表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『銀座の地下にある小さな店は、異世界で狩った食材でできている。祖父の遺したレストランを再建していたら、無口な狩り相棒と悪役令嬢みたいな常連お嬢様が今日も帰ってくれない』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

43/55

第43話 第二入口の向こうに、人の温度

 森の中でいちばん怖いのは、獣の気配ではないのかもしれない。


 朝倉恒一は、第二入口の切れ目へ向かう朝の道すがら、そんなことを考えていた。


 獣なら、まだわかる。

 匂いがある。

 足跡がある。

 警戒の仕方も、逃げるべき時も、ある程度は理屈に落とせる。


 だが人間は違う。


 人間は痕跡を消そうとする。

 消しきれない痕跡だけが残る。

 しかも、その痕跡には生活の熱が混じる。

 荷を置いた位置。火を使った順番。布の畳み方。急いだ時の雑さ。そういう“人の温度”が残る。


 そして、その温度が森に混じり始めると、そこはもうただの異世界の景色ではいられない。


 営業前の短い時間。

 恒一と澪は、いつものように石段を下りていた。


 今日は森へ入る前から、澪の顔が少しだけ硬い。


「そんなに嫌な感じ?」

 恒一が小声で訊く。

「嫌」

 火乃坂澪は即答した。

「即答だな」

「即答するくらい」

「何が」

「昨日までより、“使われてる場所”になってる感じ」

「……」

「言語化むずい」

「でも、わかる気はする」

「でしょ」


 第二入口の先へ向かう道は、もう“自然に見える不自然”の領域に入っていた。


 木々の間にできた細い通路。

 払われた枝。

 踏み締められた土。

 そして時々落ちている、こちら側の世界の繊維や小さな人工物。


 何度見ても、森の一部には見えない。

 それが余計に気味悪かった。


「今日は」

 澪が言う。

「うん」

「小屋まで近づかない」

「昨日も近づいてないだろ」

「もっと手前で止まる」

「……」

「温度だけ見る」

「温度?」

「使い方の痕跡」

「……なるほど」


 言われてみれば、その通りだ。

 白いものそのものに意識を奪われすぎると、肝心の“人がここをどう使っているか”を見失う。


 第二入口の切れ目を抜ける。


 そこから先は、もう明らかに“手が入った森”だった。


 前回見た小屋は、今日も布が下がっている。

 だがその手前の地面には、新しくできた浅い轍のような跡があった。箱の角ではなく、もう少し幅のある何かを引いたような跡だ。


「……」

 恒一がしゃがみ込む。

「何」

 澪も隣にしゃがむ。

「これ、前なかった」

「うん」

「荷車……ではないよな」

「車輪跡じゃない」

「板?」

「かも」

「……」


 さらに少し先を見ると、小屋の脇に積まれていたはずの木箱が一つ減っていた。

 代わりに、平たい布包みのようなものが二つ、地面へ直接置かれている。


「雑」

 澪がぼそりと言う。

「前より?」

「うん」

「焦ってるから?」

「それもある」

「……」

「でも」

 澪は目を細めた。

「人が長くいる前提の置き方になってる」

「どういうこと」

「仮置きじゃない」

「……」

「“あとでまた触るから、とりあえずここ”の置き方」

「……」


 それは妙に嫌な表現だった。


 つまり、ここは一時的な通路ではない。

 すでに“使う場所”として定着し始めているということだ。


 しかも、その定着はかなり生活寄りだ。


 少し左を見ると、木の根元に黒く煤けた跡がある。

 火を使ったのだろう。

 料理の火ではない。

 布か、器具か、何かを温めたか乾かしたかするための、実務的な小さな火だ。


「火、使ってる」

 恒一が言う。

「うん」

 澪が頷く。

「前はなかった」

「だよな」

「人が長くいるなら、そりゃ使う」


 さらにその近くには、乾いた布が木の枝へ引っかけられていた。

 雨よけか、手拭きか、あるいは何かを包んでいたものか。

 とにかく、“一度置いて終わり”ではない。


「……人の温度あるな」

 恒一が低く言う。

「うん」

 澪も返す。

「嫌な意味で」


 森の中に、人の温度がある。

 それは町や家の安心するような温度ではなく、侵入者の居座り方に近い。

 少しずつ自分たちの都合へ場所を馴染ませていく温度。


 その時、恒一の鼻に微かな匂いが引っかかった。


「……待て」

「何」

「匂い」

「白いの?」

「違う」

「じゃあ何」

「油」

「……」


 二人は同時に顔を上げる。


 白いものの冷たさとは別に、こちら側の世界でしかほぼ嗅がない種類の油の匂いがある。

 機械油ほど強くはない。

 だが金属器具を手入れした時のような、乾いた薄い油の残り香だ。


