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『銀座の地下にある小さな店は、異世界で狩った食材でできている。祖父の遺したレストランを再建していたら、無口な狩り相棒と悪役令嬢みたいな常連お嬢様が今日も帰ってくれない』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第69話 白いものは、まだ止まらない

 名前を得た皿は、少しだけ違って見えた。


 朝倉恒一は、翌朝の厨房で、黒板の裏に残った白い文字を見ていた。


 帰りのあと


 昨夜、試し書きしたままの文字だ。

 大きく書いたわけではない。表の黒板に出したわけでもない。

 ただ、裏側に小さく置いただけ。


 それなのに、店の中でその皿の居場所が少し定まった気がした。


 帰りの白。

 帰りのあと。


 二つ並べてみると、派手さはない。

 けれど、この店らしい。

 妙に気取らず、少しだけ不器用で、でも帰る場所を持つ店の名前としては悪くない。


「まだ見てる」


 背後から澪の声がした。


 火乃坂澪は、いつもより少し早く店へ下りてきていた。

 髪を簡単にまとめ、まだエプロンはつけていない。完全に営業前の顔だ。


「見るだろ」


「見るね」


「認めるんだな」


「昨日は、かなり大きかったから」


 澪はそう言って、黒板の裏の文字を横から覗いた。


「いいと思う」


「帰りのあと?」


「うん。変に綺麗じゃなくて」


「それ、褒めてるのか」


「褒めてる」


 恒一は小さく笑った。


 澪の言い方は、いつも少し素っ気ない。

 だがその分、余計な飾りがない。

 だから、いいと言われると本当にいいのだと思える。


「今日から出す?」


 澪が訊く。


「大きくは出さない」


「うん」


「常連に聞かれたら言う。帰りの白のあとで、少しだけ」


「それがいい」


「黒板には?」


「まだ裏でいいんじゃない」


「だよな」


 そんな会話をしながらも、二人の視線は自然と冷蔵庫のほうへ流れた。


 白いものの問題が、消えたわけではない。

 むしろ、皿に名前がついたことで、店の未来が一つ強くなったからこそ、余計に気を抜いてはいけない。


 恒一は黒板を壁へ立てかけ、冷蔵庫前へ歩いた。


 塩皿は、昨夜の閉店時に片づけず、そのまま置いてある。

 小さな白い皿の上で、粗塩が静かに朝の光を受けていた。


 床の乾いた変色は、以前より目立たない。

 火を残す作法も、塩を置く手順も、少なくとも店内には効いているように見える。


「……悪くない」


 恒一が言うと、澪も頷いた。


「冷蔵庫前は、昨日より嫌じゃない」


「白い粉は?」


「見えない」


「床は?」


「変わってない。昨日と同じくらい」


 恒一は膝をつき、床を近づきすぎない位置から確認した。


 白い粉はない。

 新しい筋もない。

 冷たい乾きも広がってはいない。


 それだけで、少しだけ胸が軽くなる。


「作法、効いてるのかもな」


「かも」


 澪は、そこで少しだけ言葉を切った。


「でも、まだ決めつけないほうがいい」


「わかってる」


「店内はよくても、別の場所に出るかもしれない」


「……」


 その言葉に、恒一は顔を上げた。


 澪はもう、店の奥ではなく、入口のほうを見ていた。

 正確には、地下へ下りてくる階段の方向を。


「見に行くか」


「うん」


 二人は厨房から出て、まだ客のいない店内を通った。


 椅子は昨日の営業後に整えたまま。

 カウンターの木目も静かだ。

 帰りの白の鍋には、まだ火を入れていない。


 店はまだ始まっていない。

 その“始まる前”の静けさの中で、二人は入口へ向かった。


 扉を開ける。

 地下階段の空気が、店内より少し冷たかった。


 いつもなら気にならない程度の冷えだ。

 だが今朝は、少しだけ違和感があった。


「……あるね」


 澪が先に言った。


「どこ」


「壁」


 階段を三段ほど上がったあたり。

 古い壁の端に、うっすらと白い乾きが残っていた。


 粉ではない。

