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『銀座の地下にある小さな店は、異世界で狩った食材でできている。祖父の遺したレストランを再建していたら、無口な狩り相棒と悪役令嬢みたいな常連お嬢様が今日も帰ってくれない』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第46話 新しい看板候補

 店が前へ進む時というのは、たいてい大きな音を立てない。


 何か劇的な事件が起きるわけでもない。

 突然満席が続くわけでもない。

 ましてや、ある朝目覚めたら“名店”になっていることなどあり得ない。


 少しずつだ。


 昨日よりほんの少しだけ客が迷わず席に着く。

 帰りの白を頼む時の声が前より自然になる。

 角兎の煮込みを食べた客が、次は何があるのかと黒板を見る。

 そういう小さな動きが、あとになって店の輪郭を作る。


 朝倉恒一は、その日の営業前の厨房で、目の前の小皿を見ながら、その“少しずつ”の正体に触れかけている気がしていた。


 白濁茸の静かなベース。

 角兎の腹肉。

 風縫いの脂の、ごくわずかな影。

 薄く焼いたパン。


 帰りの白のように、湯気とともに記憶へ触る皿ではない。

 けれど、戻ってきた客が次に腰を落ち着けるための一皿になり得る。

 そんな手応えが、ようやく出始めていた。


「……今日は、かなりいい顔」

 澪が言った。


 火乃坂澪は、パンを薄く切りながら、珍しくはっきりとそう言った。

「かなり?」

 恒一が顔を上げる。

「うん」

「最近の採点にしては甘いな」

「今日は甘くない」

「じゃあ?」

「ちゃんといい」

「……」

「何」

「いや」

 恒一は少しだけ笑う。

「お前がそこまで言うの、珍しいなって」

「今日は皿の話だから」

「森じゃないと優しいのか」

「森でも優しい」

「それはない」

「失礼」


 だが、言い合いながらも二人とも機嫌は悪くなかった。


 白いものを皿にしないと決めてから、恒一の中のざわつきは少しだけ整っていた。

 料理人として触れていいものと、店主として触れてはいけないもの。

 その線をひとつ自分で引けたことが、思っていた以上に大きかったのかもしれない。


 その時、足音がした。


 少しだけ速く、けれどもうこの地下へ来ること自体にはかなり自然になった足音。

 東條院紗雪だ。


 扉が開く。


「ご、ごきげんよう」


 今日は淡い桃色に近い薄紅のワンピース。春の名残みたいな色なのに、派手ではない。

 最近の紗雪は、この店へ来る時の服にほんの少しだけ“ここで浮かない落ち着き”を入れている気がする。無意識かもしれないが、その変化もまた、この店に馴染んできた証のようだった。


