第72話 その噂は、店の外から来た
噂というものは、誰かの口から出た瞬間には、もう少しだけ形を変えている。
朝倉恒一は、翌朝の厨房で黒板を拭きながら、昨夜の客の言葉を何度も思い返していた。
――珍しい白い食材を出すって聞いたんですけど。
その言葉に、悪意はなかった。
あの女性客は、ただ聞いたことを確かめただけだ。
むしろ、帰りの白を飲んだあとには「珍しいというより懐かしい」と言ってくれた。
だからこそ、厄介だった。
悪意のある者が正面から言うなら、否定すればいい。
けれど、悪意のない客の口を通って店へ戻ってきた噂は、もう店の外で少し育っている。
それも、こちらが望まない形で。
白濁茸ではなく。
帰りの白でもなく。
“珍しい白い食材”。
その曖昧な言い方が、どうにも嫌だった。
恒一は黒板に、いつものように書いた。
本日のおすすめ
帰りの白
帰りのあと 少量のみ
角兎の赤ワイン煮込み
チョークの先が、「帰りのあと」のところで少しだけ止まる。
名前を持ったばかりの皿だ。
ようやく客の中へ座り始めた皿だ。
それを、得体の知れない白い噂のそばへ置かれたくない。
「字、強い」
澪が言った。
火乃坂澪は、パンを籠へ移しながら黒板を見ている。
「字?」
「うん。今日はちょっと怒ってる字」
「黒板の字に出るか?」
「出る」
「そんなに?」
「かなり」
恒一は、黒板を少し離れて見直した。
言われてみれば、「帰りの白」の文字がいつもよりわずかに太い。
丁寧ではあるが、どこか力が入っている。
「……駄目だな」
「駄目じゃない」
「いや、客に怒ってるみたいに見えるのはよくない」
「それはそう」
澪は少しだけ肩をすくめる。
「でも、怒るところは合ってる」
「噂?」
「うん」
澪は表情を変えずに続けた。
「皿にしないって決めた白を、店の外で勝手に皿っぽくされてる」
「……」
「それ、かなり嫌」
「だよな」
「だから、怒るのはいい。でも字は直して」
「わかった」
恒一は一度、黒板の文字を消した。
それから、いつもの呼吸に戻すように書き直す。
帰りの白。
帰りのあと。
角兎の赤ワイン煮込み。
今度は少し落ち着いた。
そこへ、階段の上から足音がした。
いつもの、少しだけ速い足音。
東條院紗雪だ。
扉が開く。
「ご、ごきげんよう」
今日は淡い灰青のワンピースに、白い薄手の羽織りを合わせていた。
普段より少し落ち着いた装いだったが、目元ははっきり引き締まっている。
「いらっしゃいませ」
「ええ」
紗雪は小さく頷き、まず黒板を見た。
そして、すぐに恒一の顔を見る。
「書き直しましたのね」
「……そこまでわかりますか」
「最近は、そのくらいなら」
いつもの言い方だった。
けれど今日は、そこに少しだけ硬さがあった。
紗雪はカウンター席へ向かわず、黒板の前で足を止めた。
「昨夜の噂について、少し調べましたわ」
恒一と澪の視線が、同時に彼女へ向いた。
「早いな」
澪が言う。
「急ぐべきだと思いましたの」
紗雪はさらりと答えたが、その声はいつもより低い。
「出どころ、わかったんですか」
「完全には。ただ、流れている場所は少し」
「どこです?」
「銀座の会員制サロンですわ。飲食関係者というより、再開発や不動産の方が混ざる場です」
恒一は、黒板を持つ手に少し力が入るのを感じた。
「食通の噂じゃないんですね」
「ええ」
紗雪は頷いた。
「少なくとも、料理好きの方々が自然に話している噂ではありません。店へ来たことのない方が、“あそこには珍しい白い食材があるらしい”と話している」
「来たことがないのに」
「ええ」
澪が、小さく舌打ちした。
