第53話 白は、床まで来ていた
危険が本当に怖いのは、まだ大丈夫だと思っていた線を、ある日静かに越えている時だ。
朝倉恒一は、厨房の床の隅に落ちた白い粉のようなものを見つめながら、そのことを嫌というほど実感していた。
冷蔵庫の前。
石段の入口までは、まだ少し距離がある。
つまりそこは、もう“森の手前”ではなく、明確に“店の中”だった。
そこへ、白が来ている。
「触るな」
火乃坂澪がもう一度言った。
さっきより低い声だった。
怒っているのではない。
完全に危険を見ている時の声だ。
「……うん」
恒一はしゃがみかけた姿勢を止め、そのまま一歩だけ下がった。
白い粉は、白濁茸の胞子にも見えた。
だが違う。
光り方が、というより、光の死に方が違う。
白濁茸の白は、暗がりの中でも柔らかい。
けれど今、床に落ちているそれは、冷たく乾いていて、わずかに鈍い。
「匂い」
澪が言う。
「……」
恒一は鼻を澄ませた。
ある。
ごく薄い。
あの、第二入口の向こうで感じた冷たい匂い。
薬品に似ているのに、生き物の死に際みたいな湿り気をまだ少し残している、あの嫌な白だ。
「……来てるな」
恒一が言った。
「うん」
澪が頷く。
「完全に」
「店側へ」
「うん」
厨房の空気が、一気に現実味を増した。
森で感じる危うさは、まだどこか“向こう側”のものだった。
だが店の床に落ちた時点で、それはもうこちら側だ。
玻璃亭の中へ、ほんのわずかでも白が入り込んでいる。
「どうする」
恒一が訊く。
「まず、他にないか見る」
澪が即答した。
「わかった」
「でも近づきすぎるな」
「うん」
「布持ってくる」
「素手はだめ」
「うん」
二人は厨房をゆっくり見回った。
冷蔵庫の前。
棚の下。
シンクの足元。
石段の入口に近い床。
見落としがないように、だが不用意に屈みこみすぎないように。
「……ここにも」
恒一が言う。
冷蔵庫の取っ手の真下ではなく、その少し左。
ごく微量だが、もう一つ白い粒が落ちていた。
さらに石段の入口に近いところにも、粉というより擦れた跡のような白い筋がある。
「運ばれてきた、っていうより」
澪が低く言う。
「うん」
「何かが“引かれた”感じ」
「……」
「白いものそのものか、付着したものか」
「でも」
恒一は喉の奥が少し詰まるのを感じた。
「店の床まで、線ができてる」
「うん」
線。
それは嫌な言い方だった。
けれど、今の状況を一番正確に表していた。
第二入口。
小屋。
白いもの。
そして店側へ寄ってくる気配。
その全部が、今や“森の中の出来事”ではなく、店の床にまで繋がる線になっている。
「……明後日の夜」
恒一が言う。
「うん」
「やる?」
「……」
澪はすぐには答えなかった。
明後日の夜。
常連と新規を自然に混ぜ、帰りの白と角兎の煮込みを軸に、新しい皿まで少しだけ出して、“この店は必要とされている店だ”と見せるための小さな一手。
本来なら、今の状況でこそ必要な手だ。
だが、白がもう店の床まで来ている。
「やる」
澪が言った。
「……」
恒一は少しだけ目を上げる。
「やめると」
澪は続けた。
「向こうのほうが早い」
「……」
「白が来てるからって店の手を止めたら、そっちの意味で侵食される」
「……うん」
「だからやる」
「……」
「でも」
澪はきっぱり言った。
「今夜のうちに、紗雪さんと老紳士には絶対伝える」
「うん」
「あと、冷蔵庫の前の線は一回洗う」
「洗っていいのか?」
「そのまま放置のほうが嫌」
「……」
「でも素手では触らない」
「うん」
「布と、熱湯と、塩」
「塩?」
「何となく」
「雑だな」
「雑でも、やるよりマシ」
その時、階段の上から足音がした。
少しだけ速く、けれど今ではもうはっきりとこの店の一部みたいに聞こえる足音。
東條院紗雪だ。
扉が開く。
「ご、ごきげんよう」
今日は深い葡萄色のワンピースだった。
だが、その綺麗な色より先に、彼女は二人の顔を見て、すぐ異変に気づいた。
「……何ですの」
