第59話 紗雪、道を変える
同じ場所へ向かう時、人はたいてい同じ道を選ぶ。
東條院紗雪も、これまではそうだった。
家を出て、いつもの車を断り、少しだけ手前で降ろしてもらう。
銀座の大通りを避け、一本裏へ入り、古いビルの並ぶ静かな通りへ回る。
そこから玻璃亭のある階段へ向かう。
その道は、もう半ば身体に馴染んでいた。
地下へ続く小さな店へ行くための、紗雪の中だけの静かな道だった。
けれど今の玻璃亭は、ただ“いつもの道で通うだけ”では守れない。
見張る者がいる。
店の前だけでなく、店へ来る客の流れも見ている気配がある。
白いものの気配は、店の床の近くまで寄ってきている。
そして、店の意味はこちらが決めるのだと、あの夜三人で確かめた。
ならば、自分の役目もまた変わる。
客として座るだけでなく、店の外側を読むこと。
どこで誰が見ているのか。
どの道が“店へ向かう線”として意識され始めているのか。
それを、自分の足で確かめなければならない。
その日の夕方、紗雪はいつもと違う場所で車を降りた。
いつもより一本向こう。
人通りの少ない裏道ではなく、少しだけ人の流れがある通りだ。
銀座らしい静かな華やぎが残る、ガラス張りの店と古い雑居ビルが混ざる区域。
「……」
深く息を吸う。
少しだけ緊張する。
ただ道を変えるだけだ。
それだけなのに、今日は妙に背筋が伸びる。
店へ向かう人間としてではなく、“店へ向かう道そのもの”を見に行く人間になった気がするからかもしれない。
まずは大通り寄りを歩く。
ガラス越しの明るい照明。
香水の匂い。
通り過ぎるスーツ姿の人々。
ここからでは、玻璃亭のある古いビルの入口はまだ見えない。
だが、店へ向かう客の流れがあるなら、このあたりからも拾えるはずだ。
紗雪は歩調を変えない。
目立たないように、しかし見逃さないように。
曲がり角を一つ折れたところで、ふと、見覚えのある横顔が目に入った。
見張りの男ではない。
常連でもない。
だが、“店へ来る人間”を見ている時の視線を持つ男だった。
年の頃は三十代後半くらい。
地味なジャケット。
手にはスマートフォン。
けれど画面はほとんど見ていない。
通りを行く人のうち、ある種類の人間だけを追っている。
「……」
紗雪は視線を逸らし、何も気づかなかった顔のまま歩く。
男の視線は自分には乗らなかった。
少なくとも、この位置では。
だが数歩進んだところで、背後にわずかな気配の動きを感じた。
ついてきているわけではない。
ただ、“誰がどちらへ曲がるか”を見ている。
店の前に立つだけではなく、客の流れを読もうとしている。
それが、想像よりもはっきりした。
さらに、今日はもう一つ試した。
いつもならそのまま玻璃亭のある通りへ入るところを、一度だけ別の路地へ逸れる。
雑貨店の前で立ち止まり、ショーウィンドウを見るふりをする。
それから、ほんの少し時間を置いてから、また方向を変える。
その一連の動きの中で、さっきの男はついてこなかった。
だが、別の位置へいたもう一人が、わずかに顔を上げた。
「……」
紗雪は心の中で、静かに形を掴む。
店の前を見ている人間。
通りの流れを見ている人間。
そして、そこから店へ向かう“客の選別”をし始めている人間。
つまり向こうは、玻璃亭そのものだけでなく、店へやってくる人の輪郭を削ろうとしている。
誰が常連か。
誰がただの客か。
誰が関係者に近いか。
そういうものを、少しずつ分け始めている。
それは、かなり嫌だった。
店を潰すというのは、必ずしも建物を壊すことではない。
客の流れを濁し、“ここへ来るのは少し面倒だ”と思わせていくだけでも、十分に店の意味は削れる。
紗雪はそのまま、予定より少し遠回りをして玻璃亭へ向かった。
階段の前へ出る。
いつもと同じ古いビル。
同じ地下への入口。
同じように見えて、今はそこへ伸びる人の線まで誰かが見ている。
それを思うと、今日はこの数段の階段が少しだけ違って感じられた。
扉を開ける。
「ご、ごきげんよう」
恒一と澪が、ほとんど同時にこちらを見た。
「いらっしゃいませ」
恒一が言う。
「ええ」
紗雪は頷いたが、すぐには席へ向かわなかった。
「……何かありましたか」
恒一がすぐに気づく。
「ええ」
紗雪は言う。
「本日は、先に申し上げますわ」
「うん」
「道を変えてまいりましたの」
「……」
澪が、ぱっと表情を変える。
「どこまで」
