第40話 新しい皿は、今の客のために
店が危うい時ほど、料理の話をするのは正しいのかもしれない。
朝倉恒一は、営業前の厨房でそう思っていた。
境界の森。
第二入口。
白いもの。
老紳士の珍しく切迫した警告。
店の外を見張る者たち。
どれも無視できない。
どれも、この店の下へ現実としてぶら下がっている。
けれど、それらに気を取られて皿が止まった瞬間、この店は一番大事なものを失う。
玻璃亭はまず、料理店でなければならない。
それが祖父の帳面を読んでなお、今の恒一が手放せない結論だった。
だからこそ、その日の午前、恒一は白濁茸と角兎の腹肉、それに少量の風縫いの脂を前にしていた。
帰りの白に続く皿。
“帰るため”だけではなく、“また来るため”の一皿。
記憶へ触れるだけではなく、今の客を次へ引っ張る皿。
帰りの白が静かな灯なら、その次は、もう少し今の店の熱を持った皿であるべきだ。
だが派手すぎてはいけない。
綺麗すぎても違う。
この店らしい、少しだけ不揃いな偏りが要る。
「……また、止まってる」
澪が言った。
火乃坂澪は、パンの成形をしながらこちらを見ている。
最近、彼女の“止まってる”指摘はかなり正確だ。
「最近ずっと言われてるな、それ」
恒一が返す。
「最近ずっと止まってるから」
「今日は料理で止まってる」
「それはむしろ正常」
「森じゃなくて?」
「今日は半分だけ」
「半分残ってるじゃねえか」
「そりゃ残るよ」
「便利な」
「その言葉は最近みんな使いすぎ」
澪はそう言ってから、真面目な顔へ戻った。
「で、今日はどこが止まってるの」
「この皿」
「帰りの白の続き?」
「うん」
「まだ白に引っ張られてる?」
「ちょっと」
「じゃあ、一回白から離れれば」
「離れる?」
「白濁茸を主役にしすぎない」
「……」
「帰りの白の次なら、同じ系統って思い込みすぎると弱い」
「たしかに」
「“次の帰る味”なんだから、別の入口でもいい」
その言い方は、なるほどと思わせるものがあった。
帰る味は一つでなくてよい。
祖父の言葉を、そのまま皿へ落とすなら、帰りの白の延長線だけを探すのは少し違うのかもしれない。
そこへ、足音がした。
少しだけ速く、けれど今ではかなり自然にこの地下へ下りてくる足音。
東條院紗雪だ。
扉が開く。
「ご、ごきげんよう」
今日は淡い薄茶のワンピースに、細い紺のリボンだけ。落ち着いているのに、店へ入った瞬間の空気は少しだけ軽かった。昨夜、祖父の“急ぎ”を受け取ったあとでも、この店へ来ること自体をためらわなかったのだろう。そのことが、なぜか恒一には少しうれしかった。
「いらっしゃいませ」
恒一が言う。
「ええ」
紗雪は頷き、すぐに厨房の手元を見る。
「本日は、お顔より先に、手元が止まっておりますわね」
「そこまで見えるのか」
「最近は」
紗雪は少しだけ得意げに言う。
「そのくらいなら」
「便利な」
三人とも同時に言いかけて、少しだけ空気がやわらいだ。
紗雪は席へ着く前に、黒板を見た。
「本日も変わらずですのね」
「うん」
恒一が答える。
「でも、裏では少し変えようとしてる」
「やはり」
紗雪は小さく頷く。
「次のお皿、ですわね」
「……」
「当たりですわ」
「もう完全に読まれてるな」
「客ですもの」
「今日はその言葉、使うの早いな」
「本日は調子がよろしいのです」
その返し方も、だいぶこの店に馴染んでいる。
帰りの白を出したあと、恒一は思い切って言った。
「もしよければ」
「はい」
「今日も少し、味見役お願いできますか」
「……!」
紗雪の目がわずかに大きくなる。
「わたくしに?」
「うん」
「また」
澪が横から言う。
「かなり役に立ってるし」
「火乃坂さんまで……」
「何」
「そうやって当然のように仰られますと」
「嫌?」
「……嫌ではありませんわ」
紗雪は少しだけ頬を染めながら言う。
「でしたら」
「うん」
「本日は、かなり真面目に務めますの」
味見用の小皿を三つ用意した。
一つ目は、白濁茸をベースに角兎の腹肉を細かく裂いて沈めたもの。
二つ目は、そこへ風縫いの脂をほんの少しだけ落としたもの。
