第57話 祖父の帳面にない手順
残されていないことにも、意味があるのかもしれない。
朝倉恒一は、営業前の薄い静けさの中で、祖父の帳面を何度も読み返しながら、そんなことを考えていた。
レシピ帳。
印の帳面。
どちらにも、祖父の手が残っている。
白濁茸の火の入れ方。
角兎の腹側の使い方。
風の夜は開けるな。
白の気配強し。
店側へ寄るな。
どの言葉も短い。
どの言葉も、祖父らしい。
だが今、玻璃亭に起きていることのすべてに対して、具体的な手順が並んでいるわけではなかった。
昨日見つけた、冷蔵庫の前の床の変質。
白いものは見える形を失っても、触れた場所へわずかな変化を残す。
その気づきは大きかった。
けれど、帳面のどこにも「白が床へ触れた時はこうしろ」というような、直接の答えはない。
つまり祖父は、そこまでをわざわざ残さなかったのか。
それとも、残せなかったのか。
あるいは、その時その時で別のやり方を選んでいたのか。
「……また、睨んでる」
澪の声がした。
火乃坂澪は、パンの仕込みをしながら、帳面へ視線を落としたままの恒一を見ていた。
「睨んでるつもりない」
恒一が答える。
「でも睨んでる」
「そんなに?」
「かなり」
「便利な」
「今日は使う」
最近、このやり取りだけで少し呼吸が整う。
恒一は帳面を閉じずに、少しだけ体を起こした。
「……やっぱり、ない」
「何が」
澪が訊く。
「今の状況の“手順”」
「うん」
「白い気配が店側へ来た時、どう床を守るかとか」
「うん」
「冷蔵庫前をどうするかとか」
「うん」
「そういうの、具体的には残ってない」
「……」
澪は少し考えるようにパン生地へ視線を落とした。
「祖父さんなら」
「うん」
「書かなかったんじゃなくて」
「……」
「決まり切ったやり方がなかったのかも」
「……」
「毎回、ちょっと違ったとか」
「……それはありそう」
「だって」
澪が言う。
「白いものって、たぶん固定の“敵”じゃない」
「うん」
「寄り方も違うし、残り方も違う」
「うん」
「なら、同じ手順だけじゃ足りない」
「……」
それは、かなり腑に落ちる考え方だった。
祖父はすべてを言葉にする人ではなかった。
だが同時に、毎回違う危うさに対して、その都度店の側を整え直していたのかもしれない。
つまり、今の自分が探している“完成した手順”は、最初から存在しない可能性がある。
「……じゃあ」
恒一が言う。
「うん」
「今の店の手順は、今の店で作るしかないか」
「そうだと思う」
澪は即答した。
「……」
「何」
「いや」
恒一は少し苦笑する。
「最近、お前のそういう即答がありがたいなって」
「必要だから」
「便利な」
「かなり便利」
そこへ、足音がした。
少しだけ速く、けれどもうこの店へ来ることに迷いのない足音。
東條院紗雪だ。
扉が開く。
「ご、ごきげんよう」
今日は淡い藤鼠色のワンピース。
静かな色合いなのに、この店へ入るとその人の輪郭だけがやわらかく浮く。
最近の紗雪は、その“浮き方”がだいぶ玻璃亭に馴染んできていた。
「いらっしゃいませ」
恒一が言う。
「ええ」
紗雪は頷き、すぐに恒一の手元を見る。
「本日は、また帳面ですのね」
「うん」
「……何か」
彼女は少しだけ目を細める。
「欲しい答えが、書かれておりませんの?」
「……」
「そのお顔は、当たりですわね」
「最近ほんとに読まれるな」
「最近は」
紗雪は少しだけ得意げに言った。
「そのくらいなら」
席へ着く前に、彼女は少しだけ近づいて帳面を見る。
「具体的な手順がない」
恒一が言った。
「手順?」
「うん」
「白い気配が床まで来た時に、祖父さんがどうしてたか」
「……」
「帳面には、警戒の言葉はある」
「ええ」
「でも、“こうしろ”までは書いてない」
「……そう」
紗雪は、帳面を見下ろしたまましばらく黙っていた。
