一口含み、それから少しだけ目を細めた。

「食べられない子どもというのは、周囲が思っている以上に色々なものを見ています」

「……」

「心配される顔。焦らせる言葉。善意で押しつけられる正しさ。そういうものを、あの子はよく覚えていたのでしょう」

「……祖父は、何もしなかったんですね」

「何もしなかった、ではないでしょうな」

 老紳士は静かに答える。

「待っていたのです」

「待つ」

「ええ。皿を出して、あとは相手が自分から手を伸ばすのを」


 それは祖父らしいと思った。

 不器用で、寡黙で、余計なことを言わない人だった。だが、料理に関してだけは人を急かさない。食べることも、味わうことも、その人のタイミングに任せる。


「店というのは、そういう“急かさない場所”であるべき時があります」

 老紳士が続ける。

「食べることだけではなく、人が自分を戻すためにも」

「……」

「この店は、昔からそういう役割を持っていた」


 その言葉に、恒一の胸が少しだけ強く打った。


 役割。

 老紳士は今、料理店としての機能以上の何かを、この店に見ている。


「一つ、伺ってもいいですか」

 恒一は思い切って言った。

「どうぞ」

「この店が……」

 言葉を選ぶ。

「再開発の線から外れているのは、あなたのご意向ですか」


 店の奥の空気が、ほんのわずかに張った。


 厨房で皿を拭いていた澪も、手を止める。

 露骨に聞き耳を立てることはしないが、今の会話を逃す気はないという顔だ。


 老紳士はすぐには答えなかった。

 角兎を一口食べ、スプーンを置いてから、静かに恒一を見上げる。


「半分は」

 彼は言った。

「そうかもしれません」

「半分」

「もう半分は、あなたの祖父君の仕事です」

「祖父の?」

「ええ」


 恒一は息を止めた。


「あなたの祖父君は、料理を作るだけの人ではありませんでした」

 老紳士は言う。

「少なくとも、私にとっては」

「……」

「この店の火を、ただ商売としてだけ守っていたわけではない。だから、私もまた、ただの思い出としてこの場所を残したいわけではないのです」


 その言葉はやわらかい。

 だが、内容は重い。


「祖父は……何をしたんですか」

 恒一が絞り出すように問うと、老紳士は少しだけ目を伏せた。


「飢えた者に皿を出した、というような意味ではありません」

「……」

「もっと、小さい。けれど、失われては困るものを、何度か繋いだのです」

「繋いだ」

「人を、記憶を、場を」


 抽象的だ。

 だが、不思議と誤魔化している感じはしなかった。

 むしろ、今はそれ以上明言しないこと自体に意味があるようにも思える。


「ですから」

 老紳士は淡々と続ける。

「この店を、ただの開発区画の一部として処理する気にはなれませんでした」

「……」

「それが政治的な圧力と呼ばれるなら、そうなのかもしれません。ですが、私としてはただ“消してはならない火を、勝手に消させない”ようにしているだけです」


 その言い方は、あまりに静かだった。


 力を誇る人間の声ではない。

 むしろ、力を使うことの後ろめたさまで引き受けた人間の声だった。


 恒一は、初めてはっきり理解した。


 この店は、たしかに守られている。

 けれど、それは自分が無能だからでも、可哀想だからでもない。

 祖父が残した何かと、今ここにある火に価値を見ている人間がいるからだ。


 そのことに、ありがたさと同時に、妙な悔しさもあった。


 守られるだけでは終われない。

 料理人としては、そう思ってしまう。


「顔に出ますな」

 老紳士がふと笑った。

「何がですか」

「守られていることへの、ありがたさと、居心地の悪さ」

「……」

「その両方を感じられるなら、今のあなたはまだ大丈夫でしょう」

「大丈夫?」

「ただ甘えることも、ただ突っぱねることも、どちらも危うい」

 老紳士は言う。

「支えられているものは、支えられながら自分の足で立たねばならない」

「……難しいですね」

