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『銀座の地下にある小さな店は、異世界で狩った食材でできている。祖父の遺したレストランを再建していたら、無口な狩り相棒と悪役令嬢みたいな常連お嬢様が今日も帰ってくれない』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第66話 紗雪の“機嫌のよい理由”

 火を一つだけ残して閉店するようになってから、玻璃亭の夜は少しだけ変わった。


 最後の客が帰り、黒板を中へ入れ、灯りを落としても、厨房の奥にはまだ小さな火がある。

 鍋の下で細く揺れる青い炎。

 湯気を立てるほどではない。

 けれど、完全に消えてはいない火。


 それだけで、店の空気は違った。


 終わった場所ではなく、休んでいる場所に見える。

 眠る前に、まだ少しだけ息をしている店。


 朝倉恒一は、閉店後のカウンターを拭きながら、その火を何度も見てしまっていた。


「また見てる」

 澪が言った。


 火乃坂澪は、冷蔵庫前の塩皿を片づけず、そのまま火の様子と床の気配を見比べている。

「火?」

「うん」

「見るだろ」

「見るのはいい」

「じゃあ何だよ」

「ちょっと感慨深そう」

「……そう見える?」

「かなり」

「便利な」

「今日は便利」


 恒一は苦笑した。


 たしかに、感慨深いのかもしれない。


 火を残す。

 塩を置く。

 床を拭く順を変える。

 導線を少しずらす。

 白の気配が強い日は森へ行かない。


 どれも派手な対策ではない。

 だが、それらが積み重なって、今の玻璃亭には“今の店の作法”が生まれ始めていた。


 祖父の帳面にない手順。

 自分たちで決めた、今の店のための作法。


 その重みは、静かだが確かだった。


 カウンター席には、東條院紗雪がまだ座っていた。


 今日は営業中、彼女はあまり多くを語らなかった。

 帰りの白を飲み、角兎の煮込みを少し食べ、途中で新しい皿の試作を一口だけ受け取り、あとはいつものように店の空気へ溶け込むように座っていた。


 ただ、その表情はいつもより柔らかかった。


 前に一度、彼女は「本日は機嫌がよろしいのです」と言った。

 それからずっと、その理由を言わないままだった。


 恒一は、忘れていたわけではない。

 けれど聞くタイミングを逃していた。


 そして今夜は、なぜかその話を聞ける気がした。


「紗雪さん」

 恒一が声をかける。

「はい」

 紗雪が顔を上げた。

「前に言ってたこと、聞いてもいいですか」

「前に?」

「機嫌がよかった理由」

「……!」


 紗雪の指先が、カップの持ち手でぴたりと止まった。


 澪がこちらを見る。

「それ、今聞くんだ」

「今なら聞けそうな気がして」

「かなり急」

「そうか?」

「でも、悪くない」

「何ですの、お二人とも」

 紗雪が少しだけ頬を赤くして言う。

「わたくしを置いて、勝手に話を進めないでくださいまし」

「すみません」

「謝られると、余計に困りますわ」


 そう言いながらも、紗雪は逃げなかった。


 以前なら、こういう話題になるとすぐに姿勢を正し、話を逸らしていた。

 けれど今夜の彼女は、少しだけ視線を落としたまま、カップの底を見つめている。


「……覚えておいででしたのね」

「うん」

「忘れてくださっても、よろしかったのに」

「忘れなかった」

「……そう」

「聞いちゃ駄目なら、聞かない」

「……」

 紗雪は小さく息を吐いた。

「駄目では、ありませんわ」

「じゃあ」

「ただ」

「うん」

「少し、言いにくいだけですの」


 その言い方が、いつもよりずっと素直だった。


 恒一は黙って待った。

 澪も、珍しく何も挟まなかった。


 小さな火が、厨房の奥で静かに揺れている。

 その火があるせいか、閉店後の店内なのに、冷えた沈黙にはならなかった。


「……あの日」

 紗雪がようやく口を開いた。

「はい」

「わたくしは、自分がこの店の夜の中に、少しだけ居場所を持てた気がしたのです」

「……」

「それが」

 彼女は少しだけ指を組み直す。

「機嫌がよかった理由ですわ」


 言葉は短かった。

 けれど、恒一にはすぐに意味が届いた。


 客として来る。

 帰りの白を飲む。

 祖父の家の情報を拾う。

 外の気配を見る。

 時には店の見せ方へ口を出す。


 そういうことが重なるうちに、紗雪は“ただの客”でも、“老紳士の孫娘”でもない何かとして、この店の夜に座り始めていた。


 それを、彼女自身も感じていたのだ。


「居場所」

 恒一が小さく繰り返す。

「ええ」

 紗雪は頷く。

「大げさな意味ではありませんの」

「うん」

「わたくしは、店員ではありませんし」

「うん」

「もちろん、火乃坂さんのように厨房へ立てるわけでもありません」

「……」

「けれど」

 彼女はカウンターの木目へ視線を落とす。

「この席に座っていてもよいのだと、少し思えたのです」

「……」

「この店の夜を、外から眺めているだけではなく」

「……」

「ほんの少しだけ、中に混ざっている気がした」

「……」


 澪が静かに言った。

「混ざってるよ」

「……」

 紗雪が顔を上げる。

「火乃坂さん」

「もうかなり」

「かなり、ですの?」

「うん」

「……」

