第54話 金曜の席順
店の空気は、料理だけで決まるわけではない。
朝倉恒一は、金曜の営業前、予約帳と店内の席配置を見比べながら、その当たり前のことを何度目かで実感していた。
帰りの白。
角兎の煮込み。
新しい皿。
どれも大事だ。
だが今夜に限っては、皿そのものと同じくらい、誰がどこへ座るかが重要だった。
店の前を見張る者がいる。
地下への階段を“店の入口”ではなく“下へ続く通路”として見ている視線がある。
そして一方で、白いものの気配は、店の床の近くまで寄ってきていた。
だからこそ、今夜は店の側から輪郭を取る。
ここは、ただの穴でも、裏口でも、通路でもない。
人が座り、食べ、また戻ってくる、普通の良い店だと。
それを、店の中の呼吸ごと見せる夜だった。
営業前の玻璃亭は、いつもより少しだけ張っていた。
黒板はすでに出してある。
本日のおすすめ
角兎の赤ワイン煮込み
帰りの白
季節の小皿あり
“新しい皿”の名前は、まだ書かない。
今夜はあくまで、声をかけられた客へ、自然な流れで小さく出す。
知らない者にとっては、いつもより少し賑わっていて、少しだけ空気の良い地下店。
それでいい。
いや、それがよかった。
「……何回見るの」
澪が言った。
火乃坂澪は、パン籠を整えながら、予約帳を何度も見返す恒一へ呆れた視線を向けている。
「席順」
恒一が答える。
「見ればわかる」
「大事なんだよ」
「知ってる」
「じゃあ」
「見すぎ」
「……」
「顔、ちょっと戻ってる」
「戻ってる?」
「“考えすぎて空回る店主”の顔」
「ひどいな」
「事実だから」
「便利な」
「今日はかなり使う」
その返しに、恒一は小さく息を吐いた。
たしかに少し力みすぎていた。
今夜は常連が三組。
帰りの白をよく頼む会社員の男性。
角兎を分け合う夫婦。
以前から静かに通ってくれている女性客。
そこへ、初見の二人組が一組入る見込み。
そして、東條院紗雪も来る。
この混ざり方が重要だった。
常連だけで固まりすぎれば、秘密の店めく。
新規ばかりなら、店の芯が薄く見える。
“戻ってくる人がいて、その中へ新しい人が自然に混ざる”夜。それを作らなければならない。
「……お前」
恒一が言った。
「何」
「今日、森のほうは」
「見ない」
「完全に?」
「完全に」
澪はきっぱり答える。
「今夜は店」
「……」
「白が寄ってきてるからこそ」
「うん」
「今夜だけは、絶対そっちへ引っ張られない」
「……そうだな」
その言葉が、かなりありがたかった。
今夜の店の意味を強くする。
それが、こちらから打つ一手なのだから。
そこへ、足音がした。
少しだけ速く、けれどもうためらいなくこの地下へ下りてくる足音。
東條院紗雪だ。
扉が開く。
「ご、ごきげんよう」
今日は淡い乳白色に近いワンピースに、細い藤色の帯のようなベルト。派手ではない。だが、今夜の店の灯りの中で、そのやわらかな色がちょうどよく浮かび上がる。
紗雪は一歩入ると、すぐに店内を見た。
黒板。
水差し。
席の間隔。
そして、恒一の顔。
「いらっしゃいませ」
恒一が言う。
「ええ」
紗雪は小さく頷いた。
「本日は」
「うん」
「かなり、“決めた夜”のお顔ですわね」
「そこまで出てる?」
「かなり」
「最近ほんと容赦ないな」
「必要ですもの」
「便利な」
「本日は、解禁ですわ」
今日は言葉の応酬さえ、少しだけ景気づけに近い。
「少し早いですね」
恒一が言う。
「ええ」
紗雪は席へ着く前に答えた。
「本日は、“いつもの客が少し長くいる”役目ですもの」
「……ちゃんと覚えてるな」
「当然ですわ」
紗雪は少しだけ顎を上げた。
「そのためには、最初から馴染んでいなければなりませんでしょう?」
「かなり店の人みたいだな」
澪がぼそりと言う。
「客ですわ」
紗雪が即答する。
「便利な」
「それは本日許しますの」
「今日はほんと機嫌いいな」
「本日は」
紗雪は少しだけ目を細めた。
「お店が前へ進む夜ですもの」
その言い方に、恒一の背筋が少しだけ伸びた。
そうだ。
今夜は、危険に怯えるだけの夜ではない。
店が前へ進む夜だ。
開店する。
最初に入ってきたのは、予定通り、会社員の常連だった。
「こんばんは」
「こんばんは」
恒一が迎える。
「今日は来やすい日って言われたから」
男性が笑う。
「素直に来てみた」
「ありがとうございます」