「ええ。ですが、あなたの祖父君も、そういう人でした」


 その一言に、少しだけ救われた。


 祖父もそうだった。

 なら、今の自分の居心地の悪さも、料理人として間違ってはいないのだろう。


 老紳士は食事を終えると、最後にこう言った。


「守られていたのは、場所だけではありません」

「……」

「この店に残る“戻ってきたい気持ち”のほうです」

「……」

「場所は、その器にすぎない」


 そう言って老紳士は席を立った。


 会計を済ませ、帰り際に一礼する。

 その姿が階段の奥へ消えるまで、恒一はしばらく動けなかった。


「……重いね」

 ようやく澪が口を開いた。

「重いな」

「でも、ちょっとわかった」

「何が」

「店が守られてる理由」

「うん」

「私らが思ってたより、ちゃんとしてた」

「ちゃんとしてたって何だよ」

「可哀想だから残してる、とかじゃないってこと」

「……そうだな」


 そこが何より大きかった。


 もし情けや道楽で守られているだけなら、料理人としては反発しかなかっただろう。

 だが、祖父が繋いだものの続きとして、今の火にも価値があると見られているのなら、それは受け取らねばならない。


「でも」

 澪が言う。

「それでも、いつまでも守られる側ではいられない」

「うん」

「店として立ち直らないと」

「うん」

「結局やることは変わらないね」

「そうだな」


 料理を作る。

 客を迎える。

 新しい皿を出す。

 店を守る理由を、店自身が増やしていく。


 それ以外に道はない。


 その夜は不思議と、客足も穏やかに続いた。

 派手ではない。

 だが、角兎の煮込みも、帰りの白も、それぞれにきちんと受け取られていく。店内には昨日の満席ほどの熱気はない代わりに、ゆっくりと底へ沈むような手応えがあった。


 営業終わりに、恒一は売上帳をつけながら小さく息を吐いた。


 昨日ほどではない。

 けれど、悪くない。

 むしろ、こんな夜が続くなら、この店は少しずつ戻っていけるかもしれない。


「……何か」

 恒一が呟く。

「うん?」

 澪が皿を拭きながら顔を上げる。

「店を守る理由が、増えた気がする」

「今さら?」

「今さらだよ」

「昨日の満席の時点でもう十分増えてたでしょ」

「数字じゃなくて」

「気持ち?」

「うん」

「へえ」


 澪はそこで少しだけ真面目な顔になった。


「まあ」

 彼女は言う。

「それならいいんじゃない」

「いいのか?」

「だって、そのほうが無茶しなくなるでしょ」

「そこへ戻るのか」

「大事だから」

「……」

「一個しかない理由だと、人って変な無茶するから」

「何だそれ」

「“これのためだけに”って思うと、他を捨てやすい」

「……」

「でも“これもあれも”って増えてくと、逆に雑に扱えなくなる」

「……お前」

「何」

「たまに妙に核心つくな」

「たまにじゃなくて結構いつも」

「それは言いすぎ」


 けれど、たしかにその通りだった。


 祖父の店だから、だけでは、自分はきっと無茶をした。

 赤字を埋めるため、だけでも危うかった。

 けれど今は違う。


 この店には、祖父の味がある。

 澪と一緒に立つ厨房がある。

 紗雪が帰ってきたいと思う白いスープがある。

 老紳士が消してはならない火だと言う理由がある。


 守られていたのは、場所だけじゃない。

 その言葉の意味が、少しずつ自分の中に降りてくる。


 夜の最後に、恒一はもう一度だけ黒板を見た。


 角兎の赤ワイン煮込み

 風縫い胸肉のロースト

 帰りの白


 祖父の皿と、自分たちの皿。

 その並びが前より少しだけ自然に見える。


 そして、今ならわかる。


 この店を残したいと願う人間がいるのは、単に「古いから」でも「思い出があるから」でもない。

 ここでしか繋がらない何かがあるからだ。

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