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『銀座の地下にある小さな店は、異世界で狩った食材でできている。祖父の遺したレストランを再建していたら、無口な狩り相棒と悪役令嬢みたいな常連お嬢様が今日も帰ってくれない』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第50話 白いものが、近づいてくる

 危険というものは、ある日突然そこに現れるとは限らない。


 むしろ、本当に厄介なのは、少しずつ寄ってくるものだ。


 朝倉恒一は、祖父の“印”の帳面を広げながら、その嫌な感覚を正面から噛みしめていた。


 《白の気配強し》

 《店側へ寄るな》

 《風の夜は開けるな》


 祖父の字は相変わらず簡潔だ。

 説明は少ない。

 だが今は、その少なさの向こうにある緊張が前よりはっきり読める気がする。


 白いものは、ただ向こう側にあるのではない。

 動く。

 運ばれる。

 こちら側では保ちにくく、崩れ、乾き、弱る。

 それでもなお、向こうの連中は急いで運び続けている。


 そして今、問題は“向こうで何が起きているか”だけではなくなっていた。


 営業前の玻璃亭。

 黒板はまだ店の外へ出していない。

 パン生地は休み、帰りの白の鍋はまだ静かだ。

 その中で恒一は、帳面と、自分たちが最近つけた森の簡易地図を並べて見比べていた。


「……これ」

 彼が言う。

「うん」

 澪がすぐ横から覗き込む。

「祖父さんの印の位置と」

「うん」

「最近のうちらの印」

「うん」

「ずれてるね」

「……」

「嫌なほうに」

「そうだな」


 火乃坂澪の指が、紙の上の一点を示す。


 祖父の帳面に記されていた“注意すべき印”の位置。

 自分たちが最近、第二入口の手前でつけている印。

 比べると、ほんの少しだけ、店側へ寄っている。


 たったそれだけだ。

 だが、祖父がわざわざ“白の気配強し”と書き残した範囲が、今の自分たちの感覚よりも店に近い位置にあったことは、見過ごせない。


「……もしかして」

 恒一が低く言う。

「うん」

 澪が答える。

「今、店側へ寄ってきてる」

「……」

「白いもの自体が、じゃなくても」

「気配が」

「うん」

「……」


 それは、最近ずっと頭のどこかにあった不安を、急に具体的な形へ変える言葉だった。


 白いものは、向こう側の小屋で運ばれている。

 だが、祖父の帳面を見る限り、“白の気配”は位置として動くものでもあるらしい。

 それが物そのものなのか、作用なのか、あるいは境界に与える歪みなのかはわからない。


 わからないが、店側に寄ってきている可能性がある。

 それだけで十分にまずい。


「今日、森行く」

 澪が言う。

「うん」

 恒一も頷く。

「でも」

「うん」

「第二入口までは行かない」

「……」

「印の手前だけ」

「気配の確認優先」

「そう」


 最近、二人の間ではそういう合意がかなり素早くできるようになっていた。

 昔なら、“もう少し先だけ”“あと一つだけ確認しよう”で崩れていた線も、今は澪が口にする前に、恒一のほうでも必要な線として理解できる。


「……お前」

 恒一が少しだけ笑う。

「何」

「最初の頃より、かなり俺を信用してないな」

「逆」

 澪が即答した。

「逆?」

「信用してるから、先に釘刺す」

「……」

「信用してなかったら、一緒に森入ってない」

「……」

「何」

「いや」

 恒一は少しだけ視線を逸らした。

「それ、ずるい言い方だなって」

「便利でしょ」

「便利な言葉ばっかだな」

「必要なので」


 そこへ、足音がした。


 少しだけ速く、でも今ではかなり自然にこの地下へ下りてくる足音。

 東條院紗雪だ。


 扉が開く。


「ご、ごきげんよう」


 今日は深い藍色のワンピースに、首元だけ白が入っている。少しきりっと見える服だった。

 けれど、店へ入った瞬間の彼女の表情は、その装いほど落ち着いてはいなかった。


「いらっしゃいませ」

 恒一が言う。

「ええ」

 紗雪は頷きながらも、すぐに訊いた。

「……何か、見つけましたのね」

「まだ見つけたってほどじゃない」

 恒一が答える。

「でも?」

 紗雪がすぐに続ける。

「でも、嫌なものを見つけかけてる」

「……」

 彼女は少しだけ息を呑んだ。

「どのような」

「祖父さんの帳面と、今の森の印の位置」

 澪が先に言う。

「ずれてる」

「ずれ……?」

「白の気配が強いって書いてた場所が」

「……」

「今のうちらの感覚より、店側に近い」


