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『銀座の地下にある小さな店は、異世界で狩った食材でできている。祖父の遺したレストランを再建していたら、無口な狩り相棒と悪役令嬢みたいな常連お嬢様が今日も帰ってくれない』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第58話 名もなき皿に、まだ座らせる

 店の未来は、だいたい名前のつく前に始まっている。


 朝倉恒一は、営業前の厨房で、まだ名もない皿を前にしながらそんなことを思っていた。


 帰りの白は、もう名前と一緒に店へ根を下ろしている。

 あの白い湯気は、今では玻璃亭の夜を語る時に外せない。

 けれど、その次の皿はまだ違う。


 皿としての形は見えている。

 反応も悪くない。

 むしろ、かなりいい。

 常連は“また食べたい”と言い、紗雪は“帰りの白のあと”だと言った。

 それでも恒一は、まだ名前を与えていなかった。


 理由は単純だ。


 名をつけるということは、その皿を逃げられない場所へ置くということだからだ。

 “今夜だけよかった試作”ではなく、玻璃亭の未来として、ちゃんと背負うことになる。


 だからもう少しだけ、客の中でどう座るのかを見たい。

 店の中でどう息をするのかを見たい。


「……今日も考えすぎ」

 澪が言った。


 火乃坂澪は、パンを薄く切り分けながら、こちらをちらりと見ている。

「最近そればっかりだな」

 恒一が返す。

「最近ほんとそうだから」

「今日は皿のことだぞ」

「知ってる」

「じゃあいいだろ」

「よくない」

「何で」

「皿に名前つけるの怖がってる顔してる」

「……」

「図星」

「容赦ないな」

「事実だから」

「便利な」

「今日はかなり使う」


 その返しに、恒一は少しだけ笑った。


 たしかに怖がっている。

 それは認めるしかない。


 新しい皿が育ってきている。

 だからこそ、名をつけてしまったあとに“まだ違った”となるのが怖い。

 帰りの白ほど静かではなく、角兎の煮込みほどわかりやすくもない。

 その中間にある、この店らしい少しだけ偏った一皿。

 その輪郭を、もう少しだけ客の側へ預けてみたいと思っていた。


「今日は」

 澪が言う。

「うん」

「また出す?」

「出す」

「誰に」

「昨日と違う人」

「うん」

「常連の中でも、帰りの白が“定着してる人”」

「……悪くない」

「あと」

「うん」

「一人だけ、新規にも出すか迷ってる」

「……」

「何」

「それは半分賛成」

「半分?」

「店の続きに見えるかどうかって、何も知らない客にも一回見たい」

「……」

「でも」

「でも?」

「今夜は空気選ぶ」

「……そうだな」


 そこへ、足音がした。


 少しだけ速く、けれどもうこの地下へ下りてくること自体に迷いのない足音。

 東條院紗雪だ。


 扉が開く。


「ご、ごきげんよう」


 今日は淡い薄墨色に、ほんのり紫が混じったようなワンピースだった。落ち着いているのに、この店の灯りの中だと妙に柔らかく見える。

 紗雪は一歩入ったところで、二人の顔を見て、すぐにわかった顔をした。


「……本日は」

 彼女が言う。

「うん」

 恒一が答える。

「まだ、名をつけておりませんのね」

「そこまでわかるのか」

「最近は」

 紗雪は少しだけ得意げに言う。

「そのくらいなら」

「便利な」

「本日は使わせていただきますわ」


 そのやり取りも、だいぶ店の呼吸になってきていた。


 紗雪は席へ着く前に、少しだけ厨房の皿を見た。

「本日も、味見ですの?」

「うん」

 恒一が答える。

「でも」

「でも?」

「今日は、もう少し“客として”見てほしい」

「……」

 紗雪は目を瞬いた。

「客として」

「うん」

「どういう意味ですの」

「味見役じゃなくて」

 恒一は言葉を選ぶ。

「この店に帰ってくる客として」

「……」

「この皿が、どう座るか」

「……」


 紗雪は少しだけ黙った。


 それは、単なる味の感想よりも、少し深い立場を求める言い方だったのかもしれない。

 ただ正しいかどうかではなく、この店の中でどう感じるか。

 その位置からの言葉を、恒一は欲しかった。


「……それは」

 紗雪が小さく言う。

「うん」

「かなり、うれしい頼まれ方ですわね」

「……」

「何ですの」

「いや」

 恒一は少しだけ困ったように笑う。

「そこまで言われると思ってなかった」

「本当ですもの」

 紗雪は静かに答える。

「ですから」

「うん」

「本日は、客として座って差し上げますわ」

「命令みたいだな」

 澪が横から言う。

「これは助言ですわ」

「便利な」

「本日は全部便利ですの」


 営業が始まる。


 最初の客は、以前から静かに通ってくれている女性だった。

 帰りの白を最初に気に入り、そのあと角兎の煮込みも頼むようになった人。

 店の中の変化を大きな言葉にしないが、ちゃんと見ているタイプだ。


 その次に、前から時々来ている夫婦。

 そして遅れて、一人の新規客。