「嫌なやつ」
「本当に」
紗雪は、珍しくすぐに同意した。
それだけで、彼女もかなり不快に思っていることがわかった。
「しかも、その噂を口にした方の一人が」
そこで紗雪は一度、言葉を切った。
「東條院の遠縁に近い方でした」
店内の空気が、はっきり変わった。
「東條院の?」
恒一が訊くと、紗雪は小さく頷く。
「直系ではありません。祖父の家から見れば、かなり離れた筋ですわ。ただ、外では“東條院と縁がある”という言い方をするには十分な距離です」
「その人が、噂を?」
「まだ断言はできません」
紗雪は慎重に言った。
「ですが、その方の周囲で、玻璃亭と“白い食材”の話が出ているのは確かです」
「……家の名を使う者」
恒一が呟く。
老紳士の言葉が、戻ってくる。
――そろそろ、家の名を使う者が出る。
紗雪の表情が、少しだけ強くなった。
「ええ。おそらく祖父は、この流れを見ていたのだと思いますわ」
「何のために、そんな噂を流すんだ」
澪が言う。
「店を利用するため、でしょうね」
紗雪は即答した。
「白いものを玻璃亭の“料理”に見せる。あるいは、玻璃亭を白いものの流通場所に見せる。それだけで、店の意味はかなり汚されます」
「皿にしてないのに」
「ええ。皿にしていないからこそ、噂で結びつける」
その言葉が、嫌なほど腑に落ちた。
恒一は、黒板の「帰りの白」を見た。
これは、この店の皿だ。
祖父の記憶から始まり、今の玻璃亭で作り直したものだ。
それを、得体の知れない白と一緒にされる。
腹の底に、静かな怒りが沈んだ。
「……恒一」
澪が名前を呼んだ。
「顔」
「出てるか」
「かなり」
「すみません」
「謝らなくていい」
澪は短く言った。
「でも、今すぐ森に行く顔はやめて」
「……行かない」
「本当に?」
「行かない。これは、森の話じゃない」
恒一は、黒板を壁に立てかけた。
「店の名前の話だ」
紗雪が、ほんの少しだけ目を細めた。
「よろしいですわ」
「よろしいんですか」
「ええ」
彼女は顎を少し上げる。
「怒るなら、店主として怒るべきです。昨夜そう申し上げましたもの」
「言われました」
「本日は、できております」
「採点されてます?」
「客ですもの」
そこで澪が小さく言った。
「便利な」
「火乃坂さん」
「今日は使うところ」
「……それは認めますわ」
少しだけ空気が緩んだ。
だが、問題は何一つ軽くなっていない。
営業が始まると、その違和感はさらに形を持った。
最初の客は、常連の会社員だった。
黒板を見て、いつものように「帰りのあと、今日もある?」と訊いてくれた。
恒一はそれに救われるような気持ちで皿を出した。
次に来た夫婦客も、帰りの白を頼んだあと、自然に帰りのあとへ進んだ。
店の中では、正しい名前が通っている。
それが、せめてもの支えだった。
だが、三組目の客が入ってきた時、また噂は顔を出した。
四十代くらいの男性二人。
服装は上品だったが、料理を楽しみに来たというより、店を確かめに来た目だった。
水を出した時、一人が言った。
「こちら、珍しい白い食材を扱っていると聞きまして」
恒一は、顔を変えなかった。
「当店の白い料理でしたら、帰りの白がございます」
「帰りの白?」
「はい。白濁茸を使った一皿です」
「白濁茸」
男は、少しだけつまらなそうに繰り返した。
その反応だけで、恒一にはわかった。
この人は、料理名を聞きに来たのではない。
噂の“白”が何かを確かめに来たのだ。
「もっと特別な白があると聞いたのですが」
もう一人が、やわらかく笑いながら言う。
「特別な白、ですか」
「ええ。こちらは、普通の店ではないと」
