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『銀座の地下にある小さな店は、異世界で狩った食材でできている。祖父の遺したレストランを再建していたら、無口な狩り相棒と悪役令嬢みたいな常連お嬢様が今日も帰ってくれない』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第48話 店の地下を、閉じる案

 何かを守るために、何かを閉じるべきか。


 その問いは、思っているよりずっと重い。


 朝倉恒一は、営業前の静かな厨房で、古い冷蔵庫の前に立ちながら、その重さをまともに感じていた。


 白い塗装。

 少し鈍くなった取っ手。

 祖父の代からそこにあり続けた、ごく普通に見える業務用冷蔵庫。


 だが今では、その底の先にある石段を思い出さない日はない。

 境界の森。

 第二入口。

 小屋。

 白いもの。

 見張り。

 焦り始めた向こう側。


 店の下は、もう完全に“ただの秘密の仕入れ先”ではない。

 だからこそ、ここ数日、恒一の頭のどこかにはずっと一つの考えが引っかかっていた。


 ――いっそ、一時的にでも閉じてしまうべきではないか。


 石段を。

 冷蔵庫の底を。

 この店側からの入口を。


「また見てる」

 澪の声がした。


 火乃坂澪は、今日は仕込みの手を早めに終えて、もう革袋の確認まで済ませていた。森へ入るつもりなのではない。むしろ逆で、最近は森へ入らないための準備のほうが増えている気がする。