「外の気配見るの、紗雪さんいないと無理だし」

「……」

「店の見せ方も、皿の言葉も」

「……」

「かなり入ってる」

「……」

「だから、今さら“少しだけ”って言われると」

 澪は少しだけ目を逸らす。

「ちょっと違う」


 紗雪は驚いたように澪を見ていた。


 澪がここまでまっすぐ言うのは珍しい。

 いや、まっすぐな人間ではある。

 ただ、言葉が短いぶん、こういう時は余計に重く届く。


「……そう」

 紗雪は小さく言った。

「そうですの」

「うん」

「……」

 彼女は少しだけ頬を染め、視線を落とした。

「それは」

「うん」

「かなり、困りますわね」

「何で」

 澪が訊く。

「うれしくなってしまいますもの」

「ならいいじゃん」

「よくありませんわ」

「何で」

「……そういうところですわ、火乃坂さんは」


 澪が首を傾げ、恒一は思わず笑いそうになった。


 その小さなやり取りが、今夜の店にとてもよく似合っていた。


 紗雪は、今度は恒一のほうを見た。

「あなたも」

「はい」

「そう思っていらっしゃいますの?」

「……」

「わたくしが、この店の夜に混ざっていると」


 その問いに、恒一は少しだけ息を整えた。


 軽く返してはいけない。

 けれど、重くしすぎてもいけない。

 今の紗雪が欲しいのは、特別扱いではなく、たぶん“ちゃんとそこにいる”と認められることだ。


「思ってます」

 恒一は言った。

「……」

「最初は、常連のお客さんでした」

「ええ」

「それも、かなり特別な」

「……」

「でも今は」

 彼はカウンターの奥、冷蔵庫前の塩皿と残した火を見た。

「この店を一緒に見てくれる人です」

「……」

「外から」

「……」

「客として」

「……」

「でも、ただ外にいるだけじゃなくて」

「……」

「この店の夜の一部として」


 紗雪は、すぐには何も言わなかった。


 代わりに、カップを両手で包む。

 中身はもうほとんど残っていない。

 けれど、その動作だけで、彼女が言葉を受け止めているのがわかった。


「……そういうふうに」

 紗雪が小さく言う。

「はい」

「真正面から仰るのは、反則ですわ」

「すみません」

「謝られるのも困ります」

「じゃあ、困ってください」

「……もう」


 彼女は少しだけ頬を赤くしたまま、目を逸らした。

 けれど、口元は小さく緩んでいた。


 じれったい。

 恒一は、自分でもそう思った。

 これが何の感情なのか、まだはっきり名をつけられるほどではない。

 けれど、紗雪がこの店の夜に座っていることを、自分はかなり自然に受け入れている。

 そして、その席が空くと、たぶん少し寂しいと思う。


 それだけは、もう否定できなかった。


「……でも」

 紗雪が、ふと真面目な声に戻る。

「はい」

「居場所ができたと感じたからこそ」

「……」

「怖くもありますの」

「怖い?」

「ええ」

「何が」

「失うのが」

「……」


 店内の空気が、少しだけ静かになる。


「以前なら」

 紗雪は言う。

「ただ、祖父が大切にしている店でした」

「……」

「少し懐かしくて、少し不思議で、帰りの白があって」

「……」

「けれど今は」

「……」

「わたくしにとっても、なくなると困る場所になってしまいましたの」

「……」

「ですから」

 彼女は顔を上げる。

「白いものも、見張る者たちも、余計に怖い」

「……」

「でも」

「……」

「怖いから離れる、という選択は、もうあまり考えられませんわ」


 その言葉は、静かだが強かった。


 帰りたい場所になったからこそ、失うのが怖い。

 そして怖いからこそ、離れられない。


 それは、今の玻璃亭に関わる三人全員に共通する感情かもしれなかった。


「……なら」

 恒一が言う。

「はい」

「怖いままで、いてください」

「……?」

「怖くないふりしなくていい」

「……」

「そのまま、ここにいてくれたらいい」

「……」

「もちろん、危ない時は引いてほしい」

「……」

「でも」

 恒一は少しだけ言葉を探した。

「この店の夜の一部でいることまで、やめなくていい」

「……」


 紗雪は、今度こそ本当に言葉を失ったようだった。


 澪も、少しだけ恒一を見る。

 からかう顔ではない。

 むしろ、少しだけ驚いたような、でも納得したような顔。


「……あなたは」

 紗雪がようやく言う。

「はい」

「本当に」

「……」

「時々、困ることを仰いますわね」

「すみません」

「謝らないでくださいまし」

「じゃあ」

「困っております」

「……」

「かなり」

「便利な」

「本日は」

 紗雪は少しだけ笑った。

「それも許しますわ」


 厨房の小さな火が、まだ消えずに揺れている。


 その火があるだけで、店の夜はまだ完全には終わらない。

 紗雪の席も、澪の立つ厨房も、恒一のカウンターも、すべてが同じ小さな熱の中にあった。


 白いものが近づいている。

 外には見張る者がいる。

 店を守る作法も、まだ仮のままだ。


 それでも今夜、紗雪は自分の居場所を少しだけ言葉にした。

 そして恒一は、それを否定しなかった。


 それだけで、玻璃亭の夜はまた少しだけ強くなった気がした。

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