それから、静かに言う。
「お祖父様は」
「うん」
「手順を残さなかったのではなく」
「……」
「“手順にしてしまわなかった”のかもしれませんわ」
「……」
恒一と澪が、ほとんど同時にそちらを見る。
「どういう意味?」
澪が訊く。
「家でも」
紗雪は言葉を選ぶ。
「祖父は、形だけ整った作法をあまり信用しておりませんでしたの」
「……」
「毎回同じように見えても、空気が違えば、手も変えなさい、と」
「……」
「ですから」
彼女は帳面の表紙へそっと視線を落とす。
「祖父が残したのは、“考え方”だけなのではなくて?」
「……」
「火の外も見て、ようやく火が守れる、とか」
「……」
「店である限り守る、とか」
「……」
その整理は、あまりに祖父らしかった。
具体的なやり方ではなく、判断の軸だけを残す。
そして、その先はその時の店主が考える。
もしそうなら。
今、自分が帳面の中に“答え”を探していたこと自体が、少しずれていたのかもしれない。
「……」
恒一はゆっくり息を吐いた。
「たぶん、そうだ」
「うん」
澪が頷く。
「祖父さん、そういうタイプ」
「ええ」
紗雪も小さく頷いた。
「でしたら」
「……」
「今の店の手順を、今の店主が作るしかありませんわ」
その言葉に、恒一はしばらく何も返せなかった。
今の店の手順。
それはつまり、祖父の跡をなぞるだけではないということだ。
今の森。
今の白いもの。
今の見張り。
今の客。
今の澪と紗雪。
その全部を含めた“今の玻璃亭の作法”を、自分が決めなければならない。
「……重いな」
恒一が言う。
「そうですわね」
紗雪が静かに答える。
「かなり」
「便利な」
「本日は、あえて使いますの」
「最近ほんと自在だな」
「客ですもの」
「そこへ戻るんだな」
「便利ですわ」
少しだけ空気がほどける。
だが、話の芯は変わらない。
帳面に答えはない。
だからこそ、自分が作るしかない。
「……じゃあ」
澪が言った。
「うん」
「まずは、昨日の床の件」
「うん」
「“白が消えたかどうか”じゃなくて、“触れた場所がどう変わったか”まで見る」
「……」
「それを、今後の確認手順の一個目にする」
「……そうだな」
「あと」
澪は続ける。
「冷蔵庫前の塩皿」
「うん」
「布の交換」
「うん」
「導線をずらす」
「うん」
「それも手順」
「……」
紗雪もすぐに加わる。
「外側も、同じですわ」
「外側?」
恒一が訊く。
「ええ」
彼女は頷く。
「店へ来るまでの道で、誰がどこを見ているか」
「……」
「“店の前にいるか”だけではなく」
「……」
「“店へ来る客の流れ”を追っているかどうか」
「……」
「それを毎回見るようにする」
「……」
たしかに、それも店を守るための手順だった。
森の側だけではない。
店の中だけでもない。
外の動線もまた、今の玻璃亭には作法として必要になる。
「……」
恒一は帳面を閉じた。
「何」
澪が見る。
「やるしかないな」
「うん」
「祖父の帳面を読むのは続ける」
「うん」
「でも、今の店の手順は今の店で作る」
「……」
「俺が」
「……」
「店主として」
その言葉は、少し前より自然に口から出た。
店主のふりではなく。
継承者の顔だけでもなく。
今の玻璃亭に必要な作法を作る人間として。
「……よろしいですわね」
紗雪が静かに言った。
「何が」
「今のそのお顔です」
「……」
「帳面の中にしか答えがないと思っている時より」
「……」
「ずっと、前を向いていらっしゃいますもの」
「……」
「それは」
澪も小さく言う。
「うん」
「かなり店主」
その評価は、思った以上に効いた。
答えは残っていない。
だが、軸はある。
ならば、その軸を持って今の手順を作ればいい。
祖父の帳面にない手順。
それを作ること自体が、たぶん今の店主の仕事なのだ。




