第73話 白い噂を、皿で塗り替える夜
噂を消すことはできない。
朝倉恒一は、そのことをよく知っていた。
人の口に一度乗ったものは、こちらが手を伸ばす前に少しずつ形を変えていく。誰かが面白半分で尾ひれをつける。誰かが曖昧なまま信じる。誰かが都合よく使う。
だから、噂を追いかけて一つずつ潰していたら、きりがない。
けれど、料理店には料理店のやり方がある。
嘘の噂を全部消すのではない。
ちゃんと食べた人の中に、本当の味を残す。
それが、恒一の出した答えだった。
営業前の玻璃亭。
厨房には、いつもより少しだけ濃い熱があった。
帰りの白の鍋には、ゆっくり火が入っている。
角兎の赤ワイン煮込みは、鍋の中で静かに照りを増している。
季節の小皿には、異世界の森で採れた淡い香りの葉と、現代の野菜を合わせる予定だった。
そして最後に、帰りのあと。
黒板には、今日は少しだけ特別な文字を書いた。
本日の小さなコース
帰る店の灯
帰りの白
季節の小皿
角兎の赤ワイン煮込み
帰りのあと
書き終えたあと、恒一は少し離れてそれを見た。
派手ではない。
銀座の一等地にある店のコース名としては、むしろ地味かもしれない。
けれど、玻璃亭にはこのくらいでいい。
帰る店の灯。
白い噂ではなく、店の火を見せる夜。
珍しい白い食材ではなく、帰ってきたくなる白と、そのあとに座るための皿を出す夜。
そういう名前だった。
「字、今日はいい」
背後から澪が言った。
火乃坂澪は、革袋を肩から下ろしたところだった。
いつもの厨房の顔に戻っているが、髪の端にはまだ森の匂いがわずかに残っている。
「森、どうだった」
恒一が訊くと、澪は一度だけ眉を寄せた。
「濃かった」
「白が?」
「うん。でも、小屋までは行ってない」
「約束通りだな」
「当然」
短く返してから、澪は厨房の中へ入り、狩り場から持ち帰った包みを置いた。
角兎の肉。
香りの強い葉。
白濁茸。
どれも今夜のコースに必要な食材だ。
「白い気配は、前より火を嫌ってる感じがした」
「どういう意味だ」
「火の匂いがある場所を避けてる。逆に、火がない場所だけ冷たく乾いてた」
澪は包みをほどきながら続ける。
「向こうは、火のない場所を作ろうとしてるのかも」
「白を保つために?」
「たぶん」
「……」
「でも、うちらは逆」
澪は顔を上げた。
「火を入れるために、食材を持って帰ってきた」
その言い方が、妙に澪らしかった。
白いものを追いかけるのではない。
白いものを暴くのでもない。
今夜出すべき皿のために、必要な食材を持って帰る。
狩りの相棒としての澪は、最後までそこを外さない。
「助かった」
恒一が言うと、澪は少しだけ目をそらした。
「今日は、それ言ってもいい」
「珍しいな」
「本当に助けたから」
「そうだな」
「あと、今夜は手を止めないで」
「え?」
「何があっても、皿を止めない」
澪は真顔だった。
「白のことも、見張りのことも、噂もある。でも、今日は店の夜でしょ」
「……ああ」
「なら、皿を止めたら負け」
恒一は黒板を見た。
帰る店の灯。
「わかった」
そう答えた時、階段の上から足音が聞こえた。
少し速く、けれど乱れてはいない。
東條院紗雪だ。
扉が開く。
「ご、ごきげんよう」
今日は、いつもより少しだけ凛とした装いだった。淡い藤色のワンピースに、濃い紺の細いリボン。柔らかい色なのに、立ち姿には芯がある。
紗雪は店へ入るなり、黒板を見た。
「帰る店の灯」
声に出して読む。
それから、少しだけ微笑んだ。
「よろしいですわね」
「そうですか」
「ええ。少し不器用で、この店らしいです」
「また不器用ですか」
「褒めておりますのよ」
「最近、それ便利に使ってませんか」
「便利ですもの」
澪が横から小さく言う。
「今日は使っていい日」
「火乃坂さんまで」
少しだけ笑いが落ちた。
けれど、紗雪の目元にはまだ硬さが残っていた。
「外は?」
恒一が訊く。
「動いておりますわ」
紗雪は席へ座らず、カウンターの前に立ったまま言った。
「噂を流していた遠縁筋の方ですが、再開発関係の会合に顔を出しておりました。表向きは不動産の相談。けれど実際には、玻璃亭を“特殊な白い食材を扱う店”として話題にしていたようです」
「やっぱりか」
澪が低く言う。
「ええ。白いものを玻璃亭の料理に見せかけ、いずれ店の評判ごと利用するつもりだったのでしょう」
紗雪の声は静かだった。
だが、怒っていた。
上品な怒りだった。
声を荒げることなく、相手の逃げ道をふさぐような怒り。
「会ったんですか」
恒一が訊くと、紗雪は少しだけ顎を上げた。
「ええ」
「大丈夫でしたか」
「当然ですわ」
「本当に?」
「本当です」
少しだけいつもの顔に戻る。
だが次の瞬間、紗雪はふっと目を細めた。
「申し上げましたの」
「何を」
「玻璃亭は料理店ですわ、と」
その口調が、普段より少しだけ冷たい。
「あなた方の白い噂を置く皿ではございません、と」
恒一は思わず黙った。
澪も、手を止めている。
紗雪はわずかに頬を赤くした。
「な、何ですの」
「いや」
恒一は少し笑った。
「格好いいなと思って」
「そ、そういうことを真正面から言わないでくださいまし」
「助かりました」
「それも困ります」
「でも、本当に」
紗雪は視線を逸らした。