 三十代前半くらいの女性で、黒板を見て少し迷ってから席へ着いた。

 “地下の良い店を偶然見つけたらうれしい”という感じの顔をしている。

 今夜、新しい皿を出す新規客がいるなら、この人だろうと恒一は思った。


 店がひと呼吸ついたところで、恒一はまず例の女性常連へ、新しい皿を出した。


「こちら、まだ小さく試している皿です」

 恒一が言う。

「まあ」

 女性は少し目を細めた。

「今日はそういう日なのね」

「よければ」

「もちろん」


 帰りの白のあとに、その皿が置かれる。

 女性はすぐには口をつけず、一度だけ皿全体を見た。

 それからスプーンを取り、ひと口。

 続けて、薄いパンと一緒にもうひと口。


「……」

「どうですか」

 恒一が訊くと、女性は少しだけ考えてから言った。

「これ」

「はい」

「白のあとに出ると、ちょうど“帰ってきたあとの夜”になるわね」

「……」

「何ていうのかしら」

 彼女は小さく笑う。

「もう一杯だけ、ゆっくり座っていたくなる感じ」

「……」


 また、その系統の言葉だ。


 帰りの白が、客の中で“戻ってくるための皿”として定着し始めているからこそ、その次に来るこの皿もまた、“戻ったあとの夜”として認識されている。


 それはたしかに、この店の未来になりうる。


 次に夫婦客へ。


 夫のほうが一口食べて、すぐに妻へ小さく皿を寄せた。

 それだけでかなり良い反応だ。

 二人で一皿を分けるのに慣れている客ほど、“また頼みたいかどうか”が動作に出る。


「これ、好きだな」

 夫が言う。

「……」

「白とは別に、次来た時も気になる」

「……」

「でも」

 妻が続ける。

「まだ名前がないの?」

「はい」

 恒一が答える。

「そう」

 妻は少しだけ笑った。

「まだ“呼びにくい好き”なのね」


 その表現が、妙に残った。


 呼びにくい好き。

 まだ名がないからこそ、客の中で少しだけ宙に浮いている。

 けれど、それでも“好き”はもう確かに生まれている。


 そして、問題の新規客。


 恒一は少しだけ迷ったが、出した。


「もしよろしければ」

 彼は言う。

「はい?」

「小さく試している皿がありまして」

「……」

 女性客は少し驚いたが、すぐに表情をやわらげた。

「そんなの、うれしいですね」

「ありがとうございます」

「ぜひ」


 この人は、正解だった。


 “特別扱い”に酔う顔ではなく、“この店の今に少しだけ混ざれる”ことを素直に喜ぶ顔だった。


 帰りの白のあとに置く。

 彼女は少しだけ慎重に口へ運び、静かに飲み込んだ。


「……あ」

 その一音は、小さかったが本物だった。


「どうですか」

 恒一が訊く。

「これ」

 女性客は少しだけ目を細める。

「初めて来たのに、変な言い方かもしれないけど」

「はい」

「このお店の“次”って感じがします」

「……」

「白いのが、ここへ入る理由になるなら」

「……」

「こっちは、また来る理由になる感じ」

「……」


 その言葉は、完全に新規の側からの答えだった。


 帰りの白は、知らない客にとっても“入る理由”になれる。

 そしてこの皿は、“また来る理由”になれる。

 それなら、この皿は常連向けの内輪の続きではなく、店の未来そのものとして立てる。


 営業が終わる頃には、恒一の中の迷いはだいぶ削れていた。


 名をつける前に、客の中でどう座るか。

 それを確かめたかった。

 そして今夜、その感触はかなりはっきりした。


 閉店後、三人はいつものように少しだけ店へ残った。


「……どう?」

 澪が先に訊く。

「かなり」

 恒一が答える。

「うん」

「もう“試作の良い皿”ではない」

「……」

「何ですの」

 紗雪が静かに言う。

「いや」

 恒一は息を吐く。

「客の中で、ちゃんと座り始めてる」

「……」

「名前がなくても」

「ええ」

 紗雪が頷く。

「本日、それはよくわかりましたわ」

「……」

「新しい方ですら、“また来る理由”と仰ったでしょう?」

「うん」

「でしたら」

 紗雪は静かに続ける。

「もうこの皿は、“店の内輪の続き”ではありませんの」

「……」

「今の玻璃亭の、未来側ですわ」


 未来側。


 その言い方が、あまりにこの皿にしっくりきた。


 帰りの白が、今ここへ戻るための灯なら。

 この皿は、その先へ座り続けるための未来側。


「……名」

 恒一が小さく言う。

「うん」

 澪が答える。

「そろそろ?」

「うん」

「逃げられませんわね」

 紗雪も静かに言う。

「……」

「何ですの」

「いや」

 恒一は少しだけ笑った。

「二人とも、容赦ないなって」

「必要だから」

「便利な」

「今日はかなり便利ですわ」


 小さく笑いが落ちる。


 だが、笑ったあとにも残るのは、やはり次の重さだった。


 名もなき皿は、もう皿のままではいられない。

 客の中に座り始めてしまったからだ。

 次は、それへちゃんと名を与えなければならない。

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