 線でもない。

 壁材の表面だけが、水分を抜かれたように白く乾いている。


 恒一は近づきすぎず、手を伸ばさない距離で目を凝らした。


「……店の床には出てないのに」


「回った?」


「回った、っていうのも変だけど」


「でも、そう見える」


 澪の声は低かった。


 冷蔵庫前に塩を置いた。

 火を残した。

 床拭きの順も変えた。

 店内には白い痕跡が残らなかった。


 だが、白は止まったのではない。

 ただ、別の場所へ回り込んだ。


 そんな気配がある。


「正面が駄目なら、階段側」


 恒一が呟く。


「向こうが考えてやってるのか、白そのものがそう動いてるのか」


「どっちにしても嫌だな」


「かなり」


 二人はしばらく黙って壁を見ていた。


 その乾きは、よく見なければただの古い汚れにしか見えない。

 けれど、一度白いものの痕跡を見た目には、もう普通の経年劣化とは思えなかった。


 不自然に薄い。

 不自然に冷たい。

 そして、そこだけ壁の呼吸が止まっているように見える。


「……これ」


 澪が少し眉を寄せた。


「何かに似てる」


「何に」


「祖父さんの帳面」


「……印?」


「うん」


 恒一は息を止めた。


 慌てて店内へ戻り、帳面を持ってくる。

 古い“印”の帳面。

 祖父が残した、森と境界の記録。


 階段の下で頁をめくる。


 《白の気配強し》

 《店側へ寄るな》

 《風の夜は開けるな》


 そのあたりの頁に、小さな記号がいくつか残されている。

 丸でも線でもない、乾いた枝のような形。

 祖父の字で、その横に短く書かれていた。


 《回り白。火の外に出る》


「……これだ」


 恒一の声が、自分でも少し低く聞こえた。


 澪が横から覗き込む。


「回り白?」


「たぶん、これ」


「火の外に出る……」


 二人は同時に壁を見た。


 冷蔵庫前の火と塩で店内へ入れなかった白が、階段の壁へ回った。

 そう考えると、あまりにも一致する。


 祖父は知っていた。

 白いものはただ止まるわけではない。

 押し返せば、別の線へ回ることがある。


 だから“火の外に出る”。


「……店の火の外」


 恒一が言う。


「階段は、店の中と外の間」


「うん」


「一番まずいところかも」


「客が通る」


 澪が短く言った。


 その一言で、恒一の腹の奥が冷えた。


 厨房の床なら、店の人間だけで管理できる。

 だが階段は違う。

 客が通る。

 常連も、新規も、紗雪も、老紳士も。


 そこに白い乾きが出ている。


 このまま放置するわけにはいかない。


「触らずに、まず記録」


 澪が言った。


「うん」


「位置、形、広がり」


「写真は?」


「撮る。でも近づきすぎない」


「わかった」


 二人は手早く確認した。

 白い乾きは壁の端に三つ。

 階段の踏み面にはまだ出ていない。

 手すりにも見えない。


 だが、階段の壁に出たこと自体が問題だった。


 恒一が帳面へ新しい頁を作り、短く書き込む。


 《階段壁、白の乾き》

 《塩・火の作法後、冷蔵庫前は安定》

 《別線へ回った可能性》

 《祖父帳面“回り白。火の外に出る”に類似》


 字にすると、余計に現実になった。


「……紗雪さんにも見せる?」


 澪が訊いた。


「見せる」


「来たらすぐ?」


「うん。外側担当だし、客の線にも関わる」


「そうだね」


 その時、階段の上から足音がした。


 二人は同時に顔を上げる。


 少しだけ速く、でもこの店へ来る足としてはもう聞き慣れた音。

 東條院紗雪だ。


 階段の上に、彼女の姿が見えた。


「ご、ごきげんよう……」


 途中まで言って、紗雪は足を止めた。


 恒一と澪が階段下に立っている。

 そして二人の視線が壁に向いている。


 それだけで、彼女は察したのだろう。


「……何か、ありましたのね」


「あります」


 恒一は静かに答えた。


「近づきすぎないでください」


 紗雪はすぐに頷いた。


「ええ」


 彼女は二段上で止まり、壁を見た。


