第52話 店主の一手
受け身で守れるものには、限りがある。
朝倉恒一は、そのことをこのところ何度も思い知らされていた。
見張る者がいる。
森の第二入口の向こうには、小さな作業場が居着こうとしている。
白いものは店側へ寄ってきている。
老紳士の答えは、答えになりきらない。
閉じる案も、単純な解決にはならない。
それでも店は開く。
帰りの白は今日も帰りの白であり、新しい皿は新しい皿として客の記憶へ残り始めている。
つまり、玻璃亭はまだ“守られるだけの店”ではない。
店として、こちらから輪郭を取れる。
ならば、そろそろ一手打つべきだった。
営業前の静かな店で、恒一は予約帳を開いていた。
紙の上にあるのは、今週来そうな常連の名前。
まだ埋まっていない時間。
自然に混ざりそうな新規の入りやすい曜日。
料理店として無理なく回せる人数。
「……本気だね」
澪が言った。
火乃坂澪は、カウンターの奥でパン籠を整えながら、予約帳を覗き込んでいる。
「うん」
恒一が答える。
「小さい予約会」
「予約会っていうほど、大げさじゃないけど」
「でも、店の正面を強くするための一手」
「……」
「今のところ、それが一番効く気がする」
数日前から考えていた。
見張りの男が常連に顔を覚えられた夜から、なおさらはっきりした。
向こうは、この場所を“地下へ続く何か”として見たがっている。
ならば、こちらはそれ以上に“人が普通に帰ってくる料理店”としての印象を強くするべきだ。
派手な宣伝ではない。
秘密の会でもない。
あくまで自然に。
帰りの白を気に入ってくれている常連。
角兎の煮込みを目当てに来る客。
そして、その空気に馴染める新規を少しだけ混ぜる。
それで“この店は必要とされている”という事実を、外から見てもわかる形で置く。
「今さらだけど」
澪が言う。
「何」
「やっと、ちゃんと店主っぽい一手」
「最近それ多いな」
「だって本当にそう」
「……」
「森に入って答え探すんじゃなくて」
「うん」
「店として輪郭取るほうへ打ってる」
「……」
「前より好き」
「それはちょっと照れるな」
「照れてて」
「雑だな」
「必要だから」
そこへ、足音がした。
少しだけ速く、けれど今ではかなり自然にこの地下へ下りてくる足音。
東條院紗雪だ。
扉が開く。
「ご、ごきげんよう」
今日は淡い灰桜色のワンピース。柔らかな色なのに、どこか意志の強い顔に見えるのは、最近の彼女の立ち位置がそうさせるのかもしれない。
「いらっしゃいませ」
恒一が言う。
「ええ」
紗雪は頷き、すぐに予約帳へ視線を落とした。
「……本日は」
「うん」
「かなり、決めたお顔ですわね」
「そこまで出てる?」
「かなり」
「最近ほんと、全部読まれるな」
「最近は」
紗雪は少しだけ得意げに言う。
「そのくらいなら」
「便利な」
「本日は使わせますわ」
今日はもう、そのやり取りさえ景気づけに近かった。
「話、ちょうどよかった」
恒一が言う。
「何ですの」
「店の一手」
「……」
紗雪はすぐに姿勢を少し正した。
「混ぜなさい」
「やっぱり言うんだな」
「当然ですわ」
営業前の短い時間に、三人はカウンター越しで話し始めた。
「予約帳見てた」
恒一が言う。
「ええ」
「今週のどこかで、少しだけ“人が戻ってきてる店”を強く見せたい」
「……」
「常連が自然にいて、新規も無理なく混ざる夜」
「うん」
澪が頷く。
「派手にやると変」
「そう」
「だから」
恒一は続ける。
「一晩だけ、帰りの白と角兎、それに新しい皿も少しだけ出せる形で」
「……!」
紗雪の目が少しだけ大きくなる。
「新しい皿も?」
「うん」
「まだ名前はない」
「ええ」
「でも」
恒一は予約帳を指で押さえる。
「“この店には帰りの白の先もある”って、少しだけ見せたい」
「……」
「店がちゃんと未来を持ってるってことか」
澪が言う。
「そう」
「……それ」
紗雪が静かに言う。
「かなり、よろしいですわね」
「かなり?」
「ええ」
彼女は頷いた。
「見張る者がいるのであれば」
「うん」
「なおさら、このお店を“通路ではなく、未来のある店”として見せたほうがよろしい」
「……」
「未来のある店」
恒一が小さく繰り返す。
「ええ」
紗雪は静かに言った。
「帰りの白だけで完成している店ではなく」
「うん」
「次もあり、その次もありうる店」
「……」
「それは」
彼女は少しだけ目を細める。
