第60話 火を入れる前に、塩を置く
料理店には、理由を説明しきれない手つきがある。
朝倉恒一は、祖父の店で育つ中で、そういうものをいくつも見てきた。
火を入れる前に鍋の縁を一度だけ拭う癖。
仕込み台へ包丁を置く向き。
白濁茸を扱う時だけ、なぜか少し離れた場所に塩皿を置くこと。
その時は意味を聞かなかった。
祖父も説明しなかった。
ただ、店にはそういう“理由を言わない作法”があるのだと思っていた。
だが最近は、その一つひとつが別の顔を持ち始めている。
店を整えること。
火の入り方を整えること。
床の空気を整えること。
そういう行為が、ただ料理のためだけではないかもしれないと、今の玻璃亭は少しずつ教え始めていた。
朝の厨房で、恒一は冷蔵庫の前を見ていた。
昨夜の確認で、白い痕跡そのものは消えていた。
だが、木の乾き方だけが変わっていた。
触れた場所の質が、ほんの少しだけ変わる。
白いものは、そういうふうに残るらしい。
だから今朝は、澪と二人で店の足元を整え直していた。
布は替えた。
昨日使った布はすべて分けて処理した。
導線も少しずらした。
そして今、火を入れる前の時間に、もう一つだけ試していることがあった。
「……どう?」
恒一が訊いた。
火乃坂澪は、冷蔵庫の前の床に小さな白い皿を置いたまま、少し離れた位置からそれを見ている。
皿の中には粗塩。
白濁茸の仕込みの時に使うものより、少し粒の大きい塩だ。
「まだわかんない」
澪が答える。
「置いてすぐ変化あるわけじゃないし」
「そりゃそうか」
「でも」
「でも?」
「昨日より空気が嫌じゃない」
「……」
その言い方は曖昧だった。
だが今の店に必要なのは、こういう曖昧な違和感を拾うことでもある。
「気のせいかもしれない」
澪が言う。
「うん」
「でも、塩置いたあとのほうが、冷蔵庫の前の“乾いた感じ”が少し薄い」
「……」
「見た目っていうより、立った時の感じ」
「……」
恒一も、位置を変えて立ってみる。
たしかに、昨夜から今朝にかけて感じていた、妙に冷たく乾いた張り方が、少しだけやわらいでいる気がする。
もちろん、気のせいかもしれない。
床を拭き直し、布を替え、導線もずらしたのだから、他の要因もある。
だが、“塩を置く”という手つきだけが、不自然なくここへ馴染んでいるのも事実だった。
「……じいちゃん」
恒一が小さく呟く。
「何」
澪が見る。
「昔、白濁茸触る時、塩皿よく置いてた」
「料理のためじゃなく?」
「その時は、そう思ってた」
「……」
「でも今思うと、あれも」
「作法?」
「だったのかも」
そこへ、足音がした。
少しだけ速く、けれどもうこの地下へ下りてくることに迷いのない足音。
東條院紗雪だ。
扉が開く。
「ご、ごきげんよう」
今日は淡い生成り色のワンピースに、細い灰青のリボン。
飾りは少ない。
だが、その控えめな整い方が今の玻璃亭によく似合う。
「いらっしゃいませ」
恒一が言う。
「ええ」
紗雪は頷き、今日はすぐに冷蔵庫の前の小皿へ目を留めた。
「……本日は」
「うん」
恒一が答える。
「塩ですのね」
「そこも気づくんだな」
「最近は」
紗雪は少しだけ得意げに言った。
「そのくらいなら」
「便利な」
「本日は使わせていただきますわ」
紗雪は近づきすぎない位置で足を止める。
もう彼女も、冷蔵庫の前の線については身体で覚え始めている。
「試しているんですの?」
「うん」
恒一が答える。
「昨日の床の件」
「ええ」
「白い痕跡は消えても、質が少し変わってた」
「……」
「それで、塩置いたらどうなるか見てる」
「……そう」
紗雪は床と塩皿を交互に見た。
「どうですの?」
彼女が訊く。
「まだ断定はできない」
澪が先に言う。
「でも」
「でも?」
「嫌な感じが、少しだけ薄い」
「……」
「感覚の話」
「それでも」
紗雪はすぐに言った。
「今の段階では、感覚を切るべきではありませんわ」
「……」
恒一が紗雪を見る。
「珍しいな」
「何が」
「そこまで即答するの」
「即答いたしますわ」
紗雪は静かに言った。
「祖父の家でも」
「……」
「“空気が変わった”を軽く扱う方は、おりませんもの」
その言い方に、妙な説得力があった。
見える変化が出る前に、空気の変化だけが先に来る。
今の白いものの寄り方は、まさにそういう類なのだろう。
「……ねえ」
澪が言った。
「何」
「塩、火と相性いい気がする」
「火?」
恒一が訊く。
「うん」
「どういう意味で」
「まだわかんない」
澪は冷蔵庫の前の皿を見たまま答える。
「でも、塩置いてる時って、店の火が入る前と後で感じ違うかも」
「……」
「営業してる時のほうが、ここ嫌じゃない気がする」
「……」
その一言で、恒一の頭に何かが繋がりかけた。
塩だけではない。
火だけでもない。
店として整っていることそのものと、白いものの寄り方に関係があるのではないか。
祖父が“店であること”にこだわった理由。
老紳士が“店である限り守る”と言った意味。
その輪郭が、ほんの少しだけ具体に寄ってくる。
「……じゃあ」
恒一が言う。
「うん」
澪が返す。
「今夜、ちゃんと見る」
「何を」
紗雪が訊く。
「塩置いた状態で」
「……」
「火を入れる前」
「……」
「営業中」
「……」
「閉店後」
「……」
「嫌な感じがどう変わるか」
「……」
「それ」
澪が小さく頷く。
「いい」
「かなり?」
「かなり」
紗雪も静かに言った。
「それは」
「うん」
「“白を寄せない店の作法”になり得ますわね」
「……」
「まだ仮ですけれど」
「うん」
「でも」
彼女は冷蔵庫の前の小皿を見る。
「火を入れる前に塩を置く、という手順は」
「……」
「いかにも、このお店らしいですわ」
その言葉に、恒一は少しだけ笑った。
たしかにそうだ。
大仰な儀式ではない。
特別な結界でもない。
ただ、料理店の朝に、小さな塩皿を一枚置くだけ。
それでも、その手つきが店を整え、白を寄せにくくするのだとしたら。
それは確かに、玻璃亭の作法と呼ぶにふさわしい。
「……じいちゃんの帳面にない手順」
恒一が小さく言う。
「うん」
澪が答える。
「でも、祖父さんの店の延長にはある」
「……」
「何ですの」
紗雪が問う。
「いや」
恒一はゆっくりと言った。
「今の店の手順、少しだけ見えた気がする」
「……」
「まだ仮だけど」
「ええ」
紗雪が頷く。
「それでよろしいのです」
「……」
「完成した正解ではなくても」
「……」
「今、この店で効く手順を持つことが大事ですもの」
その整理もまた、今の恒一に必要な言葉だった。
正解ではない。
ただ、今の店で効くかもしれない手順。
それを一つずつ作ることが、今の店主の仕事なのだろう。
その日の営業は、少しだけいつもと違った。
冷蔵庫の前の塩皿。
帰りの白の火。
客が座る前の静かな熱。
それらを意識しながら店を開けると、玻璃亭の空気そのものが少し整って感じられる。
気のせいかもしれない。
けれど、その“気のせい”を捨ててはいけないところまで、物語はもう来ていた。