 白い乾き。

 古い壁の端に残った、言われなければ見落とすほど薄い痕跡。


 だが紗雪の顔色が、すっと変わった。


「……これは」


「店内には出てません」


 恒一が言う。


「でも、階段の壁に出た」


「作法が効いたから」


 澪が低く言う。


「こっちへ回ったのかも」


 紗雪はゆっくり息を吸った。


「つまり」


「うん」


「白は、止まったのではなく」


「別の線を探してる」


 紗雪は手袋を握った。


「……嫌ですわね」


「かなり」


「本当に、嫌ですわ」


 今度の声には、珍しく感情が乗っていた。


 自分だけではない。

 客が通る階段に出たことが、紗雪にとってもかなり不快だったのだろう。


「お客様の通り道ですもの」


 彼女は言った。


「ええ」


「ここを汚すのは」


 少しだけ言葉を探す。


「料理を汚すのとは、また違う不快さがありますわ」


 その言い方に、恒一は頷いた。


 まさにそうだった。


 店の皿を汚すのも許せない。

 だが、客が店へ来るための道を汚されるのも同じくらい許せない。


 階段は、店に入る前の最初の時間だ。

 ここを通る時、客はまだ“この店へ行こう”という気持ちの途中にいる。

 そこへ白が出る。


 それは、店の内側ではなく、店へ向かう気持ちそのものへ触れてくるようだった。


「どうしますの?」


 紗雪が訊いた。


 恒一は帳面を閉じた。


「まず、ここも作法の範囲に入れます」


「階段も?」


「はい」


「店内だけではなく?」


「ここはもう、店の線です」


 言ってから、恒一は自分の言葉に納得した。


 階段は、ただの共用部ではない。

 玻璃亭へ来る客にとっては、もう店の一部だ。


「火の外に出るなら」


 澪が言う。


「火の範囲を少しだけ外へ広げる?」


「階段で火は無理」


「わかってる」


「でも」


 恒一は壁を見た。


「塩は置ける」


「入口に?」


「営業中は邪魔になるから、開店前と閉店後。あと、階段拭きの順番を作る」


「……」


 紗雪が静かに頷いた。


「よろしいと思いますわ」


「まだ仮です」


「仮で構いません」


 彼女は、白い乾きから視線を逸らさず言う。


「店は、こうして少しずつ自分の線を広げていくものなのでしょう」


「……」


「入口まで」


 澪が呟く。


「うん」


 恒一は頷いた。


「入口まで、店の作法に入れる」


 それは小さな決定だった。

 だが、大きな意味を持っていた。


 玻璃亭は、厨房だけでは守れない。

 客席だけでも足りない。

 店へ下りる階段も、客が店へ向かう時間も、そこまで含めて守る必要がある。


 白いものはまだ止まらない。

 だが、こちらも線を引き直す。

 冷蔵庫前から、店内へ。

 店内から、入口へ。


 店の火が届く範囲を、少しずつ広げるように。


 その朝、黒板を出す前に、三人は階段の壁を慎重に拭った。

 素手では触れず、布を分け、熱い湯と塩を使い、白い乾きのあった箇所を記録する。


 完全に消えたわけではない。

 だが、見える形では薄まった。


 それから恒一は、階段の隅に、ごく小さな塩皿を置いた。

 客の足に触れない位置。

 目立たないけれど、そこにあるとわかる場所。


 紗雪がそれを見て、小さく言った。


「お店の入口らしくなりましたわね」


「塩皿で?」


「ええ」


「縁起物っぽいですか」


「それもありますけれど」


 紗雪は少しだけ笑った。


「誰かを迎える場所には、整えられた気配が必要ですもの」


 恒一は、階段の上を見た。


 この先に銀座の通りがある。

 見張る者もいる。

 白い噂も、再開発も、老紳士の見えない力も、その外側にある。


 だが、この階段を下りた先には店がある。


 帰りの白があり、帰りのあとがある。

 火があり、塩があり、人が座る。


 だから白いものが止まらないなら、こちらも止まらない。


 店は、少しずつ自分の範囲を決めていく。

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