「“ここは使い潰す場所ではない”と、外へ示すことにもなりますもの」
その言葉に、恒一ははっきりと頷いた。
まさに、それがやりたかったのだ。
境界に触れていようと。
森の気配が近づこうと。
玻璃亭はまだ、今日と明日を持つ店だ。
それを、店の側から表へ置く。
「で」
澪が言う。
「いつ」
「明後日の金曜がいいと思ってる」
「理由は」
「常連が来やすい」
「うん」
「新規も入りやすい」
「うん」
「週末寄りだけど、まだ騒がしくなりすぎない」
「……悪くない」
「ですわね」
紗雪も同意する。
「それに」
「うん?」
「金曜の夜は、“たまたま良い店を見つけたい方”も増えますもの」
「……それ、かなり大事」
「客の流れは、そういうものですわ」
そこからは、具体的な整え方に入った。
常連の会社員には「今週は金曜が比較的落ち着いています」と自然に伝える。
夫婦客には、帰りの白と角兎の安定した夜であることを示す。
新しい皿は、看板としてではなく“今夜だけ少しだけご用意できます”の形で数を絞る。
入口の立て札は出しすぎず、「本日おすすめあり」のみ。
予約で埋めるのではなく、“自然に席が動いている店”に見せる。
「あと」
紗雪が言う。
「うん」
「わたくしは」
「うん」
「その日は、少し長くいてもよろしくて?」
「……」
恒一は少しだけ笑う。
「前にも言ってたな」
「ええ」
「今回も?」
「今回も、ですわ」
「理由は」
澪があえて訊くと、
「“いつもの客がいつも通りいる”ことも、店の輪郭の一つだからです」
紗雪はきっぱり答えた。
「……」
「何ですの」
「いや」
澪は少しだけ肩をすくめた。
「そこまで言われると、店の人」
「客ですわ」
「便利な」
「本日はそれを許します」
「今日は機嫌いいな」
「機嫌がよいというより」
紗雪は少しだけ視線を逸らす。
「お店が前へ進む話は、少しうれしいのです」
その本音は、思った以上にまっすぐだった。
帰りたい場所だから。
なくしたくない場所だから。
その店が“次の夜”を持とうとしていることがうれしい。
たぶん、それだけのことなのだろう。
「……じゃあ」
恒一が予約帳を閉じた。
「うん」
澪が頷く。
「ええ」
紗雪も。
「決める」
恒一は言った。
「明後日の夜」
「うん」
「小さく、人を混ぜる」
「うん」
「帰りの白と角兎を軸」
「ええ」
「新しい皿も、ほんの少しだけ」
「……」
「それで」
彼は静かに続ける。
「玻璃亭を、“必要とされている店”として一回、外へ見せる」
「……」
「かなり、店主っぽい」
澪がぼそりと言う。
「最近そればっかりだな」
「だって今日のは、ほんとにそう」
「……」
「よろしいですわ」
紗雪が言った。
「何が」
「今のそのお顔です」
「……」
「受け身ではなく」
「……」
「“次の夜を作る側”のお顔になっておりますもの」
「……」
その言葉は、思っていたより深く胸へ入った。
受け身ではなく。
次の夜を作る側。
まさに、それが今ほしかった自分の位置だったのだと、そこでようやくわかった。
その日の営業は、決意のあとらしく静かだった。
帰りの白を出しながら、恒一は明後日の夜を思い描いていた。
常連が自然に席へ着き、知らない客も不自然なく混ざる。
帰りの白がまず出て、角兎の煮込みが続き、そして新しい皿がほんの少しだけ“次”として差し出される。
その夜がうまくいけば、玻璃亭はまた一つ、通路ではなく店として輪郭を強くできる。
だが、その一方で。
営業後、片づけの途中で、澪が冷蔵庫の前で立ち止まった。
「……」
「どうした」
恒一が訊く。
澪はすぐには答えなかった。
代わりに、床の一点を指した。
冷蔵庫の前、石段の入口からはまだだいぶ手前。
店の厨房の、ごく普通の床。
その隅に、ほんのわずかに白い粉のようなものが落ちていた。
「……」
恒一の背筋が、すっと冷える。
「昨日まで、あった?」
澪が低く訊く。
「……ない」
「……」
「これ」
恒一はしゃがみ込みかけて、止まる。
「触るな」
澪がすぐに言う。
「うん」
「……」
「白い気配」
恒一が言う。
「店側へ、来てる」
「……うん」
見せるべきは、明後日の夜の店の強さ。
けれどその一方で、森の側の危うさは、もう本当に店の床の近くまで寄ってきていた。
次の一手は、確かに打つ。
だが同時に、もう一歩遅れれば、向こうの一手のほうが早いかもしれない。




