第39話 老紳士、珍しく急ぐ
静かな人が急ぐ時ほど、空気は大きく揺れる。
東條院の老紳士――紗雪の祖父は、まさにそういう人だった。
声を荒らげることは少ない。
慌てて歩くこともない。
店へ来ても必要以上のことは言わず、料理を食べ、短く一言だけ残して帰る。
その静けさそのものが、この人の力の一部なのだと、朝倉恒一もだいぶわかるようになってきていた。
だからこそ、その人が“少しでも急いでいる”とわかった時、それは言葉以上の重みを持つ。
営業前の玻璃亭で、恒一は黒板の前に立っていた。
本日のおすすめ
角兎の赤ワイン煮込み
帰りの白
季節の小皿あり
文字を見つめる。
最近は、こうして営業前の空気を整える時間が前より大事になっていた。店の見え方を整えることは、そのまま店の防御にもなる。秘密に近づくものが増えれば増えるほど、表の顔を乱してはいけない。
「今日は少しマシ」
澪が言った。
火乃坂澪は、帰りの白のベースを静かに温めながらこちらを見ている。
最近の彼女は、恒一の顔色の採点が日課になっていた。
「少し、か」
恒一が苦笑する。
「少し」
澪は即答した。
「でも昨日よりはちゃんと店主」
「昨日は?」
「森に引っ張られた料理人」
「ひどいな」
「事実だから」
「便利な言葉」
「便利なので」
そのやり取りに、少しだけ肩の力が抜ける。
昨夜、白いものが“こちら側では保たない”とわかった。
そして、それでもなお誰かが無理に搬出しようとしていることも、男たちの言葉ではっきりした。
事態は一段進んでいる。
だが、だからといって店まで一緒に崩しては意味がない。
そこへ、扉の外から聞こえるはずのない時間帯に、足音がした。
ゆっくり。
だが、迷いなく。
そして、一人。
恒一と澪が同時に顔を上げる。
扉が開いた。
「こんばんは」
老紳士だった。
まだ開店前だ。
いつもの時間よりも、だいぶ早い。
濃紺のスーツ。整えられた白髪。
見た目はいつもと同じだ。
けれど、入ってきた時の空気が違った。静かではある。だが、その静けさの内側に、わずかな切迫がある。
「こんばんは」
恒一が言う。
「お早いですね」
「ええ」
老紳士は短く答えた。
「少しだけ、店主殿へお話がありまして」
店主殿。
その呼び方をされた時点で、これはただの常連としての来店ではないとわかった。
恒一は一度だけ澪を見る。
澪も小さく頷いた。聞いておくべきだ、という顔だ。
「まだ開店前ですが」
恒一が言う。
「大丈夫です」
老紳士は店内へ視線を流す。
「短く済ませます」
奥の席へ案内する。
だが、老紳士は座らなかった。
テーブルに手を置くこともなく、ただ立ったまま、恒一を見る。
それだけで十分に“珍しい”ことだった。
「最近」
老紳士は静かに言った。
「はい」
「夜の出入りは、少し減らしたほうがよろしい」
「……」
恒一は一瞬だけ言葉を失う。
「それは、店の営業を?」
「そこまでは申しません」
老紳士は首を振った。
「ただ、閉店後に店へ残る時間。あるいは、夜更けの動き方について」
「……」
「今までより慎重であるべきです」
言葉は穏やかだ。
だが、そこに曖昧さはあまりない。
できればそうしたほうがいい、ではなく、今はそうすべきだという響きだった。
「何か、動いていますか」
恒一が訊く。
老紳士はすぐには答えなかった。
代わりに、店の奥――冷蔵庫のあるほうへ一瞬だけ視線を流し、それからまた戻す。
「動いております」
彼は言った。
「……」
「そして、私の側で抑えられる範囲も、以前より狭くなってきました」
「……!」
その一言が、想像以上に重かった。
老紳士は、今まで完全に頼れる人間ではなかったにせよ、“少なくとも店が今すぐ潰されない程度には守っている人”ではあった。
その人が、自分の守りの範囲が狭くなってきたと認める。
それはつまり、確実に状況が悪くなっているということだ。
「……おじいさん」
澪が厨房の内側から声をかけた。
「何か」
老紳士は目だけで応じる。
「“普通の客”にも見えるくらいにはなってる」
「ええ」
老紳士は頷いた。
「それは承知しております」
「……」
「ですからこそ、急いでおります」
澪はそれ以上言わなかった。
だが、その横顔はかなり固い。
「では」
恒一が言う。
「今、一番優先すべきことは」
「店であることです」