「いらっしゃいませ」

 恒一が言う。

「ええ」

 紗雪は頷き、今日は一歩目で止まらなかった。

「本日は」

「うん」

「少しだけ、よろしいお顔ですわね」

「少しだけ?」

「かなり、とはまだ申しません」

「厳しいな」

「客ですもの」

「便利な」

「本日は使わせますわ」

「解禁するんだ」

「本日は、機嫌がよろしいので」


 その言い方に、厨房の空気が少しだけやわらぐ。


「……機嫌いいの?」

 澪が言う。

「ええ」

 紗雪は席へ向かいながら答えた。

「理由はございますけれど、まだ申しませんの」

「気になる言い方だな」

 恒一が言うと、

「あとで、ですわ」

 と紗雪は少しだけ得意げに返した。


 それから黒板を見て、席へ着く。


「ご注文は」

「帰りの白を」

「はい」

「それと」

 紗雪は少しだけ厨房の手元を見る。

「本日も、何かございますのでしょう?」

「……」

「その沈黙は当たりですわね」

「最近、ほんとに読まれてるな」

「最近は」

 紗雪は静かに言う。

「“次の皿”の空気くらいは、見えるようになってまいりましたもの」


 帰りの白を出しながら、恒一は少し迷った。

 まだ看板にするほど完成はしていない。

 だが、今日の出来はかなりいい。

 そして、こういう皿は“客の記憶の中でどう立つか”を見なければ完成しない。


「……紗雪さん」

 恒一が言う。

「はい」

「帰りの白のあとで」

「ええ」

「もう一皿、味見お願いできますか」

「……!」

 紗雪の目が少しだけ大きくなる。

「本日は、そのような気配を感じておりましたの」

「ほんとに?」

「ええ。今日はお二人とも、妙に“隠しているくせに隠せていない”お顔ですもの」

「ひどい言い方」

 澪が言う。

「事実ですわ」

「便利な言葉」

「本日は便利ですの」


 帰りの白のあと、試作の皿を三人分出した。


 薄い皿に、白濁茸のベースを低く張る。

 中央に角兎の腹肉を少し繊維が残るように置く。

 ごく薄く風縫いの脂を落とし、端に香ばしく焼いた薄いパンを一片だけ添える。


 見た目は派手ではない。

 むしろ静かだ。

 だが帰りの白より、少しだけ“食べるための輪郭”が強い。


「……」

 まずは澪が口にする。

「どう?」

 恒一が訊く。

「前よりかなりいい」

「かなり?」

「うん」

 澪は頷く。

「これ、白に寄りすぎてない」

「うん」

「でも店の系統はちゃんと繋がってる」

「……」

「前の試作より、“次に来る理由”になりそう」


 その表現は、かなり欲しかったものだった。


「紗雪さんは?」

 恒一が訊く。


 紗雪は、今日に限ってすぐには喋らなかった。

 スプーンでひと口、パンと一緒にもうひと口。

 それから、静かに息を吐く。


「……これ」

 彼女が言う。

「はい」

「かなり、危険ですわ」

「危険?」

「ええ」

 紗雪は真面目な顔で頷く。

「どういう意味で」

「“次もこれを食べたい”と思ってしまいますもの」

「……!」


 恒一は一瞬、言葉を失った。


 帰りの白は、“また帰ってきたい”と感じさせる皿だった。

 だがこの皿は、もっと直接的だ。

 次に来た時、これを食べたい。

 それは店にとって、かなり強い感情だ。


「いいじゃん」

 澪がぼそりと言う。

「かなり」

「うん」

「店ものとしては、かなり当たり」

「……」

「何ですの」

 紗雪が二人を見る。

「いや」

 恒一が答える。

「今のは、かなりうれしい感想だった」

「そう?」

「かなり」

「……それなら」

 紗雪は少しだけ頬を染めた。

「本日は、わたくしも役に立っておりますわね」

「かなり」

「最近その言い方好きだな」

「便利ですもの」


 そのやり取りをしながらも、三人とも皿へ視線を戻した。


「ただ」

 澪が言う。

「何」

 恒一が訊く。

「看板候補って言うには、もう一個だけ足りない」

「何が」

「名前」

「……」

「ああ」

 恒一も思わず頷く。

「確かに」

「名がないと、まだ“試作の良い皿”で止まる」

「そうですわ」

 紗雪も静かに言った。

「お店の皿は、名を持って初めて客の記憶へ残りやすくなりますもの」

「帰りの白も、そうだったしな」

「ええ」


 たしかにそうだ。


 帰りの白は、名を与えたことで店の中に居場所を持った。

 ただの白いスープではなく、玻璃亭の“帰りの白”になった。

 ならばこの皿も、どこかの時点で名前を持たなければならない。


「……でもまだ早い」

 恒一が言う。

「そう?」

 紗雪が首を傾げる。

「もうかなり形はある」

「あるけど」

「何が足りないんですの」

「名をつけると、逆に逃げにくくなる」

「……」

「本気で店の皿にする覚悟が要る」

「……」


 そう。

 名前をつけるというのは、単なるラベルではない。

 この皿を、今後の玻璃亭の看板候補として本気で背負うということだ。


 帰りの白は、祖父の記憶から引いた。

 だが今度の皿は、もっと“今の店”の責任が強い。

 だからこそ、軽くは決めたくない。


「……じゃあ」

 澪が言った。

「うん」

「今日か明日で、常連に一回だけ出してみれば」

「常連に?」

「うん。帰りの白を気に入ってる人」

「……」

「それで反応見てからでも遅くない」

「それは、かなり」

 恒一が頷く。

「いいかも」

「でしょ」

「ええ」

 紗雪も頷いた。

「お店の看板になるかどうかは、店の側の熱だけで決めることではありませんもの」

「客の記憶に残るかどうか」

「そうですわ」

「……」


 そこまで話した時、恒一はふと気づいた。


 この皿は、もう“次の可能性”ではなく、“看板候補”と呼べるところまで来ている。

 たしかにまだ名前はない。

 まだ一皿として決まりきってもいない。

 けれど、戻ってきた客が次に欲しがる皿になる可能性を、もう十分持っている。


 それは、かなり大きかった。


「……ねえ」

 紗雪が言う。

「何ですの」

 澪が返す。

「もし、ですわよ」

「うん」

「その皿が本当に看板になるのでしたら」

「うん」

「帰りの白と、少し対になる名前のほうがよろしい気もいたしますわ」

「対」

 恒一が繰り返す。

「ええ」

「どういう」

「帰るための白と」

 紗雪は皿を見つめる。

「戻ってきた先で食べたい、今の皿」

「……」

「その二つが、同じお店の中で並ぶのなら」

「……」

「少しだけ呼び合う響きがあったほうが、美しいですの」


 その発想は、たしかに紗雪らしかった。


 店を“物語としてどう見えるか”の視点だ。

 玻璃亭は今、ただ皿を増やすだけではなく、店の記憶そのものを増やしている。

 ならば、皿同士の呼び合いもまた、店の輪郭になる。


「……今日、かなり調子いいな」

 恒一が言う。

「当然ですわ」

 紗雪は少しだけ顎を上げる。

「本日は機嫌がよろしいと申し上げたでしょう?」

「理由、まだ聞いてない」

「……」

「何ですの」

「いや、そこ思い出した」

「……あとで、ですわ」

「やっぱりあるんだ」

「ございます」

「かなり気になる」

「困りますの」


 その言い方に、澪が少しだけ笑った。


 営業が始まる頃には、皿そのもの以上に、店の空気が少しだけ前を向いていた。


 白いものの危険は消えていない。

 見張りもいる。

 森の向こうの作業場も、確実にこちら側へ馴染もうとしている。


 それでも、店は新しい皿を生む。

 帰りの白だけでは終わらない。

 次の帰る味が、生まれかけている。


 その事実が、今の玻璃亭には何より強かった。

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