第45話 白い欠片を、皿にはしない
料理人というものは、たぶん業の深い人種だ。
朝倉恒一は、自分がそうであることを知っていた。
見たことのない食材を見れば、まず考える。
どう火を入れるか。
どう香りを残すか。
どう皿へ置けば、この食材がいちばん美しくなるか。
それは職業病のようなものだ。
良し悪しではない。
料理人である以上、避けようのない最初の反応に近い。
だからこそ、その反応そのものを自分で拒まなければならない瞬間があるのだと、恒一はこの数日で思い知らされていた。
営業前の玻璃亭で、古い冷蔵庫を見ながら、彼は静かに息を吐いた。
白いもの。
第二入口の先の小屋。
保冷材。
乾いて崩れていく欠片。
“こっちじゃ保たねえ”という男たちの声。
祖父の「白いものには近づくな」。
老紳士の急ぎ。
全部が揃っている。
危ないとわかる材料は、もう十分すぎるほどある。
なのに、森で落ちていたごく小さな欠片を思い出すたび、心の奥のどこかが、嫌なほど静かに問いかけてくる。
――あれを、料理にしたらどうなる。
「……最悪だな」
恒一は小さく呟いた。
「何が」
すぐ近くで澪の声がした。
火乃坂澪は、パンの仕込みに使う粉を量りながら、こちらを見ている。
最近の彼女は、恒一のちょっとした独り言も拾う。拾ってしまう距離にいるとも言える。
「いや」
恒一は少し迷ったが、隠しても仕方がないと思った。
「白い欠片」
「……」
「ほんの一瞬だけ」
「うん」
「料理人の頭で見た」
「……」
澪の手が、ぴたりと止まった。
それだけで、自分がどれほど危ういことを言ったかがわかる。
「……最低」
澪が言った。
「うん」
恒一は素直に認めた。
「かなり」
「うん」
「でも、見た」
「……うん」
「一瞬だけ、“どう火を入れたら”って思った」
「……」
澪は粉の入ったボウルを置いた。
怒る時ほど静かになる。
その気配だった。
「それ」
彼女が低く言う。
「うん」
「思った時点で、自覚できた?」
「……すぐに」
「本当に?」
「本当に」
「止めた?」
「止めた」
「どうやって」
「皿じゃない、って」
恒一は言う。
「……」
「これは、皿に乗せてはいけないものだって」
「……」
澪はまだすぐには何も言わなかった。
その沈黙が長く感じる。
だが、ここは言い訳をしてはいけないところだとわかっていた。
料理人だから。
未知の食材に心が動いたから。
そんなものは理由にならない。
むしろ、料理人だからこそ、最初に自分で線を引かなければならない。
「……ねえ」
しばらくして澪が言った。
「何」
「恒一ってさ」
「うん」
「皿にできそうなもの、全部、皿にしていいと思ってた?」
「……」
その問いは、思った以上に深く刺さった。
恒一はすぐに答えられなかった。
全部。
そう問われると、違う。
当然違うはずだ。
危ないものもある。毒もある。食べられても、食べるべきでないものもある。
なのに、なぜあの白い欠片に対して、ほんの一瞬でも“皿にできるか”の思考が走ってしまったのか。
「……たぶん」
恒一はゆっくり言った。
「森のものを、ここまでずっと“店を前に進める材料”として見てきたから」
「……」
「風縫いも、角兎も、白濁茸も、全部そうだった」
「うん」
「だから、白いものも、頭のどこかで同じ箱に入れそうになった」
「……」
「でも」
恒一ははっきり言った。
「違う」
「……」
「これは、違う」
「……うん」
澪はそこでようやく、小さく息を吐いた。
「ちゃんと違うって言えるなら」
彼女が言う。
「うん」
「まだ大丈夫」
「……」
「でも、忘れないで」
「うん」
「料理人の欲って、たぶん、こういう時一番危ない」
「……」
「“うまく扱えれば価値になる”って思っちゃうから」
「……」
「でも、価値にしちゃいけないものもある」
「……うん」
その通りだった。
価値があることと、皿にしていいことは違う。
店の役に立ちそうなことと、店が触れていいことも違う。
今までの森の食材は、その線の内側にいた。
だが白いものは、最初から外側にある。
「……ありがとう」
恒一が言う。
「何」
「言ってくれて」
「便利な」
澪が言いかけて、少しだけ眉を寄せる。
