第44話 紗雪、祖父に問う
大事なことほど、真正面からは聞きにくい。
東條院紗雪は、そのことを昔から知っていた。
祖父は寡黙な人だ。
冷たいわけではない。
むしろ、必要なところでは驚くほど細やかで、見ていないように見えて、じつはよく見ている。
けれど、その“見ている”ことを言葉で渡すのは、あまり得意ではない人だった。
だから家の中には、昔からいくつもの“聞かないこと”があった。
今は忙しいのだろう、と流すこと。
今は答えが返らないだろう、と飲み込むこと。
今ここで踏み込めば、たぶん祖父は少しだけ遠くなる、と感じること。
そういう距離感の上で、紗雪はこの家の空気を読んで生きてきた。
けれど最近、その距離感だけでは足りなくなっている。
地下の店。
境界。
搬出。
白いもの。
そして、“店である限り守る”という祖父の気配。
玻璃亭が帰る場所のひとつである以上、何も知らないまま頷いているだけではいられなかった。
その日の夕方、紗雪は祖父の書斎の前で立ち止まっていた。
重い扉。
深い色の木目。
廊下へこぼれる灯りは細く、静かだ。
中から声はしない。来客もいないらしい。
「……」
深く息を吸う。
それだけで、少し胸が鳴る。
聞くこと自体が怖いわけではない。
怖いのは、答えによっては、もう今まで通りの“知らないふり”へ戻れなくなることだ。
けれど、今さら戻れるとも思えなかった。
紗雪は扉を二度、軽く叩いた。
「お祖父様」
「入りなさい」
返事はすぐだった。
いつも通り、低く静かな声。
中へ入る。
書斎は相変わらず整っている。
壁一面の本棚。
大きすぎない机。
余計な飾りのない照明。
祖父はその机の向こうに座り、書類を閉じたところだった。
「どうしました」
老紳士は言う。
「少し、お時間をいただけますか」
「もちろん」
祖父は椅子へ深くもたれず、ただ視線だけを向けた。
「何かありましたか」
その“何かありましたか”の響きだけで、紗雪はわかった。
祖父はもう、ある程度察している。
自分が何もない顔でここへ来たのではないことを。
「……玻璃亭のことです」
紗雪は言った。
祖父の表情は大きく変わらない。
だが、机の上に置かれた指先が、ごくわずかに止まった。
「そうですか」
「はい」
「何を聞きたいのです」
「……」
そこが一番難しかった。
何を、どう問えばいいのか。
地下の店とは何ですの、では広すぎる。
境界とは何ですの、でも答えは返らないだろう。
白いものは何ですの、と正面から言えば、たぶん祖父は目を閉じる。
だから紗雪は、一番知りたい形に絞った。
「玻璃亭は」
彼女は静かに言う。
「ええ」
「まだ、守るべき場所なのですか」
その問いは、短く、けれど重かった。
祖父はすぐには答えなかった。
紗雪も急かさない。
書斎の中には時計の音もない。
ただ、二人の呼吸だけが静かに往復する。
やがて、老紳士はゆっくりと言った。
「まだ、とは」
「……」
「終わりが見えている物に対する言い方にも聞こえます」
「……そのような意味ではありません」
「そうですか」
「ですが」
紗雪は少しだけ唇を引き結ぶ。
「今の家の空気を見ておりますと」
「……」
「“昔からある大事な店”というだけではない何かが、動いているように思えますの」
「……」
「ですから」
彼女は視線を逸らさず言った。
「今でも、守るべき場所なのかと、お聞きしたいのです」
今度の沈黙は、少しだけ長かった。
祖父は、娘や孫に対してあからさまに感情を見せる人ではない。
けれど今は、その沈黙自体が、質問を軽んじていないことの証明にも見えた。
「守るべきです」
やがて祖父は言った。
それは、驚くほど迷いのない答えだった。
紗雪は小さく息を呑む。
「今も?」
「ええ」
「昔と同じ意味で?」
「同じではありません」
老紳士は静かに首を振った。
「店というものは、人が変われば意味も少しずつ変わる」
「……」
「ですが、守るべき場所であることに変わりはありません」
「……そう」
紗雪の胸の奥で、何かが少しだけほどけた。
祖父は守る気でいる。
そこまではっきり言った。
それだけで、今夜ここへ来た意味はあった。
けれど同時に、その答えは別の不安も呼ぶ。
「では」
紗雪が続ける。
「お祖父様は、これからも玻璃亭をお守りになるのですね」
「……」
祖父は今度は、わずかに視線を伏せた。
「店である限りは」
「……!」
その一言は、予想していたよりずっと鋭かった。
