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『銀座の地下にある小さな店は、異世界で狩った食材でできている。祖父の遺したレストランを再建していたら、無口な狩り相棒と悪役令嬢みたいな常連お嬢様が今日も帰ってくれない』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第49話 老紳士の答えは、答えにならない

 問いが本物であるほど、返ってくる答えは短くなることがある。


 朝倉恒一は、その日の午後、東條院の老紳士を前にして、それを思い知った。


 玻璃亭の営業前。

 まだ客のいない静かな店。

 黒板は出してある。

 グラスも整っている。

 帰りの白のベースも、角兎の煮込みの鍋も、火を入れればすぐ店になるところまで準備されている。


 そんな“いつもの店の手前”に、老紳士は来ていた。


 濃紺のスーツ。

 整えられた白髪。

 相変わらず、見た目の静けさに大きな揺らぎはない。

 だが、今の恒一はもう知っている。

 この人は、静かなまま急ぐことができる人だ。

 そして、その静かな急ぎが見える時ほど、事態はよくない。


 今日は、恒一のほうから話を切り出した。


 店の前の見張り。

 第二入口の向こうの小屋。

 白いもの。

 そして、店側の入口――冷蔵庫の底の通路を、一時的にでも閉じる案。


 そこまで話したあと、店の中には少し長い沈黙があった。


 老紳士は椅子へ深くもたれず、カップにも手をつけず、ただ静かにテーブルの上へ指先を置いていた。


 向かいには恒一。

 少し離れた位置に澪。

 そして今日は紗雪も、客席の端ではなく、その場へ残っていた。


 祖父へ問う以上、自分もそこにいるべきだと紗雪が言ったのだ。

 老紳士も、それを拒まなかった。


「……閉じたい気持ちは、理解できます」

 やがて老紳士が言った。


 それは、思っていたより穏やかな出だしだった。

 即座に否定されるかもしれないと、恒一はどこかで身構えていたのだ。


「ですが」

 老紳士は続ける。

「閉じれば済むものではありません」

「……」

 恒一は小さく息を吐く。

「やっぱり」

「ええ」

 老紳士は頷いた。

「やはり、です」


 紗雪が静かに祖父を見る。

「お祖父様」

「何です」

「それは」

 彼女は言葉を選ぶ。

「通路そのものが、単純な扉ではない……という意味ですか」

「近い」

 老紳士は短く答えた。

「……」

「ですが、正確ではありません」


 答えはある。

 けれど、それを今はそのまま渡す気がない。

 そのことだけが、逆にはっきりした。


「じゃあ」

 澪が口を開いた。

「うん」

 老紳士が視線だけで応じる。

「冷蔵庫の底、板打ちつけるとか、石段の入口を塞ぐとか」

「……」

「そういう物理的なことしても、意味ない?」

「無意味、とまでは申しません」

 老紳士は答えた。

「ですが、十分ではない」

「……」

「その程度で止まるなら、そもそも今のような形にはなっておりません」


 それは、かなり重い言い方だった。


 つまり、玻璃亭の地下に触れている“境界”は、こちら側の入口だけを塞いだところで解決するほど単純ではない。

 第二入口がある。

 向こう側の作業場がある。

 そもそも、境界そのものが“開いた穴”のようなものではなく、もっと広い条件で成り立っている可能性すらある。


「……じゃあ」

 恒一が低く言う。

「何で、この店の下なんですか」

「……」

「第二入口だけじゃなくて、どうしてわざわざ店の下に寄せてくる」

「……」

「この店は、何なんですか」


 その問いには、料理人としての苛立ちも混じっていた。


 店でありたい。

 通路にはしたくない。

 なのに、境界の話をする時だけ、玻璃亭は何か別の意味を帯びる。

 その“別の意味”の正体を、ずっと曖昧なまま抱えさせられている感覚があった。


 老紳士は、すぐには答えなかった。


 代わりに、店内を静かに見回した。

 黒板。

 カウンター。

 棚。

 照明。

 そして最後に、恒一へ視線を戻す。


「……店だからです」

 彼は言った。


 短い。

 だが、今までのどの答えよりも不思議に深かった。


「店だから?」

 恒一が繰り返す。

「ええ」

 老紳士は頷く。

「境界の近くに、ただの穴が開いているだけなら、いずれ奪い合いになる」

「……」

「ただの抜け道なら、使い潰される」

「……」

「ですが、店は違う」

 老紳士は静かに言った。

「火があり、人が来て、席があり、皿が出る」

「……」

「つまり、“留まる理由”が一つに固定されない」

「……」

「それが」

 彼はわずかに目を細める。

「長く保つ上では、重要だったのです」


 その説明は、答えであるようでいて、まだ答えになりきっていなかった。


 けれど、輪郭だけは見えた。


 玻璃亭は、単なる入口ではない。

 人が来て、食べて、帰る場所であること自体が、境界を“ただの奪い合いの場”にしない働きを持っていたのかもしれない。


 祖父が店として続けた理由。

 老紳士が“店である限り守る”と言う理由。

 それらが、少しだけ同じ方向へ繋がった気がした。


「……」

 恒一は息を吐く。

「つまり」

「うん」

 澪が小さく促す。

「閉じると、その均衡まで崩れる可能性がある?」

「可能性はあります」

 老紳士が答えた。

「確実にそうなるとは申しません」

「……」

「ですが、少なくとも、ただ塞げば安心という話ではない」

「……」


 紗雪が小さく目を伏せる。