「……なら、困っておきますわ」
その声は小さかった。
じれったい。
澪が口に出さなかっただけで、たぶん三人とも少し思っていた。
その時、店の電話が鳴った。
恒一が出る。
「はい、玻璃亭です」
短い会話だった。
予約の確認。
今夜のコースについて。
人数は二人。
電話を切ると、澪が訊いた。
「新規?」
「常連さんの紹介」
「噂じゃなく?」
「帰りの白を食べてみたいって」
それだけで、少し空気が変わった。
白い噂ではなく、帰りの白。
ちゃんと皿の名前で来る客がいる。
それこそが、今夜の答えだった。
開店時間が近づく。
階段の隅には塩皿。
冷蔵庫前にも塩皿。
帰りの白の鍋には火。
角兎の鍋にも火。
最後のための小さな鍋にも、弱い火が残っている。
火がある。
皿がある。
客を迎える準備がある。
玻璃亭は、今日も店になる。
最初に来たのは、会社員の常連だった。
「おお、今日はコースなんだ」
黒板を見て、少し嬉しそうに笑う。
「小さなものですが」
「いいね。名前がいい」
「帰る店の灯、です」
「うん。ここっぽい」
その一言だけで、恒一は少し救われた。
次に夫婦客。
そのあと、紹介で来た二人組。
そして、以前“珍しい白い食材”と口にした女性客も、もう一度来てくれた。
「今日は、ちゃんと名前を覚えてきました」
彼女は席へ着くなり言った。
「帰りの白、ですよね」
「はい」
恒一は答えた。
「ありがとうございます」
「この前、変な聞き方してすみませんでした」
「いえ」
「でも、あれから友達に言ったんです。珍しいんじゃなくて、帰ってきた感じの白だよって」
その言葉に、恒一は一瞬だけ何も言えなくなった。
噂は変わる。
悪意ある噂だけではない。
ちゃんと食べた人の言葉もまた、外へ出ていく。
「……それは、かなり嬉しいです」
「かなり?」
「ええ。かなり」
女性は笑った。
店の中に、少しずつ火が入っていく。
帰りの白を出す。
客たちは黙って湯気を受ける。
一口目で、表情が少しほどける。
派手な驚きではない。けれど、この皿に必要なのはそれでいい。
次に季節の小皿。
森の葉と現代の野菜が、同じ皿の上で不思議に馴染む。
角兎の赤ワイン煮込み。
常連の一人が、パンでソースを拭いながら「これがあると落ち着く」と言う。
最後に、帰りのあと。
名前がついて初めて、きちんとコースの最後に置かれる。
会社員の常連が言った。
「やっぱり、これ、最後にいいね」
夫婦客の妻が言った。
「帰りたくなくなるわね」
紹介で来た客が言った。
「初めてなのに、もう一度来る理由ができました」
それらの言葉が、店の中に積もっていく。
白い噂を消すためではない。
それより強い記憶を、客の中に置いていくために。
恒一は皿を出しながら、確かに感じていた。
店の火が強くなっている。
物理的な火だけではない。
客の声、皿の名前、湯気、笑い、もう一度来たいという小さな言葉。
その全部が、玻璃亭の火になっている。
ふと、澪が冷蔵庫前を見た。
「薄い」
小声だった。
「白?」
「うん。今日、薄い」
恒一も、隙を見て冷蔵庫前を通った。
確かに、嫌な乾きがほとんど感じられない。
階段の白い乾きも、今日の営業中は広がっていない。
店が回っている。
火が入っている。
客が座っている。
それだけで、白いものは寄りにくくなっている。
やはり、これが答えなのだ。
だが、完全に安心できる夜など、もう玻璃亭にはない。
閉店間際、最後の客が帰り、黒板を中へ入れようとした時だった。
階段の上から、ぱきり、と乾いた音がした。
恒一は動きを止めた。
澪がすぐに顔を上げる。
紗雪も、席から立ち上がった。
「……今の」
紗雪が言う。
恒一は黒板を置き、階段へ向かった。
塩皿だった。
階段の隅に置いていた小さな白い皿が、真ん中から割れていた。
粗塩が床にこぼれ、白い粒が散っている。
だが、それだけではない。
階段の壁。
冷蔵庫前。
店の奥。
目に見えない何かが、一度に近づいてくる気配があった。
温度が下がる。
さっきまで店を満たしていた熱の外側から、冷たい白が押し寄せようとしている。
澪が低く言った。
「最後に来た」
紗雪が、顔色を変えながらも、まっすぐ立っていた。
「今夜、ですのね」
恒一は、階段の割れた塩皿を見た。
白いものは、店の火が強くなる前に来ようとしている。
この店が本当に店として強くなりきる前に、最後に一度、通路へ戻そうとしている。
恒一は厨房へ戻った。
「澪」
「うん」
「火、落とすな」
「落とさない」
「紗雪さん」
「はい」
「席に座っていてください」
紗雪が一瞬、目を見開いた。
「逃げろ、ではなく?」
「ええ」
恒一は、はっきり言った。
「客が座っている限り、ここは店です」
紗雪は、息を呑んだ。
それから、静かに頷いた。
「……承知いたしましたわ」
恒一は、鍋へ火を入れ直した。
帰りの白。
帰りのあと。
角兎の鍋。
三つの火が、厨房で揺れた。
「今夜で終わらせる」
恒一は言った。
「ここは、通路じゃない」
澪が短く返す。
「店だよ」
紗雪が、カウンター席へ座った。
「ええ」
彼女は震える指でカップを持ち、それでも背筋を伸ばした。
「ここは、店ですわ」
白い気配が、扉の向こうで膨らんだ。
けれど玻璃亭の中には、まだ火があった。