店である限り。
それは守るという宣言でもあり、条件でもある。
「それは」
紗雪は慎重に言葉を選ぶ。
「逆に申しますと」
「ええ」
「店でなくなれば、守れない……ということですか」
「守れない、ではなく」
老紳士は静かに言った。
「守る意味が変わる、というべきかもしれません」
意味が変わる。
その言い方が、かえって怖い。
玻璃亭は今、料理店だからこそ守られている。
誰かが帰ってくる場所であり、火が絶えず、客が座り、皿が出るからこそ、“守るに値する場所”として立っている。
もしそれが失われたら、店は店ではなくなる。
そうなれば、もう祖父の守り方も変わるのだろう。
「……」
紗雪は一度、目を伏せた。
その意味はわかる。
そして同時に、祖父がこれ以上はっきり言えない理由も少しわかる。
守るべきは建物ではない。
店という営みそのものなのだ。
「お祖父様」
紗雪は小さく言った。
「何です」
「わたくしは」
そこで少しだけ言葉に詰まる。
「……玻璃亭が、帰る場所のひとつなのです」
「……」
「ですから」
「……」
「店でなくなるのは、困ります」
言ってから、頬が少し熱くなる。
祖父に対して、あまりに個人的な言い方だったかもしれない。
けれど、それが一番本当だった。
老紳士は紗雪をまっすぐ見た。
その視線は厳しくも優しくもない。ただ、驚くほど静かだった。
「知っていました」
祖父が言う。
「……」
「お前があの店へ通っていることも」
「……」
「昔の記憶だけではなく、今の店を見ていることも」
「……」
「だからこそ、軽々しく近づくなとも言っているのです」
その声は叱るものではなかった。
むしろ、危ういものへ手を伸ばす前に止めておきたい人間の声だった。
「ですが」
紗雪は顔を上げる。
「何も知らないままでは」
「ええ」
祖父は頷く。
「それも、もう難しいのでしょう」
そう言ってから、ほんの少しだけ息をついた。
疲れではない。
観念に近い、静かな吐息だった。
「紗雪」
「はい」
「今の玻璃亭は、まだ店です」
「……」
「それを支えている者たちがいる」
「……ええ」
「ならば」
老紳士は言う。
「今、お前が見るべきは、まず店の外側です」
「外側」
「ええ」
「……」
「誰が見ているか」
「……」
「何が変わり始めているか」
「……」
「お前には、その役目が向いている」
その言葉に、紗雪は一瞬だけ目を瞬いた。
役目。
祖父が自分へ、そういう言葉を使うのは珍しい。
「わたくしが」
「ええ」
「店の外側を」
「見なさい」
祖父は静かに言った。
「ただし」
「……」
「自分が見られていることも忘れぬように」
「……はい」
そこには、信頼と警告が同時にあった。
書斎を出る時、紗雪は扉の前で一度だけ振り返った。
「お祖父様」
「何です」
「……ありがとうございます」
「礼には及びません」
老紳士はすぐに言った。
「まだ、何も終わっておりませんので」
その言葉は、妙に玻璃亭らしいと思った。
終わっていない。
だからこそ、今は続けるしかない。
その夜、紗雪は玻璃亭へ向かった。
階段を下りる。
地下の灯りが見える。
扉の向こうには、いつもの匂いがある。
鍋とパンと木と、少しだけ白い湯気の匂い。
扉を開く。
「ご、ごきげんよう」
恒一と澪が、ほとんど同時にこちらを見た。
「いらっしゃいませ」
恒一が言う。
「ええ」
紗雪は頷く。
「本日は」
「うん」
「祖父に、問いかけてまいりましたわ」
その一言で、店の空気が少しだけ変わる。
帰りの白が出される前に、紗雪は先に言った。
「祖父は」
彼女は静かに続ける。
「“店である限り守る”と申しましたの」
「……」
恒一も澪も、すぐには返せなかった。
「やっぱり」
澪が先に言う。
「うん」
紗雪が頷く。
「そして」
彼女は少しだけ視線を落とす。
「店でなくなれば、守る意味が変わるとも」
「……」
「つまり」
恒一が低く言う。
「やっぱり、まず店なんだな」
「ええ」
紗雪ははっきり頷いた。
「わたくしも、そう受け取りましたわ」
それは、今まで積み上げてきたものの再確認でもあり、次の一歩への背中押しでもあった。
玻璃亭は、店でなければならない。
帰る場所であり続けなければならない。
境界に触れていようと、そのことは変わらない。
そして今、その“店であること”を守るために、三人がそれぞれ立つ位置も、少しずつ形になってきていた。