澪が厨房の奥で、わずかに動きを止めた。
カウンター席の紗雪も、静かにカップを置いた。
恒一は、丁寧に答えた。
「普通の料理店です」
男たちは、一瞬だけ黙った。
恒一は続ける。
「少し珍しい食材を扱うことはありますが、お出しするのは、料理として責任を持てるものだけです」
「責任」
「はい」
恒一は、黒板を指した。
「帰りの白。帰りのあと。角兎の赤ワイン煮込み。本日お出しできるものは、こちらです」
男の一人が、薄く笑った。
「なるほど。では、その帰りの白を」
「かしこまりました」
その場は、それで収まった。
だが、空気は悪かった。
料理を出しても、男たちは味より店内を見ている。
冷蔵庫の奥。
階段。
カウンターの客。
紗雪の顔にも、一度だけ視線が触れた。
その瞬間、紗雪が微笑んだ。
ただし、それはいつもの照れた笑みではなかった。
上品で、距離があり、相手を値踏みするような笑み。
「何か?」
紗雪が静かに言った。
男が少しだけ姿勢を正す。
「いえ。どこかでお見かけしたような気がしまして」
「そうですの」
紗雪は、ゆっくりカップを持ち上げた。
「どちらで?」
「……失礼。勘違いでした」
「でしたら、よろしいですわ」
短いやり取りだった。
けれど、空気は変わった。
男たちは、それ以上店の奥を露骨に見ることはなくなった。
恒一は、皿を出しながら思った。
今日の紗雪は、少し怖い。
だが、それがとても頼もしかった。
男性客二人は、長居せずに帰った。
帰りの白を飲みはしたが、皿の感想はほとんどなかった。
扉が閉まる。
階段を上がる足音が消えるまで、三人とも口を開かなかった。
「……あれ」
澪が先に言う。
「客じゃないね」
「うん」
恒一も頷く。
「少なくとも、料理を食べに来た感じじゃなかった」
紗雪はカップを置いた。
「おそらく、噂を確かめに来た方ですわ」
「知ってる人ですか」
「直接は。ただ」
紗雪は少し考えた。
「片方の方は、先ほど話した遠縁の周囲で見た顔に似ておりました」
「……繋がったな」
澪が低く言う。
「まだ断定はできません」
紗雪は言ったが、その声には怒りがあった。
「ですが、かなり近い」
恒一は、帰りの白の器を片づけた。
あの男たちは、この皿を見ていなかった。
味わっていなかった。
ただ“白いもの”を探していた。
それが、どうしようもなく腹立たしい。
「……帰りの白を、ああいう目で見られるのは嫌ですね」
「ええ」
紗雪は即答した。
「とても不快ですわ」
澪も短く頷いた。
「かなり」
恒一は、黒板を見た。
帰りの白。
帰りのあと。
正しい名前がある。
正しい皿がある。
なのに店の外では、勝手な白い噂がその周りにまとわりつこうとしている。
「噂を消すのは、たぶん無理だ」
恒一が言うと、二人がこちらを見た。
「だから、正しい名前をもっと強くする」
「店を広げる?」
澪が訊く。
「派手にじゃない。常連と、ちゃんと食べてくれる新規に。帰りの白と帰りのあとを、ちゃんと届かせる」
「……」
「白い噂じゃなくて、この店の皿として覚えてもらう」
紗雪が、静かに頷いた。
「よろしいと思いますわ」
「そうですか」
「ええ。噂に噂で返すのではなく、皿で返す」
彼女は黒板を見た。
「この店らしい戦い方です」
戦い方。
その言葉は少し大げさに聞こえる。
けれど、今の玻璃亭には確かにそれが必要だった。
料理店として戦う。
店の名前を守る。
皿の意味を、外の噂に奪わせない。
恒一は、黒板の文字をもう一度、指でなぞった。
帰りの白。
帰りのあと。
この二つを、もっと強くする。
それが、次の一手だった。