彼女が訊く。
「大通り寄りから、一つ外して」
「うん」
「そのあと、いつもと違う路地を使いましたわ」
「……」
「で?」
恒一が低く訊く。
「見ております」
紗雪は静かに言った。
「店の前だけではなく」
「……」
「店へ向かう客の流れも」
店の空気が、一段沈む。
やはりそうだ。
予想していたことではある。
だが、紗雪が実際に道を変えて見てきた情報として聞くと、重さが違う。
「二人?」
澪が訊く。
「少なくとも」
「連携してた?」
「そこまでは断言できませんわ」
紗雪は慎重に答える。
「ですが、一人は通りの流れを」
「……」
「もう一人は、路地へ入る人間を見ているようでしたの」
「……」
「つまり」
恒一が整理するように言う。
「店へ来る客の線を、薄くでも取り始めてる」
「ええ」
紗雪は頷いた。
「そのように見えましたわ」
そこへ澪が小さく舌打ちした。
「嫌だな」
「うん」
恒一も答える。
「かなり」
「何ですの」
紗雪が少しだけ目を細める。
「いや」
澪はすぐに言い直す。
「紗雪さんが悪いんじゃない」
「わかっておりますわ」
「でも、店の前だけより嫌」
「……」
「客が来る線まで見てるってことは」
「うん」
「店そのものより、“店を店にしてる流れ”を削りたいってことかもしれない」
「……」
その解釈は、かなりしっくりきた。
店とは、建物だけではない。
ここへ来る人。
戻ってくる客。
今日は寄ってみようと思う気分。
そういう流れ全部で店になる。
向こうは、それを見ている。
ならば、狙っているのもそこだ。
「……本当に」
紗雪が静かに言う。
「ええ」
恒一が答える。
「店を店でなくす気ですのね」
「……そうかもしれない」
「通路にしたいだけなら」
紗雪は少しだけ顎を上げる。
「客の流れなど気にする必要はありませんもの」
「……」
「ですが、客の線まで見ているということは」
「……」
「“ここへ人が来る意味”を削れば、店として弱ると考えている」
「……」
まったくその通りだった。
建物を壊さなくても、店の意味は薄くできる。
客が来づらくなれば、常連が減れば、新規が途切れれば、玻璃亭は“ただの古い地下”へ近づいてしまう。
それだけは、絶対に許せなかった。
「……ありがとう」
恒一が言う。
「ですから」
紗雪はいつものように少しだけ睨む。
「そうやってすぐに礼を仰るのは困ると」
「でも、これはかなり大事だった」
「……そう」
「かなり」
「……かなり、ですのね」
「うん」
そのやり取りを聞きながらも、澪はもう次を考えている顔だった。
「じゃあ」
彼女が言う。
「うん」
「今後、紗雪さんの来店ルート、固定しないほうがいい」
「……」
「毎回少しずつ変える」
「そうですわね」
紗雪もすぐに頷く。
「ええ」
「あと」
澪が続ける。
「“来そうな客”にも自然に分散してもらう」
「分散?」
恒一が訊く。
「うん。来やすい日を少しずつ散らす」
「……」
「一日だけに集中させない」
「なるほど」
「向こうが客の線を読みたいなら」
澪は言う。
「こっちは線をぼかす」
「……」
それもまた、店の側からの一手だった。
常連に愛される店であることはそのままに。
けれど、読まれやすい流れにはしない。
店の正面を強くしながら、外側の線は少しずつ散らす。
「……おもしろいですわね」
紗雪がふと呟いた。
「何が」
恒一が訊く。
「お店というものは」
彼女は静かに言う。
「ただ良い皿を出せば足りるわけではありませんのね」
「……」
「客の座り方も」
「……」
「来る道も」
「……」
「帰る夜の流れも、全部ひっくるめてお店になる」
「……そうだな」
それは、今の玻璃亭が身をもって知っていることだった。
帰りの白の味。
角兎の煮込みの湯気。
新しい皿の余韻。
そして、ここへ来るまでの道筋。
全部がこの店の意味の一部になっている。
ならば、守るべきものもまた皿だけではない。
店へ来る線。
戻ってくる理由。
その全部だ。
紗雪は席へ着く前に、少しだけ笑った。
「本日は」
彼女が言う。
「うん」
「外側担当として、少しは仕事をいたしましたわね」
「かなり」
恒一が答える。
「かなり、ですのね」
「うん」
「……でしたら」
彼女はわずかに頬を染めながらも、いつもの調子で言う。
「本日は、その言葉を許しますわ」
その許し方も、もうだいぶ玻璃亭の夜らしくなっていた。




