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『銀座の地下にある小さな店は、異世界で狩った食材でできている。祖父の遺したレストランを再建していたら、無口な狩り相棒と悪役令嬢みたいな常連お嬢様が今日も帰ってくれない』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第71話 次は、向こうの事情を知るために

 老紳士が帰ったあとも、店の奥にはしばらく、言葉にならないものが残っていた。


 帰りの白の鍋には、まだ弱い火が入っている。

 閉店後に一つだけ残すと決めた火だ。湯気はほとんど立っていない。ただ、そこに熱がある。完全には夜を終わらせないための、小さな灯りのような火。


 カウンターには、使い終えたグラスが三つ。

 老紳士が食べ終えた「帰りのあと」の皿は、まだ流しへ運ばれていなかった。


 恒一は、その皿をしばらく見ていた。


 老紳士は言った。


 ――店が強くなれば、店を利用しようとする者も強くなる。


 その言葉は、褒め言葉のあとに置かれたからこそ、余計に重かった。


 玻璃亭は、前へ進んだ。

 帰りの白だけでなく、帰りのあとも生まれた。

 階段には塩皿を置き、店の火を残し、店側の線も引き直した。


 だが、それで終わりではない。


 店が店として強くなればなるほど、そこに別の意味を見出す者も出てくる。


 この店を、通路として使いたい者。

 白いものと結びつけたい者。

 再開発の駒にしたい者。

 東條院の名を利用したい者。


 見えない手が、いくつも店の外にある。


「……顔」


 澪が、ぽつりと言った。


 恒一は皿から視線を上げる。


「またか」


「今のは言う」


「そんなに出てる?」


「出てる。皿を見ながら戦の作戦でも考えてる顔」


「戦って」


「似たようなものでしょ」


 澪は布巾で手を拭きながら、カウンターの端に寄りかかった。


 普段なら、こういう時は「森へ行くか」「明日確認するか」という話になりがちだった。

 だが今日は違う。


 森へ急げば、たぶん後手に回る。

 白いものを追うだけでは、向こうの意図までは見えない。


 恒一は皿を持ち上げ、流しへ運んだ。


「……次は、向こうの事情を知らないと駄目だな」


 澪が少しだけ目を細めた。


「森へ入るって意味?」


「いや」


 恒一は首を横に振った。


「それは違う気がする。今、無理に奥へ行ったら、こっちが向こうの土俵に乗る」


「うん」


「だから、店で拾う」


「店で?」


「客の会話とか、再開発の動きとか、変な噂とか。料理店だから見える情報があるはずだ」


 澪は一度だけ頷いた。


「悪くない」


「軽いな」


「かなり良いと思ってる時の、悪くない」


「わかりにくい」


「でも、伝わったでしょ」


「まあな」


 ふっと、二人の間に短い笑いが落ちた。


 その時、カウンター席に残っていた紗雪が、静かにカップを置いた。


「わたくしは、外を見ますわ」


 声は落ち着いていた。

 けれど、さっき老紳士に「家の名を使う者が出る」と言われたあとから、彼女の目は少しだけ鋭い。


「東條院の名を使う者がいるなら、家の外側に必ず跡が出ます」


「跡?」


 恒一が訊くと、紗雪は小さく頷いた。


「誰が誰に会ったか。どの会合に、普段なら同席しない者がいたか。再開発の話に、妙に顔を出す親戚筋がいないか」


「そんなところまで見るのか」


「見ますわ」


 紗雪はさらりと言った。


「わたくし、これでも東條院の家で育っておりますのよ。嫌でも、そういう空気の読み方は覚えます」


「嫌でも、って」


「本当に嫌でも、ですわ」


 少しだけ眉を寄せる。

 その顔が、妙に年相応で、恒一は思わず笑いそうになった。もちろん笑わなかった。笑ったらたぶん睨まれる。


 澪が言う。


「じゃあ、役割分ける?」


「そうだな」


 恒一は流しで皿を洗いながら、頭の中を整理した。


「森側は澪」


「うん」


「無理に奥へは入らない。第二入口の手前まで。痕跡を見るだけ」


「了解」


「店側は俺。客の会話、噂、注文の変化を見る。変に白いものへ近づく話が出たら拾う」


「ええ」


 紗雪が静かに頷く。


「外側は、わたくしが見ます。家の名、再開発、店へ来る道。それと、店の噂がどこから流れているか」