老紳士は即答した。
迷いのない答えだった。
「店であること」
「ええ」
「……」
「この店が料理店として立っている限り、守る理由がある」
老紳士は言う。
「だが、店として弱れば、外から見ても“別の意味”が前へ出てくる」
「……」
「それは避けたい」
それは、祖父の帳面とも、紗雪の言葉とも、三人で決めた方針とも繋がる。
店であること。
それが、すべての前提なのだ。
「それと」
老紳士は少しだけ声を落とした。
「夜更けの森は、今しばらく避けたほうがよい」
「……」
「理由は」
恒一が問うと、
「まだ申し上げられません」
と老紳士は答えた。
「ですが」
「……」
「あなた方が今、知らずに触れぬほうがよいものが、あそこにはあります」
白いもののことだろう。
その言い方で十分わかった。
しかも、“ある”ではなく、“今しばらく”と言った。
つまり状況は固定ではなく、動いている。
だから急いでいる。
「……わかりました」
恒一が言う。
「本当に?」
老紳士が静かに問う。
「……」
その問いは、年長者の念押しではなかった。
店主として、今の自分がどこまで自制できるかを見ている問いだった。
「わかりました」
恒一は、今度ははっきりと言った。
「店を優先します」
「……」
「森も、線を越えません」
「……そうですか」
老紳士はそこで初めて、ほんのわずかに息を緩めたように見えた。
「紗雪には」
彼が言う。
「はい」
「今夜は何も言わぬつもりでしたが」
「……」
「もし来たなら、店の外側をよく見ておくようにとだけ伝えてください」
「紗雪さんに?」
「ええ」
「危なくないですか」
「危なくないとは申しません」
老紳士は静かに答える。
「ですが、あの子はもう、何も知らぬままではおれぬでしょう」
「……」
「それは、あなた方も同じかもしれませんが」
そう言い残して、老紳士は席には座らず、そのまま帰ろうとした。
「食事は」
恒一が思わず言う。
「また改めます」
老紳士は振り返りもせずに言う。
「今夜は、そのために来たのではありませんので」
そのまま階段を上がっていく。
扉が閉まり、店内に静けさが戻る。
だが、その静けさはさっきまでと少し違った。
何も起きていない夜の静けさではなく、何かが近づいていると知ったあとの静けさだ。
「……かなりだね」
先に言ったのは澪だった。
「うん」
恒一が頷く。
「おじいさんが、あそこまで言うの珍しい」
「うん」
「しかも、“今しばらく避けろ”」
「かなり嫌」
「私も」
恒一は、黒板の文字を見た。
帰りの白。
角兎の煮込み。
季節の小皿。
普通の客から見れば、それはただの今日のおすすめだ。
けれど、その並びを保つことが、今は何よりの防波堤になっている。
「……店」
恒一が呟く。
「うん?」
澪が振り返る。
「やっぱ、ここなんだな」
「そうだね」
「店をちゃんとやることが、一番の対抗策」
「そう」
「腹立つくらい地味だけど」
「でも、一番効くんじゃない?」
「……たぶん」
そこへ、また足音がした。
少しだけ速く、少しだけ整えきれない緊張を含んだ足音。
東條院紗雪だ。
扉が開く。
「ご、ごきげんよう」
今日はいつもより少しだけ呼吸が浅かった。
祖父とすれ違ったのだろう。
あるいは、家を出る前から何か感じていたのかもしれない。
店へ一歩入るなり、紗雪はすぐに訊いた。
「……祖父が、参っておりましたわね」
「うん」
恒一は隠さず答えた。
「何か」
紗雪は少しだけ息を整える。
「申しましたの?」
恒一と澪は、一瞬だけ目を合わせた。
老紳士の言葉をどこまで伝えるか。
だが、さっき本人が言った。
もし来たなら、店の外側をよく見ておくようにと。
「外を」
恒一が静かに言う。
「はい」
「今までより、よく見ていてほしいって」
「……」
紗雪は一瞬だけ目を見開いた。
「祖父が?」
「うん」
「……そう」
それだけで、彼女は何かを察したらしかった。
さらに何か問いたそうにしながらも、すぐには聞かない。
その代わり、小さく頷いて言う。
「わかりましたわ」
「……」
「本日は」
紗雪は少しだけ顔を上げる。
「わたくしも、急いでおりますのかもしれませんわね」
その言葉が、老紳士の“急ぎ”と重なった。
静かな人が急ぐ時。
その空気は、もう店の中にまで届き始めている。