「道具持ち込んでる」

 澪が言った。

「うん」

「しかも、結構ちゃんと」

「……」


 それは、単なる荷運び以上の話だ。


 箱を持って往復するだけなら、ここまで場所は“作られない”。

 火を使い、布を干し、道具を手入れし、仮置きの位置が固定される。

 そこまで来ると、もう小規模でも“作業拠点”だ。


 つまり向こうの連中は、店の下の境界を一時的な抜け道ではなく、継続的に使う前提で整え始めている。


「……かなり嫌だな」

 恒一が言う。

「うん」

 澪が頷く。

「店の下が、“使われる場所”として馴染んでいくの」

「……」

「だから、早めに止めないと」


 その言い方に、恒一は小さく息を吐いた。


 止める。

 何をどう止めるのかは、まだ答えがない。

 だが少なくとも、もう“様子を見るだけ”ではいられない段階に近づいているのは確かだった。


 その時、小屋の奥から低い声が一つ聞こえた。


 二人は反射的に身を低くする。


「……乾いてきてる」

 男の声。

「だから急げって言ってる」

 別の男が返す。

「次の分は?」

「夜」

「保つか?」

「保たせるしかねえだろ」


 会話は短い。

 だが、それだけで十分だった。


 乾いてきている。

 つまり白いものは、境界のこちら側で時間が経つほど“死ぬ”のか、“変質する”のか、とにかく別の状態へ寄っていく。

 だから急ぐ。

 だから保たせる。

 そして、そのためにこの小屋が使われている。


 男たちの姿は完全には見えない。

 だが、一人は小屋の中に留まり、もう一人は入口の近くで何かを確認しているようだった。


「戻る」

 澪が囁く。

「うん」


 今日は十分だった。


 ここはもう、通路ではない。

 人が継続的に使う小さな作業場だ。

 そして白いものは、こちら側へ近づくほど弱る。

 だからこそ、向こうは焦っている。


 その情報だけで、店へ持ち帰る意味は大きい。


 来た道を戻る。

 石段を上がり、冷蔵庫の底板を閉じる。

 厨房の空気へ戻ると、澪がすぐに言った。


「もう“通る”じゃない」

「うん」

 恒一が頷く。

「居る」

「うん」

「向こう、あそこを使って作業してる」

「そうだな」

「しかも、慣れ始めてる」

「……」

「嫌」

「かなりな」


 恒一は古い冷蔵庫を見た。


 この下にあるのは、祖父が知っていた境界の森だ。

 だが、その森の一部は、もう知らない人間たちの温度で薄く汚され始めている。

 それがどうしようもなく腹立たしかった。


「……ねえ」

 澪が少し間を置いて言う。

「何」

「これ、店のためにも、早めに表の手打ったほうがいい」

「表?」

「うん」

「普通の店の顔、もっと強くするほう」

「……」

「向こうが“使う場所”として馴染ませるなら」

「うん」

「こっちはこっちで、“ちゃんと人が帰ってくる店”として馴染ませたほうがいい」

「……」

「どっちが先に輪郭を取るか、みたいになってきてる」


 その発想は、かなり今の状況を言い当てていた。


 向こうは裏口として馴染ませようとしている。

 こちらは店として馴染ませ続けるしかない。


 どちらの意味でこの場所が固定されるか。

 そのせめぎ合いが、もう始まっているのだ。


 営業が始まる頃、紗雪が来た。


 今日は入ってきた瞬間に、すぐ顔を見て言った。

「……見ましたのね」

「うん」

 恒一が答える。

「本日は、かなりそのお顔ですわ」

「最近そればっかりだな」

「必要ですもの」

「そうだな」


 営業後に伝えた内容を、紗雪は黙って聞いた。


 小屋が通路ではなく、作業場に近づいていること。

 火を使った痕。

 乾いた布。

 工具用の油の匂い。

 男たちが“保たせるしかねえ”と言っていたこと。


 話し終わったあと、彼女はしばらく何も言わなかった。

 そして、ゆっくりと口を開く。


「それは」

 紗雪が言う。

「うん」

「かなり、嫌ですわね」

「……」

「嫌、という言い方では足りないのかもしれませんけれど」

「わかる」

「森の向こうにあるだけなら、まだ“向こうの出来事”と思えますの」

「うん」

「けれど」

 彼女は静かに続ける。

「火を使い、布を干し、物を置く位置が決まり始めているなら」

「……」

「それはもう、“居着こうとしている”のと同じではなくて?」


 その表現が、あまりにしっくりきて、恒一はすぐに返せなかった。


 居着こうとしている。


 まさにそうだ。

 向こうの連中は、境界のこちら寄りの場所を、使い捨ての通路ではなく、自分たちの手に馴染む場所へ変え始めている。


 それだけは、絶対に許してはいけない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