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『銀座の地下にある小さな店は、異世界で狩った食材でできている。祖父の遺したレストランを再建していたら、無口な狩り相棒と悪役令嬢みたいな常連お嬢様が今日も帰ってくれない』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第70話 老紳士、ひとつだけ本音を落とす

 階段の隅に置かれた小さな塩皿は、思ったより店に馴染んでいた。


 最初は、いかにも不自然に見えるのではないかと思った。

 白いものを遠ざけるための仮の作法。そんな意識があったから、恒一にはどうしても“対策”として見えてしまう。


 けれど、営業が始まってみれば、誰も不審には思わなかった。


 古いビルの地下へ続く階段。

 少し暗い壁。

 その端に置かれた小さな皿と粗塩。


 縁起担ぎにも見える。

 清めにも見える。

 店へ入る前に空気を整える、ささやかな気遣いにも見える。


 実際、ある常連は階段を下りてきて、その塩皿をちらりと見てから言った。


「なんか、いいね。こういうの」


 恒一は、少しだけ返答に迷った。


「そうですか?」


「うん。ちゃんと迎えられてる感じがする」


 その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなった。


 そうか。

 これは、客から見れば“守り”ではなく“迎える作法”にもなるのだ。


 白を寄せないための線。

 同時に、客を迎えるための線。


 そう考えると、玻璃亭の作法は少しだけ店らしい顔を持つ。


 その日の営業は、静かに始まった。


 黒板には、まだ大きくは書いていない。

 けれど裏には、昨夜の文字が残っている。


 帰りのあと


 恒一は時々、その文字を思い出しながら皿を出した。


 帰りの白。

 角兎の煮込み。

 季節の小皿。

 そして、客に聞かれた時だけ静かに出す、帰りのあと。


 店はほんの少しだけ前へ進んだ。

 だが、その前進が白いものを完全に遠ざけてくれるわけではない。

 階段の壁に出た白い乾きは、今朝拭った。

 だが、拭ったから終わりではない。


 白は、まだ止まっていない。


 その事実は、厨房の奥で小さく火を入れている時にも、恒一の頭の片隅に残り続けていた。


「顔」


 澪が短く言った。


 パンを籠へ移しながら、横目でこちらを見ている。


「また?」


「また」


「そんなに出てるか」


「出てる。考えごとしながら塩を振る顔」


「危ないな、それ」


「だから言ってる」


 恒一は手元を見直した。

 確かに、ほんの少し塩の位置がずれている。


「悪い」


「謝るほどじゃないけど」


 澪はそう言ってから、階段のほうへ視線を向けた。


「気になる?」


「階段?」


「うん」


「気にならないって言ったら嘘になる」


「だよね」


「でも、今日は店をやる日だろ」


「そう」


 澪はそれ以上、引きずらなかった。


 その距離感がありがたかった。

 彼女は危険を軽く見ない。だが、危険に引っ張られて店の手元が崩れることも許さない。


 今の玻璃亭には、そういう人間が必要だった。


 少し遅れて、紗雪が来た。


「ご、ごきげんよう」


 いつもの挨拶。

 けれど今日は、階段を下りる足音がいつもより少しゆっくりだった。


 店に入ると、彼女はまず振り返るように階段のほうを見た。

 塩皿の位置を確認したのだろう。


「いらっしゃいませ」


「ええ」


 紗雪は小さく頷き、いつもの席へ向かう途中で言った。


「塩皿、悪くありませんわね」


「客からも、そう言われました」


「でしょう?」


 少しだけ得意そうに言う。


「迎えられている感じがすると」


 紗雪は席に座りながら、表情をやわらげた。


「よい言葉ですわ」


「白を寄せないために置いたんですけどね」


「結果として、客を迎える形にもなったのでしょう」


 彼女はカップを両手で包むようにして、続けた。


「この店らしいですわ。守るためのことが、ちゃんと客のためにもなる」


 その言葉は、何気ないようで、恒一の中に深く残った。


 守るだけではない。

 追い払うだけではない。