 紗雪の指先が、持っていた手袋を少しだけ強く握る。


「それは」

 彼女が静かに言う。

「近づいてきている、ということですの?」

「たぶん」

 恒一が答えた。

「白いものそのものか、何かの影響かはわからない」

「……」

「でも、祖父さんの警戒ラインが、今のうちらより店寄りにある」

「……」

「だから、今日は第二入口まで行かない」

 澪が言う。

「手前の気配だけ見る」

「……それが、よろしいですわ」

 紗雪はすぐに頷いた。

「本日は、それがよろしいです」


 その返しがあまりに早くて、恒一は少しだけ驚く。


「即答だな」

「当然ですわ」

 紗雪は少しだけ顎を上げる。

「白いものには近づくな、と祖父も申しましたもの」

「……」

「それに」

 彼女は一度だけ店の奥――冷蔵庫の方向へ視線をやった。

「近づいてきているのであれば、なおさら“迎えに行く”必要はありませんでしょう?」

「……」

「たしかに」

 恒一は小さく頷く。

「その通りだ」


 営業前の短い会話は、それで終わった。


 二人は森へ入る。


 石段を下り、印をたどり、第二入口の手前まで進む。

 今日はそこから先へは行かないと最初から決めていた。


 風が少し強い。

 湿った白濁茸の香りの中に、微かな冷たい匂いが混じる。


「……」

 澪が立ち止まった。

「どうした」

 恒一もすぐ止まる。

「匂い」

「うん」

「前より、こっち」

「……」


 恒一も鼻を澄ませる。


 白いものの匂い。

 あの小屋で感じた、冷たく乾いた、薬品に似て、でももっと生々しい匂い。

 はっきりではない。

 だが、たしかに前より近い。


「……ほんとだ」

 恒一が言う。

「うん」

「第二入口の切れ目まで行かなくても、わかる」

「……」

「嫌だな」

「かなり」


 さらに地面を見ると、自分たちのつけた印の一つが、ほんの少しだけ崩れていた。


 雨や風で消えたというより、何かがそこを通ったあと、土の落ち方が変わっているように見える。

 しかもその近くに、白い粒がごく小さく二つ、三つ。


「欠片」

 恒一が低く言う。

「うん」

 澪も頷く。

「前より手前」

「……」

「やっぱり、近づいてる」


 それは決定的だった。


 白いものを運ぶ動きか、白いものそのものの気配か。

 どちらにせよ、“こちらに寄せられているもの”が今や第二入口の向こうだけの話ではなくなってきている。


「……戻る」

 澪が言った。

「うん」

 恒一も迷わなかった。


 今日の確認はこれで十分だ。

 むしろ、これ以上進む必要はない。


 帰り道、恒一はずっと考えていた。


 近づいてきている。

 祖父の帳面の警戒線。

 今の匂い。

 崩れた印。

 白い欠片。


 向こう側で完結していたはずの危うさが、じわじわと店のほうへ滲んできている。


 石段を上がり、冷蔵庫の底板を閉じる。

 厨房へ戻った途端、そこにある鍋やまな板が妙に頼もしく見えた。


「……想像より早いな」

 恒一が言う。

「うん」

 澪も短く返す。

「嫌な速度」

「うん」

「これ」

 恒一は帳面を開く。

「祖父さんの“白の気配強し”って」

「うん」

「もしかして、位置そのものじゃなくて、“寄ってくる時期”の記録でもあったのかも」

「……」

「店側へ寄り始めた時の」

「あり得る」

「……」


 そこへ、営業開始の少し前、紗雪がもう一度静かに近づいてきた。

 今日は帰らず、入口近くで待っていたらしい。


「どうでしたの」

 彼女が低く訊く。

「近い」

 恒一が答える。

「……」

「第二入口まで行かなくても、匂いがした」

「……」

「印も崩れてた」

「……」

「欠片も、前より手前」

「……そう」


 紗雪はそれを聞いて、すぐには何も言わなかった。


 だが、しばらくしてから、ごく静かに言った。


「では」

「うん」

「もう、“向こうの出来事”とは申していられませんわね」

「……」

「ええ」

 恒一は頷く。

「店側へ、来てる」

「……」


 その事実は、想像以上に重かった。


 玻璃亭は、ただ境界の縁に触れているだけではない。

 境界のほうもまた、こちらへ寄ってきている。


 だから次は、もう一段こちらから手を打たなければならない。

 店を店として強く立たせること。

 そして、寄ってくるものをこれ以上“店側の意味”へ変えさせないこと。


 その必要が、今までよりはっきりしてきたのだった。

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