「お祖父様」

「何です」

「それでは」

 彼女は静かに言った。

「今のわたくしたちは、閉じることもできず、開いたままにしておくしかないのですか」

「……」

 老紳士は孫娘をまっすぐ見た。

「そうではない」

「……」

「店として立ち続けることです」

「……」

「まずは、それが先です」


 また、その答えだ。


 店であること。

 火を絶やさないこと。

 人が来て、席があり、皿が出ること。


 結局そこへ戻る。

 だが、それは逃げではないのだろう。

 今この人が言っているのは、“わからないから店をやれ”ではなく、“店であること自体に意味があるから崩すな”という話なのだ。


「……答えになってないな」

 澪がぽつりと言った。


 店の空気が少しだけ止まる。


 老紳士は怒らなかった。

 むしろ、ほんのわずかに口元を緩める。


「ええ」

 彼は認めた。

「答えになっていないでしょう」

「……」

「ですが」

「……」

「今、ここで私がすべてを明かしたとして」

「うん」

 澪が低く返す。

「それで、あなた方がより正しく動けるとは限らない」

「……」

「だから、答えになりきらない言葉しか渡せない」

「……」

「不誠実と思うなら、それでも構いません」


 その言い方は、思いのほか正直だった。


 全部を知れば正しく動けるとは限らない。

 それは、白いものを皿にしそうになった自分自身を思えば、恒一にも少しわかる。


 未知の危うさに触れた時、人は必ずしも正しい方向へ動けない。

 だから老紳士は、まだ“答え”を渡さないのかもしれない。


「……不誠実とは思わない」

 恒一が言った。

「……」

「でも、しんどい」

「ええ」

 老紳士は頷いた。

「それも承知しております」

「……」

「今のあなた方は、境界の端に立ちながら、なお店であろうとしている」

「……」

「それは楽なことではありません」


 その言葉だけは、妙にまっすぐだった。


 しばらくして、老紳士はカップへようやく手を伸ばした。

 だが、口をつける前に言う。


「閉じる案そのものを否定するつもりはありません」

「……」

「ただ」

「……」

「それをするなら、“何を閉じるのか”を見誤らぬことです」

「……」

「穴を塞ぐのか」

「……」

「通路としての意味を断つのか」

「……」

「あるいは、別の形で“店側へ寄せない”線を引くのか」

「……」


 そこで初めて、問いの形が少し変わった気がした。


 閉じるか、閉じないか。

 単純な二択ではない。


 何を閉じるのか。

 物理的な入口か。

 使われ方そのものか。

 店へ寄せる意味か。


 その整理は、答えではない。

 だが、答えへ近づく問いとしてはかなり大きかった。


「……なるほど」

 澪が小さく言う。

「何」

 恒一が見る。

「“閉じる”って言葉が雑すぎた」

「……」

「冷蔵庫の底だけ塞ぐことと、店を通路として機能させなくすることは、たしかに別」

「……」

「そこ分けて考えないと、たぶん意味ない」

「……」


 紗雪も静かに頷いた。

「ええ」

「お祖父様が先ほど仰ったことは」

「……」

「そういう意味なのですわね」

「近い」

 老紳士は短く答えた。

「それ以上は?」

 紗雪が少しだけ踏み込む。

「今はまだ」

 老紳士は首を振る。

「答えになりませんわね」

「ええ」

 老紳士は今度は少しだけ明確に微笑した。

「答えにはなっておりません」


 そのやり取りに、少しだけ、ほんの少しだけ空気が和らいだ。


 だが本質は変わらない。

 老紳士の答えは、やはり答えになりきらない。

 それでも、その“不足した答え”の中に、次の問いが埋まっている。


 閉じるなら、何を閉じるのか。

 店であり続けることと、境界を寄せないことは、どう両立するのか。


 営業が始まる時間が近づいた。


 老紳士は最後に一言だけ言った。


「火を絶やさぬことです」

「……」

 恒一は頷く。

「それだけは」

「ええ」

「今日も変わらないんだな」

「変わりません」

 老紳士は静かに答えた。

「そこが変われば、他はすべて遅れますので」


 そう言って、彼は席を立った。


 扉が閉まり、足音が階段の上へ消える。


 店内に残ったのは、結局また、答えになりきらない答えだった。

 だが、それでも来た時とは違う。


 閉じるか閉じないか、ではなく。

 何を閉じ、何を残し、何を店として守るのか。

 その問い方が、ようやく少し見えてきたからだ。


「……しんどいな」

 恒一がぽつりと言う。

「うん」

 澪が答える。

「でも、前よりちょっとだけマシ」

「何で」

「問いがちゃんと分かれたから」

「……」

「冷蔵庫に板打てば終わり、みたいな雑な話じゃなくなった」

「……そうだな」


 紗雪は静かにカップへ視線を落としていたが、やがて小さく言った。


「祖父は」

「うん」

「答えをくれませんでしたわ」

「うん」

「でも」

「……」

「“店を通路にはさせない”という意味では、わたくしたちと同じところを見ている気もいたしますの」


 その言葉に、恒一は少しだけ救われた。


 完全に同じ側かどうかは、まだわからない。

 けれど少なくとも、“店を店でなくす形の解決”を祖父も望んでいない。

 そこだけは、だいぶはっきりしてきた。


 ならば次は、自分たちの番だ。

 答えになりきらない答えを受けたうえで、今の店主として何を考えるか。

 そこへ進まなければならない。

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