第38話 白いものは、運ばれるたび弱る
壊れやすいものほど、大事に運ばれるとは限らない。
むしろ本当に急いでいる時、人は壊れやすいものを一番乱暴に扱う。
朝倉恒一は、料理の世界でもそれを知っていた。繊細な食材ほど、本来は丁寧に触れなければならない。だが締切に追われた厨房では、そういう正しさが簡単に押し流される。結果として、いちばん大切だったはずのものが、いちばん先に弱る。
境界の森の第二入口の向こうにある“白いもの”も、たぶん今、そういう扱われ方をしていた。
営業前の玻璃亭は、まだ夜の余韻を少しだけ残して静かだった。
黒板は出してある。
グラスも磨かれている。
パンの生地は休ませてある。
けれど厨房の奥に立つ恒一の頭の中には、今日の献立より先に、森の小屋の中にあった白い明滅がちらついていた。
「今日は行く前に、ちゃんと水飲んで」
澪が言った。
火乃坂澪は革袋の中身を確認しながら、こちらを見もせずにそう言った。
短槍、縄、チョーク、小型の布袋、折りたたみナイフ。相変わらず準備が無駄なく早い。料理の仕込みをしている時と違い、森へ入る前の彼女には一切の迷いがない。
「子ども扱いするなよ」
恒一が言う。
「今日はする」
「何で」
「顔」
「またそれか」
「今日のは特に」
「そんなに?」
「集中してるようで、前のめり」
「……」
「森に行く前の顔じゃなくて、答え取りに行く顔」
「……」
「そういう時ほど、水飲んで」
そこまで言われると、素直に従うしかなかった。
恒一はシンク横のコップに水を入れて一気に飲んだ。
冷たい水が喉を通ると、少しだけ体が現実へ戻る。
「……たしかに」
彼が小さく言う。
「何」
「ちょっと前のめりだったかも」
「うん」
「白いもののこと、急ぎすぎてた」
「うん」
「でも、今日も見る」
「見る」
澪は頷く。
「ただし」
「うん」
「“何かを見つける”より、“何が変わってるかを見る”」
「……」
「白いもの自体じゃなくて、その周り」
「たしかに」
「運び方が変わってるか、痕跡が増えてるか、そういうの」
「……わかった」
そこへ、小さく足音がした。
まだ営業前なのに、もう聞き慣れたその少し速い足音は、今ではこの店の時間の一部になりつつある。
「早いな」
恒一が言う。
「来ると思った」
澪が平然と返す。
扉が開く。
「ご、ごきげんよう」
東條院紗雪だった。
今日は薄い青磁色のワンピースに、白い短い羽織りを合わせている。朝の淡い光が似合うような色だった。けれど、その整った姿のわりに、呼吸は少しだけ速い。やはり彼女もまた、昨夜の話を引きずっているのだろう。
「いらっしゃいませ」
恒一が言う。
「ええ」
紗雪は頷く。
「本日は……少しだけ、早く来すぎた気もいたしますわ」
「たぶん気のせいじゃないです」
「そういうことを真正面から申してはなりませんの」
「すみません」
「……ですが」
紗雪は少しだけ目を逸らした。
「来たかったのは、本当ですわ」
その言葉のまっすぐさに、恒一は返事に少し困る。
紗雪は以前より、だいぶこういうふうに本音を落とすようになった。
全部ではない。
けれど、引き返さないところまでは言う。
それがこの店の空気のせいなのか、彼女自身の変化なのかは、まだわからない。
「……じゃあ」
恒一が言う。
「うん?」
「早く来た分だけ、少しだけ話します?」
「……」
紗雪は一瞬だけ躊躇ったあと、小さく頷いた。
「そのようになさい」
彼女が席につく。
澪はパンの仕上げに戻りながらも、耳だけはこっちへ向けていた。
「今日は、森に?」
紗雪が声を落として訊く。
「うん」
恒一も隠さず答える。
「確認だけ」
「白いものを?」
「そのものじゃなく、周りを」
「……そう」
紗雪は少しだけ安堵したようだった。
「近づくな、と祖父は申しましたものね」
「うん」
「ですから」
彼女はカップのないテーブルの上で指先を重ねる。
「その言葉を、軽く扱ってはいけませんわ」
「わかってる」
「本当に?」
「最近みんなそれ聞くな」
「必要だからですわ」
「……はい」
そこへ澪が口を挟んだ。
「今日の恒一は、ちゃんと聞いてる」
「火乃坂さんが保証なさるなら」
紗雪が言う。
「少しだけ安心いたしますわ」
「少しだけなんだ」
「全部は無理ですもの」
営業前の短いやり取りとしては、それで充分だった。
森へ入る。
石段を下りると、朝の冷たい空気が肌へ触れる。
境界の森はいつも通り静かだ。
だが、その静けさがもう“自然の静けさ”には感じられない。人の出入りと、運ばれる何かの気配が、今ではこの森の匂いの一部になってしまっている。
印をたどり、第二入口の切れ目へ向かう。
今日は前回より風が弱い。
そのぶん匂いが留まっている。
「……変わってる」
澪がしゃがみ込んだ。
第二入口の手前の土には、前回よりも細かな白い粒が散っていた。
粉だ。
白いものの欠片が砕けたのか、削れたのか、いずれにせよ運搬中にこぼれたらしい。
恒一もしゃがみ、近づきすぎない位置で目を凝らす。
「前より濁ってる」
彼が言う。
「うん」
澪が頷く。
「昨日見た時より、白さが弱い」
「湿気?」
「かも」
「でも……」
恒一は眉を寄せる。