 そこまで言って、彼女は少しだけ口元を引き結んだ。


「ただし、わたくし一人で踏み込みすぎるつもりはありませんわ」


「本当に?」


 恒一が即座に返すと、紗雪がむっとした顔をする。


「本当です」


「ならいい」


「その信用のされ方は納得できませんわね」


「信用してるから確認してるんです」


「それは火乃坂さんの言い方ですわ」


 澪が、面倒そうに目を逸らした。


「私、そんなこと言ったっけ」


「言っております」


「覚えてない」


「便利ですわね、そういうところ」


「便利でしょ」


「真似しないでくださいまし」


 妙なところで会話がほどける。


 けれど、笑える余地があるからこそ、今の三人はまだ折れていないのだと恒一は思った。


 翌日の営業は、少し静かな始まりだった。


 階段の塩皿は、今日も隅に置いてある。

 昨日、壁に出ていた白い乾きは薄くなったが、完全に消えたとは言い切れない。

 だから今日は、階段の拭き方も店の作法に組み込んだ。


 開店前に塩を置く。

 店内の火を入れる。

 帰りの白の鍋を温める。

 黒板を出す。


 表の黒板には、まだ控えめに書いた。


 帰りの白

 帰りのあと 少量のみ


 その文字を見るたび、恒一の胸の奥が少しだけ温かくなる。

 同時に、気が引き締まる。


 名前を置くとは、その皿を守るということでもある。


 最初に来たのは、常連の会社員だった。


「お、書いてある」


 階段を下りてすぐ、黒板を見て笑った。


「ついに名前ついたんだ」


「はい」


「帰りのあと、か」


 男は口の中で何度か転がすように言った。


「いいね。覚えやすい」


「ありがとうございます」


「今日はそれ、ある?」


「あります」


「じゃあ、帰りの白から」


「かしこまりました」


 自然だった。


 その自然さが、恒一には何よりありがたかった。


 少しあとに、初めて来たらしい二人組の客が入ってきた。

 片方は銀座に慣れた様子の女性。もう片方は少し緊張している若い男性だった。

 紹介で来たのだろうか。店内を見回す目に、好奇心がある。


「地下にこんなお店あったんだ」


 女性が小さく言った。


 恒一は水を置きながら微笑む。


「見つけにくい場所ですから」


「隠れ家っぽいですね」


「そう言っていただくことはあります」


「おすすめは?」


「帰りの白と、角兎の煮込みです。もしよろしければ、帰りの白から」


「じゃあ、それを」


 ここまでは、普通の新規客だった。


 けれど、帰りの白を飲んだあと、女性が何気なく言った。


「そういえば、ここって最近、珍しい白い食材を出すって聞いたんですけど」


 恒一の手が、ほんの一瞬だけ止まった。


 澪が厨房の奥で、こちらを見た気配がする。

 カウンターに座っていた紗雪も、カップを持つ指を止めた。


 だが恒一は、表情を変えなかった。


「白い食材、ですか」


「ええ。なんか、すごく珍しいものだって。知り合いが言ってて」


「白濁茸のことでしょうか。帰りの白にも使っています」


「あ、そうなんですか」


 女性は特に疑っている様子ではない。

 ただ、聞いた噂をそのまま口にしただけのようだった。


「でも、その人が言ってたのは、なんか……もっと特別な白、みたいな」


「特別な白」


「変な言い方ですよね」


 女性は笑った。

 悪意はない。

 だからこそ、余計に気味が悪かった。


 噂が、店の外で勝手に育っている。


 玻璃亭が出しているのは、帰りの白だ。

 白濁茸を使った料理であり、祖父の記憶と今の店が作り直した皿だ。


 だが、外では“珍しい白い食材”という曖昧な言葉になっている。


 それは、第二入口の小屋で見た白いものと、店を結びつけるための言葉にも聞こえた。


「当店でお出ししている白い料理は、帰りの白です」


 恒一は、丁寧に言った。


「白濁茸という食材を使っていますが、きちんと扱えるものだけをお出ししています」


 女性客は少しだけ目を瞬いた。


 言い方が、少し固かったかもしれない。


 けれど、ここは曖昧に流したくなかった。


「そうなんですね」


「はい」


「変な聞き方してすみません」


「いえ。気になることがあれば、聞いてください」


 女性はほっとしたように笑い、帰りの白をもう一口飲んだ。


