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『銀座の地下にある小さな店は、異世界で狩った食材でできている。祖父の遺したレストランを再建していたら、無口な狩り相棒と悪役令嬢みたいな常連お嬢様が今日も帰ってくれない』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第68話 皿の名は、帰りのあとで

 名前を待っている皿というものが、本当にあるのかもしれない。


 朝倉恒一は、営業前の厨房で、その一皿を前にしながらそんなことを思っていた。


 白濁茸の静かなベース。

 角兎の腹肉。

 風縫いの脂を、ほんの少し。

 添えるのは薄く焼いたパン。

 派手ではない。香りで殴るような皿でもない。口に入れた瞬間に驚かせる皿でもない。


 けれど、帰りの白のあとに置くと、ちょうどいい場所へ収まる。


 そこが、この皿の不思議なところだった。


 帰りの白は、店へ戻ってくるための皿だ。

 祖父の記憶があり、白い湯気があり、客の中にある“帰ってもいい場所”を静かに揺らす。


 だが、この皿は違う。


 戻ってきたあと、すぐ帰るのではなく、もう少し椅子に座っていたくなる味。

 誰かと話してもいいし、何も話さなくてもいい。

 ただ、この店の夜をもう少し受け取っていたくなる味。


 そこまでわかっていながら、恒一はまだ名をつけられずにいた。


「また見てる」


 澪が、パンを薄く切りながら言った。


 火乃坂澪の声は、今日は少しだけ柔らかかった。

 呆れているのではなく、もう何度も同じものを見ている相手に声をかける時の調子だ。


「見てるな」


 恒一は素直に答えた。


「名前、出た?」


「出てない」


「まだ?」


「まだ」


「逃げてる?」


「逃げてる、というより……」


「逃げてるね」


「最後まで言わせろよ」


 澪はパン切り包丁を置き、皿を覗き込んだ。


「でも、逃げたい気持ちはわかる」


「意外だな」


「意外?」


「もっと、早く決めろって言われるかと思った」


「それも言いたい」


「言うんじゃないか」


「でも、雑につける名前じゃないでしょ」


 澪はそう言って、皿から少し目を逸らした。


「帰りの白の隣に置くなら、なおさら」


「……そうなんだよな」


 恒一は頷いた。


 帰りの白という名前は、もう店に根を張っている。

 それと並ぶ名前をつけるのなら、軽くはできない。

 奇をてらえば浮く。

 綺麗すぎれば店から離れる。

 説明的すぎれば、皿の余韻が消える。


「今日、出す?」


 澪が訊いた。


「出す」


「誰に?」


「常連さんと……紗雪さん」


「紗雪さんは当然として」


「当然なのか」


「当然でしょ」


 澪は平然と言った。


「たぶん、今日決まるなら、あの人の言葉が絡む」


「……そんな気はしてる」


「あと、常連さんの何気ない一言」


「両方か」


「うん。名づけって、たぶん店主だけで閉じると弱い」


 それは、澪らしい言い方だった。


 店の皿は、厨房だけで完成しない。

 客の口に入り、その皿が客の夜のどこに座るかで、ようやく店の皿になる。


 だから名前も、厨房だけで決めきる必要はないのかもしれない。


 そこへ、階段の上から足音がした。


 少し速く、けれど今ではもう迷いのない足音。


 東條院紗雪だ。


 扉が開く。


「ご、ごきげんよう」


 今日は淡い桜鼠色のワンピースだった。

 派手ではないのに、店の灯りの下に入ると、布の色がやわらかく浮く。

 紗雪は一歩入ったところで、いつものように店内を見て、それから厨房の皿へ視線を止めた。


「いらっしゃいませ」


「ええ」


 紗雪は小さく頷き、それからほんの少しだけ目を細めた。


「本日は、名前の日ですのね」


 恒一は思わず笑ってしまった。


「そこまでわかるんですか」


「最近は、そのくらいなら」


 いつもの返し。

 けれど今日は、そこで終わらなかった。


 紗雪はカウンター席へ座る前に、もう一度その皿を見た。


「待っている皿は、空気が違いますもの」


「皿の空気まで見るんですね」


「見るというより、感じますの」


「それ、かなり料理人っぽいですよ」