「崩れてる感じもする」
「うん」
白い粒は、落ちた直後の結晶のきらめきではなかった。
表面がくすみ、ところどころ灰色に濁り、土に触れた部分は溶けかけたようにも見える。
「……運ばれるたび弱るのか」
恒一が呟く。
「たぶん」
澪が答える。
「向こう側では保ってるのに、こっち寄りになるほど崩れる感じ」
「……」
「だから急いでるのかも」
「急いで?」
「そう。向こうから出して、早くどこかへ持っていかないと保てない」
「……」
その理屈は、妙に腑に落ちた。
保冷材。
雑な搬送。
急ごしらえの中継地点。
そして、濁って崩れ始める白い欠片。
あれは、ただ掘り出して終わりの資源ではない。
生きているのか、それに近い性質を持つのか、とにかく“時間”に弱い何かだ。
だからこそ、連中は焦っている。
「じゃあ、向こう側に置いとくのも危ないってことか」
恒一が言う。
「あるいは」
澪が小さく言う。
「向こう側でしか保てないものを、無理やりこっちへ出してる」
「……」
「だからどんどん弱る」
切れ目の先、小屋のほうを見る。
今日は布が半分以上垂れ下がっていて、中は見えにくかった。
だが、手前の地面には昨日までなかった黒ずみが増えている。水ではない。何かが滲んだ跡みたいだ。
「……」
「どうした」
澪が訊く。
「匂い」
「うん」
「前より薄い」
「白いもの?」
「たぶん」
「……」
「白濁茸みたいな静かな白じゃなくて」
恒一は鼻をしかめる。
「もっと、干からびた冷たさになってる」
「弱ってる?」
「そうかも」
その時、切れ目の向こうから、かすかに物音がした。
木箱を動かすような音。
布が擦れる音。
低い男の声が、一瞬だけ重なる。
二人はすぐに身を低くした。
「……今日もいる」
澪が囁く。
「うん」
「しかも早い」
「搬出のタイミング変えてるのかも」
「……」
小屋の向こうに、人の影が揺れた。
二人。
前より少ない。
そのかわり動きが早い。
一人が何か細長い箱を抱え、もう一人が白い粒の散った場所を布で乱暴に拭っている。
痕跡を消しているつもりだろう。
だが、逆に焦りが見えた。
「……雑」
澪が言う。
「焦ってる」
恒一も頷く。
「やっぱ、向こうも余裕ないな」
「うん」
「白いものが弱るなら、なおさら」
その瞬間、箱を抱えた男が一瞬だけよろけた。
箱の隙間から、白い光が細く漏れる。
そして、ぱき、と乾いた音がした。
男が舌打ちする。
「くそ、まただ」
低い声が風に乗って届いた。
「だから固定しろって言っただろ」
「保たねえんだよ、こっちじゃ」
その一言で、恒一と澪は同時に顔を見合わせた。
――保たねえんだよ、こっちじゃ。
確定だった。
白いものは、こちら側では保ちにくい。
だから連中は急いで運び、雑になり、欠片を落とし、痕跡まで消しきれない。
そして、それでもなお運ばなければならない理由がある。
「戻る」
澪が即座に言った。
「うん」
恒一も頷く。
「もう十分」
二人は来た道を戻った。
今日は新しい答えが一つあった。
それで足りる。
石段を上がり、冷蔵庫の底を閉じる。
厨房へ戻った瞬間、恒一は思わず深く息を吐いた。
「……保たねえんだよ、こっちじゃ」
彼が繰り返す。
「うん」
澪が短く返す。
「つまり、境界を越えると弱る」
「たぶん」
「なのに運んでる」
「うん」
「じゃあ、向こう側で保持しつづけられない事情があるか」
「うん」
「こっち側へ持ってくる理由があるか」
「そのどっちか」
「……」
そこで、恒一は祖父の帳面を思い出した。
《白の気配強し》
《店側へ寄るな》
《風の夜は開けるな》
祖父は、これを知っていたのだ。
向こうでしか保ちにくい何かが、店側へ寄ると危ういことを。
「紗雪さんに」
恒一が言う。
「うん」
澪が答える。
「伝える」
「全部?」
「“こっちじゃ保たない”ってところまで」
「……」
「老紳士にも、どこかで届くようにしたい」
「そうだね」
営業が始まる。
今日は、いつも以上に店の火が現実の支えに感じられた。
白いものは、こっちでは保たない。
だったら、玻璃亭が料理店であり続けることもまた、“こちら側で保てるもの”のひとつなのかもしれない。
その夜、紗雪はいつものように来店した。
店へ入るなり、彼女は二人の顔を見て、すぐにわかった顔をした。
「……本日は」
「うん」
恒一が答える。
「何か、はっきりしましたのね」
「……」
「その沈黙は、当たりですわ」
最近、この人に対しては、沈黙そのものが答えになってしまう。
営業後に伝えた内容を、紗雪は静かに聞いていた。
そして、最後に小さく言った。
「では」
「うん」
「祖父が“近づくな”と仰ったのは」
「……」
「それ自体が危険だからというより」
「うん」
「こちら側では保てないものに、無理に触れるな、という意味もあるのかもしれませんわね」
その解釈は、あまりに自然だった。
白いものは、境界を越えるたび弱る。
ならば、弱りながらもなお作用する可能性があるなら、なおさら不用意に近づいてはいけない。
白いものの正体は、まだわからない。
けれど、それが“こちら側の論理”では扱いにくいものだということだけは、はっきりしてきた。