「……いや、今日はやめとく」
「珍しいな」
「今日はそこじゃない」
その返し方が、かえってありがたかった。
そこへ、足音がした。
少しだけ速く、けれど今ではかなり自然にこの店へ下りてくる足音。
東條院紗雪だ。
扉が開く。
「ご、ごきげんよう」
今日は薄い葡萄色のワンピース。落ち着いた色なのに、店へ入るとその人の輪郭だけがふわりと浮かぶように見える。
紗雪は一歩入ったところで、二人の顔を見て、すぐに何かを察したようだった。
「……本日は」
彼女が言う。
「うん」
恒一が答える。
「少しだけ、重いお顔ですわね」
「最近、隠せないな」
「隠そうともしていらっしゃらないように見えますもの」
「そこまで?」
「そのくらいですわ」
紗雪は席へ着いたが、今日はすぐに注文しなかった。
代わりに、少しだけ慎重に言葉を選ぶようにして訊く。
「何か」
「うん」
「よくないことを、お考えになりましたの?」
恒一は思わず目を瞬いた。
当てられた、というより、ここまで来るとこの人はもう“何があったか”までは読めなくても、“その類の空気”は読めるらしい。
「……」
短く黙る。
紗雪はそれで十分だと思ったようだった。
「そう」
彼女は小さく頷く。
「でしたら、先に申しておきますわ」
「何を」
「料理人の方は」
紗雪は静かに言う。
「時に、何でもかんでも“形にできる”と思いがちですのね」
「……」
澪が、隣で小さく吹き出しかけた。
「火乃坂さん」
紗雪がすぐに気づく。
「いえ」
澪はなんとか真顔を保つ。
「別に」
「別にではありませんわね」
「でも」
澪は肩をすくめた。
「今の、かなり合ってる」
「……」
恒一は額に手を当てた。
「そこまでわかりやすいか」
「かなり」
二人が同時に言った。
少しだけ空気がやわらぐ。
「で」
紗雪が言う。
「何を考えましたの」
「……白い欠片」
恒一は、結局まっすぐ言った。
「……」
「一瞬だけ」
「……」
「料理人の頭で見た」
「……!」
紗雪の表情が、わずかに強張る。
「……そう」
彼女は静かに言った。
「最低ですわね」
「うん」
恒一は素直に頷く。
「かなり」
「ですが」
紗雪はそこで視線を逸らさず、続ける。
「“考えた”ことと、“選ぶ”ことは別ですわ」
「……」
「今は、選びませんのね」
「選ばない」
恒一ははっきり言った。
「皿にはしない」
「……」
「これは、店のものじゃない」
「……」
紗雪はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと息を吐く。
「それなら」
彼女は言う。
「よろしいですわ」
「……」
「何でも料理にしてしまえる方が、料理人として優れているとは限りませんもの」
「……」
「むしろ」
紗雪は少しだけ目を細める。
「料理にしてはならないものを、自分で選び取れるほうが」
「……」
「店主としては、ずっと信頼できますわ」
その一言は、思っていたよりずっと救いになった。
料理人としての欲を否定されるのではなく。
その欲の線を、自分で引けるかどうか。
そこを見てくれる言葉だったからだ。
「……ありがとう」
恒一が言う。
「ですから」
紗雪は少しだけ頬を染める。
「そうやってすぐに礼を仰るのは困りますの」
「でも助かった」
「……そう」
「かなり」
「……かなり、ですの」
「うん」
そのやり取りを聞きながら、澪がぽつりと言った。
「今日は、私も同意」
「何に」
恒一が訊く。
「皿にしないって決めたこと」
「うん」
「それでいい」
「……」
「っていうか」
澪は少しだけ視線をずらす。
「ここで線引けなかったら、私ほんとに怒ってた」
「もう十分怒ってただろ」
「まだ入口」
「怖いな」
「必要だから」
必要だから。
最近、その言葉に何度も救われている気がした。
営業が始まる頃には、恒一の中のざわつきはだいぶ静かになっていた。
白いものは、料理にしない。
店の皿にはしない。
その線を自分で引けたことは、たぶん小さくない。
境界の森のすべてが店の未来になるわけではない。
むしろ、店を守るためには、触れないと決めることも必要だ。
その当たり前を、ようやく自分のものとして言えるようになり始めたのかもしれない。