「最近そればっかり言うな」

 恒一が振り返る。

「最近そればっかりしてる」

 澪は平然と言う。

「便利な言葉」

「便利なので」

「……」

「で」

 澪が冷蔵庫のほうへ顎をしゃくる。

「今日は何」

「……」

「考えてる顔」

「そこももう隠せないんだな」

「最近は」

「ほんと最近それ多い」

「必要だから」


 そこで、恒一は少しだけ迷った。

 だが、この話はもう、自分一人の頭の中だけで回していても仕方がないところまで来ている。


「……閉じるって案」

 恒一が言った。

「何を」

 澪はすぐには反応しなかった。

「地下」

「……」

「冷蔵庫の底」

「……」

「一時的にでも、店側から塞ぐ」

「……」

「そうしたら」

 恒一は続ける。

「少なくとも、こっちから不用意に触ることはなくなる」

「……」

「向こうも、“店の下”としては使いにくくなるかもしれない」

「……」


 澪は、今度はかなり長く黙った。


 怒っているわけではない。

 むしろ、本気で考えている顔だ。


「……それ」

 ようやく彼女が言う。

「うん」

「私は、半分賛成」

「半分?」

「今のまま普通に開いてるの、かなり気持ち悪い」

「……」

「白いものが近づいてるかもしれない」

「うん」

「見張りもいる」

「うん」

「だったら、一回店側だけでも閉じたくなる気持ちはわかる」

「……」

「でも」

「でも?」

「閉じたら終わり、みたいな単純な話でもない気がする」

「……」


 そこが、一番引っかかっていた部分でもある。


 冷蔵庫の底を塞げば、それで済むのか。

 祖父の帳面。

 老紳士の「閉じれば済むものではない」に近い気配。

 境界という言葉の持つ、物理的な扉以上の意味。


 それを考えると、“閉じる”は一見正しそうでいて、何かを見落としている気もした。


「でも、案としてはある」

 澪が言った。

「うん」

「少なくとも、話す価値はある」

「……そうだな」


 そこへ、足音がした。


 少しだけ速く、けれど今ではかなり自然にこの店へ下りてくる足音。

 東條院紗雪だ。


 扉が開く。


「ご、ごきげんよう」


 今日は淡い灰青色のワンピース。少し涼しげな色だった。

 店へ入ると、いつものようにまず二人の顔を見る。

 そして、一歩目でわかった顔をした。


「……本日は」

 紗雪が言う。

「うん」

 恒一が答える。

「かなり、“言いにくいことを考えていらっしゃる”お顔ですわね」

「そこまでわかるのか」

「最近は」

 紗雪は少しだけ得意げに言う。

「そのくらいなら」

「便利な」

「本日は言わせますわ」

「今日は解禁か」

「ええ。本日はそのほうが便利ですもの」


 その返し方に、澪が少しだけ吹き出しそうになる。


「何ですの」

 紗雪が睨む。

「いや」

 澪は肩をすくめた。

「今日は本当に機嫌いいなって」

「……」

 紗雪は少しだけ黙ってから言う。

「本当は、そうでもありませんわ」

「え?」

 恒一が聞き返す。

「何かあった?」

「……」

 紗雪は席へ着く前に、冷蔵庫のほうをほんの一瞬だけ見た。

「わたくしも」

 彼女が静かに言う。

「うん」

「最近、同じことを考えておりましたの」


 恒一と澪が、ほとんど同時に顔を上げる。


「同じこと?」

「ええ」

 紗雪は頷いた。

「地下を、一度閉じてしまったほうがよいのではないか、と」


 店の空気が静かに張った。


「……」

「何ですの、そのお顔は」

 紗雪が少しだけ身を引く。

「いや」

 恒一が言う。

「今、ちょうどその話してた」

「……!」

「紗雪さんも?」

 澪が訊く。

「ええ」

 紗雪は頷く。

「お祖父様が“店である限り守る”と仰ったことは承知しておりますわ」

「うん」

「ですが」

 彼女は言葉を選ぶ。

「今のように、白いものが寄ってきているなら」

「……」

「いっそ、店側から閉じてしまうほうが安全ではないか、と」

「……」


 三人の考えが、同じ場所へ寄っている。

 それ自体は自然だった。

 今の状況は、それほどまでに危うい。


「私は半分賛成」

 澪が改めて言う。

「ええ」

 紗雪が頷く。

「わたくしも、かなり賛成ですわ」

「……」

「何ですの」

「いや」

 恒一は少しだけ苦笑した。

「俺が一番迷ってるんだなって」

「……」

「店主なのに」

「そういうこともありますわ」

 紗雪が静かに言う。

「でも」

 澪が口を挟む。

「何で迷ってるかもわかる」

「……」

「閉じるって、ただ蓋するだけじゃないから」

「うん」

「この店の成り立ちそのものに触る感じある」

「……そう」


 そこが重い。


 冷蔵庫の底の先に森があることは、今や危険の源でもある。

 だが同時に、玻璃亭が玻璃亭であることの一部でもある。


 祖父はこの店を、その境界の上で店として成り立たせてきた。

 帰りの白も、角兎も、風縫いも、その現実と無関係ではいられない。

 だから、単純に塞げば解決という気がしないのだ。


「……それに」

 恒一が言う。

「うん」

「おじいさんが前に言ってた」

「何を」

「“閉じれば済むものではない”に近い空気」

「……」

「言葉そのままじゃないけど、そんな感じだった」

「……」


 紗雪はその言葉に少しだけ目を伏せる。

「祖父も、同じことを考えたことはあるのかもしれませんわね」

「うん」

「でも、しなかった」

「……」

「それには理由があるはずですの」


 それが一番厄介だった。


 閉じたい。

 だが、閉じない理由が祖父にも老紳士にもあったのだとしたら、今の自分たちだけの判断でやるには危うすぎる。


「……おじいさんに聞く?」

 澪が言う。

「聞くしかない気がする」

 恒一が答える。

「ええ」

 紗雪も頷く。

「少なくとも、“閉じる案そのもの”を隠しておく段階ではありませんわ」

「うん」

「今の状況で、それを考えないほうが不自然ですもの」


 その通りだった。


 閉じるべきかどうか。

 それは、今の店にとって避けて通れない問いだ。

 だからこそ、きちんと問いとして老紳士へぶつけるべきなのだろう。


「……ただ」

 恒一が言う。

「何」

 澪が訊く。

「もし、“閉じるな”って言われたら」

「……」

「その理由を、今よりもう一段知ることになる」

「……そうだね」

「ええ」

 紗雪も静かに言う。

「それは、もう避けられませんわ」


 その言葉で、店の中の空気が少しだけ深くなった。


 今までは、危険が近づいている気配に対して店を守ることを決めてきた。

 だが、“閉じるかどうか”を問う段階は、その一段先だ。


 店と境界の関係を、もっと根本から知らなければならない。

 そういう場所に差しかかっている。


 営業はいつも通り始まった。

 だがその日は、三人ともどこか少しだけ落ち着かなかった。


 帰りの白を出しながらも、角兎の煮込みを仕上げながらも、店の奥にある冷蔵庫の存在がいつもより大きい。

 普通の良い店の顔を守るために黒板を整え、水を注ぎ、客へ笑う。

 けれどその“普通”の下で、閉じるべきか開いたままにすべきかという問いが、静かに店の中心へ居座っている。


 閉店後、紗雪は帰り際に小さく言った。


「本日のお話」

「うん」

「祖父へお伝えする前に」

「……」

「一つだけ、申し上げてもよろしいですか」

「もちろん」

 恒一が答える。

「閉じる案が怖いのは」

 紗雪は静かに言う。

「ええ」

「危険がどうこうだけではなく」

「……」

「“閉じたら、店の何かまで途切れてしまうのではないか”という怖さも、ございますのでしょう?」

「……」


 その言葉に、恒一はすぐには返事ができなかった。


 そうだ。

 まさにそこだった。


 危険だから閉じたい。

 だが、閉じた瞬間、玻璃亭が玻璃亭である理由の一部まで断ち切ってしまう気がする。

 それが、ただの物理的な入口ではないと感じているからこそ、なおさら怖い。


「……ある」

 恒一はようやく言った。

「かなり」

「……そう」

 紗雪は小さく頷いた。

「でしたら」

「うん」

「そこまで含めて、祖父へ問うべきですわ」

「……」

「ただ危ないから閉じる、ではなく」

「……」

「この店が店であり続けるために、どこまで閉じてよいのか」

「……」

「そういう問いとして」


 その整理は、ひどく正しかった。


 閉じるか、開けるか。

 単純な二択ではない。

 “店であり続けるために、どこまで閉じるのか”という問い方でなければ、この店の本質に届かない。


 紗雪が帰ったあと、澪がぽつりと言った。


「かなり核心だったね」

「うん」

 恒一が答える。

「ほんと、最近すごいな」

「客ですもの」

 澪が、わざと紗雪の口調を真似る。

「やめろ」

「便利な」

「それもやめろ」


 少しだけ笑った。

 けれど、その笑いのあとにも問いは残る。


 店の地下を、閉じる案。

 それは今や、ただの思いつきではなく、次に進むための本当の問いになっていた。

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