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『銀座の地下にある小さな店は、異世界で狩った食材でできている。祖父の遺したレストランを再建していたら、無口な狩り相棒と悪役令嬢みたいな常連お嬢様が今日も帰ってくれない』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第51話 帰る味を増やす夜

 危うさが近づくほど、人は“変わらないもの”へ手を伸ばしたくなる。


 けれど店というものは、変わらないだけでは生き残れないのだと、朝倉恒一は最近よく思う。


 帰りの白は、もうこの店の芯になりつつある。

 あの白い湯気は、昔の記憶を持つ人にも、今ここへ初めて来た人にも、少しずつ違う形で届いている。

 静かで、押しつけがましくなくて、それでいて確かに“帰ってきてもいい”と思わせる力がある。


 だが、玻璃亭が本当に“帰る場所”であり続けるためには、それだけでは足りない。


 戻ってきた人が、また次を見つけること。

 同じ階段を下りながら、今日は何を食べようかと思えること。

 そういう未来の余白が要る。


 営業前の厨房で、恒一は新しい皿の前に立っていた。


 白濁茸の静かなベース。

 角兎の腹肉。

 風縫いの脂のかすかな影。

 薄いパンの香ばしさ。


 帰りの白の続きでありながら、まったく同じ方向ではない。

 静かな灯の次に、椅子へ深く座り直したくなるような一皿。


 店の外では、見張る者がいる。

 森の向こうでは、白いものが店側へ寄ってきている。

 それでも、この皿だけは、前へ進まなければならない。


「……今日、かなり静かだね」

 澪が言った。


 火乃坂澪は、カウンターの奥でパンを薄く切りながら、こちらを見ている。

 その声は落ち着いていた。

 森の気配に神経を張っている時とも違う、店の中だけを見ている顔だ。


「悪い意味で?」

 恒一が訊く。

「半分」

「半分?」

「店の外のこと考えてる」

「……」

「でも半分は、皿に集中してる」

「よく見てるな」

「最近は」

「便利な」

「今日は使わせる」


 そのやり取りに、少しだけ肩の力が抜ける。


 今日は、森には入らない。

 白い気配が近づいている以上、むしろ店の中の火を強めるべき日だと三人で決めたのだ。


 そしてもう一つ。

 今夜は、新しい皿を、ほんの少しだけ外へ出す。


 常連へ。

 帰りの白を気に入ってくれている客へ。

 “次の帰る味”になれるかどうかを見るために。


 そこへ足音がした。


 少しだけ速く、けれどもうこの店に馴染んだ足音。

 東條院紗雪だ。


 扉が開く。


「ご、ごきげんよう」


 今日は淡い白桃色のワンピース。

 やわらかな色なのに、今夜の紗雪は少しだけ気を引き締めた顔をしていた。たぶん、店の外のことも、森のことも、全部頭から消えてはいないのだろう。


「いらっしゃいませ」

 恒一が言う。

「ええ」

 紗雪は頷く。

「本日は」

「うん」

「森へは?」

「行ってない」

 恒一が答える。

「今日は店」

「……それでよろしいですわ」

 紗雪はすぐに頷いた。

「本日は、そのほうが安心いたしますもの」


 席へ着く前に、彼女は黒板を見上げる。


 本日のおすすめ

 角兎の赤ワイン煮込み

 帰りの白

 季節の小皿あり


「変わりませんのね」

「表はね」

 恒一が言う。

「裏は?」

「少しだけ動かす」

「……」

 紗雪はすぐに察した顔をした。

「本日、いよいよですの?」

「うん」

「“次の皿”」

「……」

「そのお顔ですもの」

「完全に読まれてるな」

「最近は」

 紗雪は少しだけ得意げに言った。

「そのくらいなら」


 帰りの白を出す。


 紗雪はひと口飲んで、今日はすぐには感想を言わなかった。

 代わりに、少しだけ目を閉じる。

 その仕草が、この皿が彼女の中で完全に“帰るための一皿”になっていることを物語っていた。


「……今日は」

 恒一が言う。

「はい」

「このあと、もう一皿お願いします」

「ええ」

 紗雪は静かに頷く。

「そのようになると思っておりましたわ」


 営業が始まる。


 最初に入ってきたのは、あの常連の会社員風の男性だった。

 角兎の煮込みを気に入り、帰りの白を頼むことも増えてきた、店の空気を静かに支える一人。


「こんばんは」

 男性が言う。

「こんばんは」

 恒一が返す。

「今日はね」

 男性は席へ着きながら笑う。

「ちょっと良いことあったんで、白と赤、両方いこうかな」

「ありがとうございます」

「たまにはそういう日があってもいいでしょ」

「もちろんです」


 その何気ない会話が、今夜は妙にありがたかった。


 次に来たのは、以前から帰りの白を気に入ってくれている若い女性客。

 その次には、角兎目当てで来る夫婦。