「でも、これ、すごく落ち着きますね」


「ありがとうございます」


「珍しいっていうより、懐かしい感じ」


 その言葉で、恒一の肩から少し力が抜けた。


 そうだ。

 この皿は、珍しさで勝負するものではない。

 落ち着くとか、懐かしいとか、帰ってきたようだとか。そういう言葉で届くべき皿だ。


 白い噂に、奪わせてはいけない。


 営業を続けながら、恒一はその新規客の言葉を何度も思い返した。


 珍しい白い食材。

 もっと特別な白。

 知り合いが言っていた。


 誰が、どこで、何のために。


 閉店後。


 最後の客を見送り、黒板を中へ入れると、三人は自然とカウンター周りに集まった。


「……出たね」


 澪が言う。


「出た」


 恒一は黒板を壁に立てかける。


「珍しい白い食材」


「白濁茸のことじゃない言い方だった」


「うん」


 紗雪が静かに口を開いた。


「その噂、かなり嫌な形ですわ」


「意図的に聞こえる?」


「ええ」


 紗雪ははっきり頷いた。


「帰りの白の名前ではなく、白濁茸でもなく、“珍しい白い食材”。ぼかし方が不自然です」


「白いものと店を結びつけるため?」


「そう見えます」


 澪が短く息を吐いた。


「皿にしないって決めたのに」


「皿にしないからこそ、噂にして寄せてきたのかもな」


 恒一が言うと、店内に少しだけ沈黙が落ちた。


 白いものを皿にしない。

 それは、店主として引いた線だ。


 だが、外の誰かはその線を無視して、白いものを店の噂に混ぜようとしている。


「……腹立つな」


 恒一が言うと、澪が珍しくすぐ頷いた。


「うん。かなり」


 紗雪も、静かに視線を落とした。


「これは、噂の出どころを探る必要がありますわ」


「外側担当の仕事?」


「ええ」


 彼女は顔を上げた。


「ただの食通の噂ならよいのです。ですが、もし東條院の名を使う者が絡んでいるなら」


「……」


「放ってはおけません」


 その声は、いつもの照れ隠しを含んだものではなかった。


 東條院紗雪としての声。

 家の外側で起きることを読む、上品で少し強い顔。


「紗雪さん」


「何ですの」


「無理はしないでください」


「承知しています」


「本当に?」


「本当に」


 紗雪は少しだけ眉を上げた。


「本日は、さすがに冗談ではありませんもの」


「そうですね」


「それに」


 彼女は黒板へ視線を向けた。


 帰りの白。

 帰りのあと。


「このお店の名前と皿の名前を、勝手な白で汚されるのは、わたくしも不快です」


 恒一は、その言葉を静かに受け取った。


「俺もです」


「でしたら」


 紗雪は言う。


「まずは、噂を辿りましょう。怒るのは、それからでも遅くありませんわ」


「もう怒ってますけど」


「ええ。顔に出ています」


 澪が横からぼそりと言う。


「今日の顔、かなり怖い」


「そんなにか」


「店主の怒り」


 紗雪が小さく頷いた。


「悪くありませんわ」


「悪くないんですか」


「ええ」


 彼女は少しだけ目を細める。


「ただし、怒るなら店主としてです。料理人として飛び出すのではなく」


 その言葉で、恒一は少しだけ呼吸を整えた。


 確かに。

 森へ行って白いものを追う怒りではない。

 店の名前と皿を守るための怒りでなければならない。


「……わかりました」


「よろしい」


「命令ですか」


「助言ですわ」


「最近、その線引き曖昧ですよね」


「便利ですもの」


 そう言ってから、紗雪は少しだけ頬を赤くした。

 自分でも、今の返しが店に馴染みすぎていると気づいたのかもしれない。


 その小さなやり取りで、張りつめた空気がほんの少しだけ緩む。


 けれど、問題は残った。


 白いものは、物としてだけでなく、噂としても店に寄ってきている。

 しかも、帰りの白や帰りのあとという、ようやく生まれた皿の名前の周りに。


 恒一は、黒板の文字を指でそっとなぞった。


 帰りの白。

 帰りのあと。


 この名前は、店のものだ。

 客の記憶の中で育てるものだ。


 得体の知れない白い噂に、奪わせるわけにはいかない。

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