 店の作法は、客を迎えるための姿でもなければならない。


 それができて初めて、玻璃亭は“店として白を寄せない”のだろう。


 その時だった。


 階段の上から、ゆっくりとした足音が聞こえた。


 急いではいない。

 けれど、迷ってもいない。


 恒一も、澪も、紗雪も、ほとんど同時にそちらを見た。


 扉が開く。


「こんばんは」


 老紳士だった。


 今日は一人だった。


 濃紺のスーツ。

 いつもと変わらない静かな立ち姿。

 けれど、階段の塩皿を見たのだろう。店へ入ってすぐ、彼はほんのわずかに目を細めた。


「いらっしゃいませ」


 恒一が頭を下げると、老紳士は静かに頷いた。


「少し、入口の空気が変わりましたな」


「……気づかれますか」


「ええ」


 老紳士は店内へ入る。


「悪くありません」


 それだけ言って、いつもの席へ向かった。


 紗雪は一瞬だけ立ち上がりかけたが、祖父が軽く手で制した。


「今日は客として来ました」


「……はい」


 紗雪は少しだけ表情を整え直し、席へ座る。


 老紳士は席につくと、黒板を見た。


 表に「帰りのあと」はまだない。

 だが、老紳士の目は一度だけ厨房のほうへ向いた。


「帰りの白を」


「かしこまりました」


「それと」


 少し間があった。


「例の、名を得た皿を」


 恒一は、一瞬だけ返事を忘れた。


 老紳士は知っている。

 いや、知っていても不思議ではない。

 だが、まだ黒板に出していない名を、当然のように受け取っていることに、少しだけ息を呑んだ。


「……帰りのあと、ですね」


「ええ」


 老紳士は静かに頷く。


「よい名です」


 まだ食べる前に、そう言った。


 恒一は、皿を用意した。


 帰りの白を先に。

 白い湯気が立つ。

 老紳士はカップを持ち上げ、いつものように香りを受け、ひと口飲む。


 長い沈黙ではない。

 けれど、その短い静けさの中に、祖父の店を長く見てきた人間だけの距離があった。


 次に、帰りのあと。


 白濁茸の静かなベース。

 角兎の腹肉。

 風縫いの脂。

 薄いパン。


 恒一は皿を置いた。


「お待たせしました」


 老紳士は、しばらく皿を見ていた。

 食べる前に、見る。

 それは、料理の出来だけではなく、この皿が店の中でどう座っているかを確かめるような目だった。


 やがて、スプーンを取る。


 一口。


 それから、パンを少し割って、もう一口。


 老紳士は目を閉じなかった。

 大げさに味わうこともしなかった。

 ただ、口の中でその皿を確かめ、ゆっくりと飲み込んだ。


「……なるほど」


 その一言だけで、恒一の手が少し止まった。


 老紳士はカップへ手を戻し、もう一度、帰りの白を少し飲んだ。

 そして、帰りのあとへ視線を落としたまま言った。


「祖父君の店は、守るだけでは足りなかった」


 店内の空気が、すっと静かになった。


 澪が厨房の奥で動きを止める。

 紗雪もカップを持ったまま、祖父を見ている。


 恒一は、何も言わなかった。


 老紳士の声は、低く、穏やかだった。

 だが、その奥にあるものは軽くない。


「守ることは、大切でした。あの時代には、それしか選べぬ夜も多かった」


「……」


「境界を荒らさぬこと。店を潰さぬこと。外からの手を避けること」


 老紳士は、帰りのあとをもう一口食べる。


「だが、守っているだけでは、店は少しずつ痩せる」


 その言葉は、今の恒一にはよくわかった。


 危険から遠ざけるだけでは、店は続かない。

 火を残すだけでは、客は戻らない。

 料理があり、名前があり、席があり、客の記憶が増えていく。

 それがなければ、店は形だけになってしまう。


「あなたは」


 老紳士が顔を上げた。


「守りながら、増やしている」


「増やしている……ですか」


「ええ」


 老紳士は、ほんの少しだけ目元を緩めた。


「帰りの白だけで終わらせなかった」


「……」


「帰りのあと。よい名です」


 恒一は、すぐには返事ができなかった。


 老紳士に褒められたから、ではない。

 その言葉の中に、祖父の代から続く何かと、今の自分たちが作ったものが、初めて同じテーブルへ置かれたように感じたからだ。


「ありがとうございます」


 ようやくそう言うと、老紳士は小さく首を振った。