「客ですわ」


 即答だった。


 澪が小さく笑う。


「最近、その返しも店の一部だね」


「火乃坂さんまで」


「でも、ほんと」


 紗雪は少しだけ頬を赤くしたが、今日は反論を続けなかった。


「帰りの白を」


「はい」


 恒一は帰りの白を出した。


 紗雪は一口飲む。

 いつものように、すぐには何も言わない。

 ただ、目元が少しだけほどける。


 その表情を見るたびに、恒一はこの皿がもう彼女にとって“帰る場所の入口”になっていることを思う。


 だからこそ、次の皿の名前にも、彼女の言葉が必要なのだと思った。


「今日は、このあと出します」


「ええ」


 紗雪は静かに頷く。


「そのつもりで来ましたもの」


「心の準備がいいですね」


「本日は、客としてではなく」


 そこで一度、言葉を止める。


「いえ。客として、きちんと受け取りますわ」


 言い直したところが、紗雪らしかった。


 店の内側へ近づきながら、それでも自分は客であるという立ち位置を大切にしている。

 その距離感が、今の玻璃亭にはちょうどいい。


 営業が始まった。


 この日は、流れがよかった。


 常連の会社員が一人。

 前にも新しい皿を食べた夫婦客。

 そして、初めて来たらしい若い女性が一人。


 満席ではない。

 だが、皿を育てる夜としてはちょうどいい密度だった。


 恒一は焦らなかった。


 帰りの白を出す。

 角兎の煮込みを出す。

 パンを添える。

 水を注ぎ足す。


 店がちゃんと店として流れていることを確かめながら、名もない皿を出すタイミングを待った。


 最初に出したのは、会社員の常連だった。


「今日は、あれ、あります?」


 向こうから訊かれた。


 恒一は一瞬だけ手を止めた。


「あれ?」


「白のあとに出してくれたやつ」


 常連は少し照れたように笑った。


「名前がないと、こういう時困るね」


「……本当にそうですね」


「でも、あるなら食べたい」


「あります」


 恒一は皿を整えた。


 この言葉だけで、もう十分だったかもしれない。

 客が“あれ”と呼んででも、もう一度頼もうとしている。

 それは、皿が客の中に座り始めた証拠だ。


 皿を置く。


 常連は一口食べ、前と同じように少し黙った。

 それから、薄いパンを割って、もう一口。


「……やっぱり、いいな」


「ありがとうございます」


「白を飲んだあとに食べるとさ」


「はい」


「帰ってきたあと、上着を脱いで椅子に座る感じがする」


 妙に生活のある比喩だった。


 綺麗すぎない。

 けれど、とても正確だ。


「上着を脱ぐ」


 恒一が繰り返すと、常連は少し恥ずかしそうに笑った。


「変かな」


「いえ。かなりわかります」


「帰りの白が、店に入るところだとしたら」


「はい」


「これは、そのあとだよね」


「……」


「帰りのあと、みたいな」


 恒一は、その言葉をすぐには返せなかった。


 帰りのあと。


 あまりに自然で、あまりに素直だった。


 飾っていない。

 料理名として派手でもない。

 けれど、この皿の位置をそのまま言い当てている。


 帰りの白のあと。

 店に戻ったあと。

 もう少し座っていたくなる時間。


 その全部が、そこにある。


「……ありがとうございます」


「え、何が?」


「いえ」


 恒一は少し笑った。


「大事なことを、言ってもらった気がします」


 常連は不思議そうな顔をしたが、すぐに皿へ戻った。


 そのあと、夫婦客にも出した。


 妻のほうが、ひと口食べて言った。


「あら、今日のほうが落ち着く」


「変えました?」


 夫が訊く。


「少しだけ」


 恒一が答える。


 実際には、塩の輪郭をわずかに落としただけだ。

 ただ、それが“帰りの白のあと”に続くには正しかった。


「名前、決まりました?」


 妻が訊いた。


「まだです」


「そう」


 妻は皿を見て、小さく笑った。


「でも、たぶん難しい名前じゃないほうがいいわね」


「どうしてですか」


「この皿、気取ってないから」


 横で夫が頷く。


「わかる。うまいけど、気取ってない」


「……」


「白のあとに、普通に食べたいんだよ」