「なんか、いいことありそうじゃない?」
「どうでしょう」
「その顔、あるな」
「……」
その何気ないやり取りが、今夜はひどくありがたい。
次に夫婦客。
そのあと、初見の若い二人組。
最後に、以前から静かに通ってくれている女性客。
店は満席ではない。
だが、ちょうどいい密度だった。
常連の空気が先にあり、その中へ新規が自然に混ざっていく。誰かが特別な顔をしているわけではなく、それぞれがそれぞれの理由で席へ着いている。
それが、まさに欲しかった輪郭だった。
「……」
恒一は、ワインを注ぎながら、入口の外を一度だけ見た。
いた。
向かいのビルの影に、あの男が立っている。
今日は入ってこない。
だが、見ている。
そして、今日の店の中の混ざり方もまた、見ているはずだ。
「いる?」
澪が小声で訊く。
「うん」
「……」
「でも今日は、見させとく」
「うん」
「この店が、どういう夜を持てるか」
「……そうだね」
料理が流れていく。
帰りの白。
角兎の煮込み。
パン。
ワイン。
どの皿も、今夜はいつもより少しだけ“店の輪郭そのもの”みたいに見えた。
紗雪は、今日は本当に“いつもの客”として自然に座っていた。
帰りの白を飲み、時々店内の空気を見て、けれど必要以上には口を挟まない。
その存在の仕方が、今夜の玻璃亭にはちょうどよかった。
そして、店の流れがひと呼吸ついたところで、恒一は新しい皿を出し始めた。
まずは、会社員の常連へ。
「……これは?」
男性が目を瞬く。
「まだ名前のない皿です」
恒一が言う。
「よければ、少しだけ」
「おお」
男性は嬉しそうに笑った。
「そういうの、好きなんだよね」
次に、夫婦客の片方へ。
そして、紗雪へも。
初見の二人組には出さない。
今夜はまだ、“店の続き”を知っている人へだけだ。
常連の男性は、ひと口食べて、すぐには何も言わなかった。
帰りの白のあとに置かれたこの皿が、ちゃんと“次”になっているかを、体で確かめているような顔だった。
やがて、静かに言う。
「……これ」
「はい」
「白のあとに来ると、すごく落ち着くね」
「……」
「さっきまで“戻ってきたな”って感じだったのが」
「……」
「今度は“もうちょっとここにいたい”になる」
「……」
その言葉で、恒一はようやく少しだけ息をつけた。
夫婦客も、女性客も、反応は悪くない。
大きな驚きではない。
だが、明らかに“もう一度食べたい”の側に寄っている。
紗雪は、少し遅れて言った。
「本日は」
「はい」
「この皿が、かなりしっくり来ておりますわ」
「どういう意味で」
「帰りの白だけですと」
紗雪は静かに言う。
「このお店は、美しい記憶のまま終わってしまう気もいたしますの」
「……」
「ですが、この皿があると」
「……」
「ちゃんと“今の店の夜”になりますわ」
「……」
「何ですの」
「いや」
恒一は少しだけ笑う。
「今日のそれ、かなりうれしい」
「そう」
紗雪は少しだけ頬を染めた。
「では、本日は役に立っておりますわね」
「かなり」
「……最近それ、お好きですのね」
「便利だから」
「盗らないでくださいまし」
そのやり取りに、小さく笑いが落ちる。
そしてその笑いが、今夜の店をただの演出ではなく、本当に人のいる店にしていた。
閉店後。
最後の客を見送り、扉を閉め、店の灯りを少し落としたあと。
恒一は一度だけ外を見た。
見張りの男は、もういなかった。
「……帰った」
恒一が言う。
「早かったね」
澪が答える。
「途中で?」
「たぶん」
「……」
「何」
「いや」
恒一は静かに息を吐いた。
「見せられた気がする」
「うん」
澪も頷く。
「今日の店」
「……」
「ただの地下の入口じゃなくて」
「うん」
「ちゃんと、夜を持ってる店だって」
「……そうだな」
紗雪も、席を立つ前に小さく言った。
「本日は」
「うん」
「かなり、よろしい夜でしたわ」
「……」
「何ですの」
「いや」
恒一は少しだけ目を伏せた。
「これが一手になってるなら、よかった」
「なっておりますわ」
紗雪は静かに言う。
「少なくとも、店の中の意味は、今夜こちら側が決めましたもの」
「……」
その言葉は、今夜のすべてを言い表していた。
白いものが寄ってくる。
見張りはいる。
危険は消えていない。
それでも、店の意味だけは、こちらが決める。
その一手を、今夜ようやく打てたのだ。