 狙ったわけではない。

 だが、こういう客たちが揃う夜なら、新しい皿を一度だけ出すにはちょうどいい。


 店が少し落ち着いたところで、恒一は澪と目を合わせた。


「……行く?」

 澪が小さく言う。

「うん」

 恒一が頷く。

「一人目、誰にする」

「……」

「決まってるでしょ」

「そうだな」


 まずは、紗雪へ。


 小皿をそっと置く。

 帰りの白のあとへ続ける形で。


「……まあ」

 紗雪が、ほんの少しだけ目を大きくする。

「本日は、そう来ますのね」

「はい」

「……」

 彼女はスプーンを取り、まず一口。

 それから、添えた薄いパンと一緒にもう一口。


 しばらく黙る。

 恒一も、澪も、今は何も言わない。


 やがて紗雪は、ゆっくりとスプーンを置いた。


「……」

「どうですか」

 恒一が訊く。


 紗雪は少しだけ息を整えてから、静かに言った。


「これは」

「うん」

「帰りの白の“あと”ですわ」

「……」

「帰るための味を飲んで」

「……」

「そのあとで、ここへ座り続けたくなる味」

「……」


 それは、欲しかった言葉だった。


 帰りの白のあと。

 まさにこの皿が目指していた位置だ。


「かなりいい」

 澪が小さく言う。

「うん」

 恒一も頷く。


 次に、常連の会社員へ。


「今日、何かあります?」

 男性が黒板にない皿へ気づいて言う。

「よければ」

 恒一が言う。

「小さく試しているものが一皿」

「おお」

 男性は少し嬉しそうに笑った。

「そういうの好きなんだよね」

「では」

「お願いします」


 その表情の自然さがよかった。

 珍しいものを食べる高揚ではなく、“この店の続きに自分も混ざれる”ことへの軽い喜び。

 それこそが今ほしい反応だった。


 皿を出す。

 男性は帰りの白を飲んだあとで、それを食べる。


「……」

 一口目で少しだけ目を細める。

 二口目で、無意識にパンへ手が伸びる。

 三口目のあと、小さく息を吐いた。


「……これ」

 彼が言う。

「はい」

「次も、ある?」

「……」

 恒一は一瞬だけ言葉を失いそうになる。

「まだ、試作段階です」

「そうなんだ」

 男性は名残惜しそうに皿を見る。

「でも、これ好きだな」

「……」

「白と全然違うのに、なんか続けて食べたくなる」

「……」


 まさに、それだった。


 帰りの白だけで終わらない。

 そこから続けて、この店へもう少し座っていたくなる。

 その感覚が、普通の客の言葉として出てきたのだ。


「……いいね」

 澪が厨房の奥でぽつりと言う。

「かなり」

 恒一も小さく返す。


 その後も、今日は二人だけに出した。


 角兎の煮込みを気に入っている夫婦にも少しだけ。

 反応はやはり悪くない。

 派手な絶賛ではない。

 けれど、“また食べたい”という静かな手応えが残る。


 営業が終わる頃には、恒一の中で確信に近いものが生まれていた。


 この皿は、いける。

 まだ名前はない。

 まだ少し削るところもある。

 だが、帰りの白の次に置ける。

 そして、今の玻璃亭の未来として立てる。


 閉店後。


 三人はいつものように少しだけ店へ残った。


「……どう?」

 澪が先に訊く。

「かなり」

 恒一が言う。

「うん」

「これはもう、看板候補って言っていい」

「……」

「何ですの」

 紗雪が少しだけ笑う。

「その“かなり”は、だいぶ本気ですわね」

「本気」

 恒一が頷く。

「帰りの白に続いて、店の顔になれる」

「……」

「よろしいですわね」

 紗雪は静かに言った。

「何が」

「お店が、まだ未来を増やせるということです」

「……」

「白いものが近づいてきていようと」

「……」

「見張る者がいようと」

「……」

「それでも、次の皿が生まれる」

「……」

「それは」

 紗雪は少しだけ目を伏せた。

「かなり、強いことではなくて?」


 その言葉に、恒一はゆっくり頷いた。


 店の外では、危うさが増している。

 森の向こうでは、白いものが運ばれ、弱り、寄ってきている。

 それでも店の中では、新しい皿が生まれる。


 それはたしかに、かなり強い。


「……じゃあ」

 澪が言う。

「うん」

「次は名前」

「……そうだな」

「そろそろ逃げられない」

「うん」

「帰りの白に続く、次の帰る味」

「……」

「ちゃんと名をつけたら、もう本当に店の皿だよ」

「……」


 恒一は、その言葉の重みを静かに受け止めた。


 店の外に危うさがあるからこそ、店の中の未来を曖昧なままにしておけない。

 新しい皿に名前をつけること。

 それは、この店がまだ前へ進むと決めることでもある。

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