紗雪の声が少しだけ低くなる。
「本日は」
「うん」
恒一が答える。
「かなり、よくありません」
「……」
紗雪の視線が、自然に冷蔵庫の前へ落ちた。
そして、白い粉を見つける。
「……!」
彼女は息を呑み、反射的に一歩止まった。
「近づかないで」
澪がすぐに言う。
「ええ」
紗雪は素直に頷いた。
「それは……」
「白い気配」
恒一が言う。
「店の床まで」
「……」
「来てる」
紗雪の顔から、さっと色が引いた。
それでも彼女は声を荒げなかった。
この店で、そういうふうに動揺を撒き散らしても意味がないと、もう身体で知っているのだろう。
「祖父へ」
彼女が静かに言う。
「うん」
「すぐに伝えますわ」
「お願いしたい」
「ええ」
紗雪は頷いた。
「でも」
「……」
「それだけでは、足りませんわね」
「うん」
恒一も頷く。
「だから」
「……」
「明後日の夜は、やる」
「……!」
紗雪の目がわずかに揺れる。
「この状態で?」
「この状態だから」
澪が言った。
「……」
「店を止めない」
「……」
「白が来たからって、店の意味まで譲らない」
「……」
紗雪はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと息を吐く。
「……そうですわね」
彼女は言った。
「え?」
恒一が少しだけ驚く。
「やめるべきだと仰るかと思った」
「怖いですわよ」
紗雪ははっきりと言った。
「かなり」
「……」
「ですが」
彼女は冷蔵庫の前の白い粉を見たまま続ける。
「ここで店の手を止めたら」
「……」
「それこそ、白いものに“意味”を譲るようなものではありませんか」
「……」
「この場所の意味は」
紗雪はまっすぐ顔を上げる。
「店が決めるべきですわ」
「……」
「通路でもなく、白い何かの延長でもなく」
「……」
「料理と人の居場所として」
その言葉は、今の恒一が聞きたかったことのほとんど全部だった。
危険はある。
見張りもいる。
森のほうは確実にこちらへ寄ってきている。
だが、それでもこの場所の意味を最終的に決めるのは、店でなければならない。
「……やる」
恒一は改めて言った。
「明後日の夜」
「うん」
澪が頷く。
「常連と新規を自然に混ぜる」
「ええ」
紗雪も頷く。
「帰りの白と角兎」
「うん」
「新しい皿も」
「うん」
「で」
恒一は冷蔵庫の前を見た。
「その前に、今夜はここを一度きれいにする」
「うん」
澪が答える。
「店の床として」
「……ええ」
紗雪も小さく言った。
「それがよろしいですわ」
そのあと、三人で慎重に動いた。
澪が厚手の布を何枚か用意する。
恒一が熱湯と塩を持ってくる。
紗雪は少し離れた位置から、他に白い筋がないかを目で追う。
白い粉そのものに触れないよう、布越しに、少しずつ。
床に残った筋を拭い、熱湯を落とし、もう一度布で押さえる。
作業は地味だった。
劇的な変化もない。
だが、それでよかった。
今夜必要なのは、白いものを解明することではない。
店の床を、店の床として整え直すことだ。
最後に布をまとめた時、冷蔵庫の前の白い痕跡は、少なくとも見える形では消えていた。
「……」
誰もすぐには喋らなかった。
先に口を開いたのは、紗雪だった。
「本当に」
彼女は静かに言う。
「ええ」
「寄ってきておりますのね」
「うん」
恒一が答える。
「でも」
「……」
「寄ってきてるからって、譲らない」
「……」
「明後日の夜で」
「うん」
「この店はまだ前へ行くって、見せる」
「……」
「それが」
恒一はゆっくり言った。
「今の店主の一手だと思う」
言い切ってしまうと、不思議と腹が据わった。
受け身で守るだけでは足りない。
危険が近づいているのなら、なおさらこちらから“この店の意味”を押し返さなければならない。
帰りの白があり、次の皿があり、人が座る。
玻璃亭はその未来を持っている。
それを、明後日の夜に一度、きちんと形にする。
それが、次の始まりになる。