三つ目は、さらに香ばしく焼いた薄いパンを添え、食感の差をつけたもの。
どれもまだ名前はない。
だが、店の未来になるかもしれない皿たちだ。
まずは澪が味を見る。
「一個目」
「うん」
「悪くない」
「でも?」
「ちょっと優等生」
「……」
「二個目」
「うん」
「風縫いの脂で少し店っぽくなる」
「店っぽく」
「癖が出る」
「うん」
「三個目」
「……」
澪はパンを少し割り、スプーンで掬って食べた。
「これ、かなりいい」
「ほんと?」
「うん」
「何が変わる」
「口の中で“料理になる感じ”が出る」
「……」
その表現は、かなりしっくりきた。
帰りの白は、飲むことで静かに届く皿だ。
だが次の皿は、“食べることで店へ残る皿”になるべきなのかもしれない。
「紗雪さんは?」
恒一が訊く。
「ええ」
彼女は小さく頷き、まず一個目を口にする。
「……綺麗ですわ」
「でも?」
恒一がすぐに続けると、紗雪は少しだけ睨んだ。
「先回りなさらないでくださいまし」
「すみません」
「ですが」
紗雪は続ける。
「綺麗すぎますの」
「やっぱり」
「ええ。このお店の次の皿、というより」
「うん」
「どこか、よそのお店の綺麗な試作に見えますわ」
「……」
「二個目は」
彼女は二皿目を口にする。
「少し、玻璃亭ですの」
「玻璃亭?」
「ええ。静かすぎず、少しだけ偏っている」
「偏り」
「褒めておりますのよ」
「最近その“偏り”好きだな」
「この店には必要ですもの」
そして三皿目。
紗雪は薄いパンを指先で割り、スプーンと一緒に口へ運んだ。
一口、二口。
少しだけ目を伏せて、ゆっくり飲み込む。
「……」
「どうですか」
恒一が訊く。
「これ」
紗雪は静かに言った。
「はい」
「帰る味、というより」
「うん」
「“戻ってきた先に食べたい味”ですわ」
「……!」
その言葉に、恒一は思わず息を止めた。
戻ってきた先に食べたい味。
まさに欲しかった表現だった。
帰りの白が“ここへ戻るための灯”なら、こちらは“戻ったあとに店へ腰を落ち着けるための一皿”になれるかもしれない。
「いいじゃん」
澪が言う。
「かなり」
「うん」
「白の続きではあるけど、ちゃんと別」
「……」
「帰りの白だけだと、少し綺麗にまとまりすぎる」
紗雪が続ける。
「ええ」
「でも、これは食感が入るぶん、今の店の熱がありますの」
「……」
「何ですの」
「いや」
恒一は少し笑う。
「二人とも、言うこと近いなって」
「当たり前でしょ」
澪が言う。
「皿見てるんだから」
「でも、言い方は違いますわ」
紗雪も負けじと言う。
「そこは譲れませんの」
「何を競ってるんだ」
「別に競ってない」
「競っておりませんわ」
「そうかよ」
そのやり取り自体が、妙に今の店らしかった。
味見が終わったあとも、三人で少しずつ微調整をした。
パンはもう少し薄くていい。
角兎の腹肉は、細かく裂きすぎず、少しだけ繊維を残したほうが“食べている感じ”が強い。
風縫いの脂は、ごくわずかでいい。前に出しすぎると帰りの白の影が消える。
白濁茸のベースは静けさを保ちつつ、塩の輪郭をほんの少しだけ立たせる。
料理の話をしている間だけは、境界の森の白いものが少し遠くなる。
いや、完全には遠くならない。
むしろ、あちら側の不穏さがあるからこそ、こちら側で“皿をちゃんと作る”ことの意味が、前より鮮やかになるのかもしれない。
「……名前は」
澪が言った。
「まだ早い」
恒一が答える。
「でも、仮でも要るよ」
「そうですわ」
紗雪も頷く。
「名がないと、輪郭が定まりませんもの」
「二人ともそこは同じなんだな」
「だって必要」
「必要ですわ」
結局その場では決まらなかった。
だが、皿の形はかなり見えた。
営業が始まる頃には、恒一の中に久しぶりの手応えがあった。
店は危うい。
外には見張りがいる。
森の向こうでは、白いものが運ばれ、弱り、急がれている。
老紳士は急ぎ、祖父の帳面は警戒を示している。
それでも、店は前へ進める。
新しい皿を作ること。
帰る味を増やすこと。
今の客のために、今の店の熱を皿に残すこと。
それは、守ることと同じ意味を持ち始めていた。