 また、同じところへ戻ってくる。


 帰りの白のあと。

 普通に座る時間。

 気取らない、けれどこの店にしかない一皿。


 恒一の中で、だんだんと言葉が動かなくなっていく。

 動かないというより、一つの場所に落ちようとしていた。


 最後に、紗雪へ出した。


 彼女は、もう皿が運ばれてくる前から、何かを察している顔をしていた。


「お待たせしました」


「ええ」


 皿を置く。


 紗雪は一口目を静かに食べた。

 二口目で薄いパンを合わせる。

 それから、スプーンを置いた。


「……本日は」


「はい」


「この皿が、少し落ち着いておりますわね」


「わかりますか」


「ええ」


 紗雪は皿を見つめる。


「前は、まだ“名づけられたい”という気配が強すぎましたの」


「そんな気配まで?」


「ありましたわ」


 真顔で言うから、恒一も笑えなかった。


「でも本日は」


「はい」


「もう、名が近くまで来ている感じがします」


「……」


「何か、ございましたのね」


 恒一は頷いた。


「常連さんが」


「ええ」


「帰りのあと、みたいだって」


 紗雪は、すぐには返事をしなかった。


 その言葉を、皿と一緒に受け取るように、しばらく目を伏せていた。


「……帰りのあと」


 ゆっくりと、口にする。


 その響きを確かめるようだった。


「どう思います?」


 恒一が訊く。


 紗雪は顔を上げた。


「よろしいと思いますわ」


「かなり?」


「かなり」


 即答だった。


 澪が厨房の奥で、少しだけ笑った。


「珍しく迷わない」


「迷いませんわ」


 紗雪は静かに言う。


「この皿は、帰りの白と並ぶのではなく、帰りの白のあとに座る皿ですもの」


「……」


「でしたら、変に美しく飾るより、そのままがよろしいです」


「帰りのあと」


「ええ」


 紗雪はもう一度、その名前を口にした。


「帰りの白。そして、帰りのあと」


「……」


「少し不器用で、でもこの店らしい名前ですわ」


「不器用ですか」


「ええ」


 紗雪は少しだけ微笑んだ。


「けれど、そこがよろしいのです」


 その言葉で、恒一の中でもう決まった。


 派手な名ではない。

 料理名らしい華やかさもない。

 けれど、玻璃亭らしい。

 帰りの白の隣ではなく、あとに置かれる皿。

 客の夜の中で、自然に呼ばれる皿。


 それでいい。

 いや、それがいい。


 閉店後。


 最後の客を見送り、灯りを少し落とした店の中で、恒一は黒板の裏に小さく試し書きをした。


 帰りのあと


 白いチョークの文字。

 少しだけ不格好だった。


 澪が横から覗く。


「いいじゃん」


「軽いな」


「軽くないよ」


 澪は少しだけ目を細めた。


「やっと座った感じ」


「皿が?」


「うん。皿も、店も」


 紗雪も近づいてきた。


 黒板の裏の文字を見て、少しだけ嬉しそうに目を細める。


「これで」


「はい」


「この皿も、玻璃亭の夜に座りましたわね」


 恒一は、チョークを置いた。


「明日から、出します」


「黒板に?」


 澪が訊く。


「いきなり大きくは書かない」


「うん」


「でも、聞かれたら言う」


「それがいい」


 紗雪も頷いた。


「最初は、静かに名前を置くのがよろしいですわ」


「静かに?」


「ええ」


 紗雪は、黒板の裏の文字を見たまま言う。


「帰りの白も、最初は静かに戻ってきたのでしょう?」


「……そうですね」


「なら、この皿も」


 彼女は少しだけ微笑んだ。


「帰りのあとで、静かに始めるのが似合いますわ」


 厨房の奥では、閉店後に残した小さな火がまだ揺れていた。

 冷蔵庫前の塩皿も、今日は静かにそこにある。


 白いものの問題は終わっていない。

 見張りも、森の小屋も、第二入口も消えていない。

 店側の線も、まだ仮のままだ。


 それでも、今夜、玻璃亭には新しい名前が増えた。


 帰りの白。

 そして、帰りのあと。


 それは、この店がまだ未来を持つという、静かな証だった。

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