「礼には及びません」


「でも」


「これは、あなた方の皿です」


 あなた方。


 その言い方に、恒一は少しだけ視線を動かした。


 澪。

 紗雪。

 そして自分。


 この皿は、確かに一人で作ったものではない。

 澪の言葉があり、紗雪の感性があり、常連の何気ない一言があった。

 それらが重なって、帰りのあとになった。


「ただし」


 老紳士の声が、少しだけ硬くなる。


「店が強くなれば、店を利用しようとする者も強くなります」


 その一言で、緩みかけた空気が再び引き締まった。


「帰りのあとが、広がるほどですか」


 恒一が訊く。


「ええ」


 老紳士は頷いた。


「よい店になれば、人は集まる。人が集まれば、意味が生まれる。意味が生まれれば、それを使いたがる者も出る」


「白いものを運ぶ者たちも」


「おそらくは」


 老紳士は、断言を避けた。

 だが、その避け方が逆に重かった。


「では、店を強くすることは、危険を呼ぶことでもあるんですね」


 恒一が言うと、老紳士は静かに答えた。


「そうです」


 紗雪が小さく息を呑んだ。


 老紳士は続ける。


「しかし、弱い店のままなら、もっと早く使われます」


「……」


「強い店は狙われる。弱い店は奪われる」


 言葉が、まっすぐ落ちた。


「ならば、店主殿が選ぶべきは一つでしょう」


 恒一は、カウンターの向こうで、皿を見た。


 帰りの白。

 帰りのあと。


 まだ小さい。

 まだ銀座の片隅の地下店に過ぎない。


 けれど、この店にはもう皿があり、客があり、作法があり、名前がある。


「強い店にする」


 恒一が言った。


 老紳士は、すぐには返事をしなかった。

 けれど、視線が少しだけ柔らかくなった。


「ええ」


 短い肯定だった。


 その後、老紳士は静かに食事を終えた。


 長居はしない。

 余計なことも言わない。

 ただ、帰りの白を飲み、帰りのあとを食べ、角兎の煮込みを少しだけ追加した。


 会計を済ませ、立ち上がる。


「本日も、ごちそうさまでした」


「ありがとうございました」


 恒一が頭を下げる。


 老紳士は扉へ向かう途中で、紗雪の席の横に少しだけ立ち止まった。


「紗雪」


「はい、お祖父様」


 老紳士の声は、恒一たちに聞こえないほど小さくはなかった。

 だが、明らかに紗雪へ向けた声だった。


「そろそろ、家の名を使う者が出る」


 紗雪の表情が、わずかに強張った。


「……誰が、ですの」


「まだ、断じるには早い」


「ですが」


「見なさい」


 老紳士は静かに言った。


「お前は、外側を見る役目なのでしょう」


「……」


 紗雪は一瞬だけ息を止め、それから深く頷いた。


「承知いたしました」


 その返事は、いつもの少し照れたものではなかった。

 東條院の家の人間としての声だった。


 老紳士は満足したとも、不満そうとも言わず、ただ頷き、階段を上がっていった。


 扉が閉まる。


 足音が遠ざかる。


 店の中に、短い沈黙が残った。


「家の名を使う者」


 澪が呟いた。


 紗雪は、カップを見つめたまま答えた。


「東條院の名を、店へ近づける誰かがいるということですわ」


「味方じゃなく?」


 恒一が訊く。


「味方なら、祖父はあのようには言いません」


 紗雪は顔を上げる。


 その目は、少しだけ怒っていた。


「玻璃亭を守るためではなく、玻璃亭を利用するために、家の名を使おうとしている者がいる」


「……」


「おそらく、再開発か、白いものか」


 彼女はそこで一度、言葉を切った。


「あるいは、その両方ですわ」


 恒一は、黒板の裏を見た。


 帰りのあと。


 その文字は、昨日より少しだけ重く見えた。


 店が強くなれば、狙われる。

 だが、弱ければ奪われる。


 ならば、強くするしかない。


 帰りの白と、帰りのあと。

 その二つの皿を持って、玻璃亭はもう少し前へ進まなければならない。


 ただし、次に寄ってくるのは、白いものだけではない。

 人の名前。

 家の名。

 権力の影。


 店の外側が、また一段動き始めていた。

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