表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『銀座の地下にある小さな店は、異世界で狩った食材でできている。祖父の遺したレストランを再建していたら、無口な狩り相棒と悪役令嬢みたいな常連お嬢様が今日も帰ってくれない』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

37/66

第37話 普通の夜に混ざる違和感

 店が“普通に見える”ということは、思っていたよりずっと繊細な均衡の上に成り立っている。


 朝倉恒一は、そのことを最近よく考えるようになった。


 黒板の文字。

 水のグラス。

 入口の灯り。

 帰りの白の湯気。

 角兎の煮込みの香り。

 カウンター越しに交わす短い会話。

 どれか一つでも力みすぎれば、店は急に“わざとらしく”なる。逆に、気を抜きすぎればただの古びた地下店に見える。


 玻璃亭が今かろうじて保っている“普通の良い店”の顔は、そういう細い線の上にあった。


 そして今は、その線の下にもう一つ別の線が走っている。


 境界の森。

 第二入口。

 白いもの。

 崩れかけた印。

 見張る者たち。

 老紳士の守り。

 祖父の帳面。


 その全部を知ったうえで、なお店を普通に開けるというのは、思った以上に神経を使うことだった。


 営業前の厨房で、恒一は黒板の前に立っていた。


 本日のおすすめ

 角兎の赤ワイン煮込み

 帰りの白

 季節の小皿あり


 最近、この並びもだいぶ馴染んできた。

 帰りの白はもう完全に“この店の皿”になりつつある。

 角兎の煮込みも、派手ではないが確かな土台だ。

 店としては、少しずつ立ち上がってきている。


「今日、悪くない顔」

 澪が言った。


 火乃坂澪は、カウンターの内側でパン籠を整えながら、こちらを見ている。

 最近の彼女は“顔”をよく言う。いや、前から見ていたのだろうが、今はそれを遠慮なく口に出すようになっただけかもしれない。


「珍しいな」

 恒一が振り返る。

「何が」

「採点が甘い」

「今日は少しだけ」

「少しだけか」

「でも昨日より全然マシ」

「基準低いな」

「最近が低すぎたから」


 その返しに、恒一は苦笑した。


 たしかに昨夜までは、頭の中に白いものの気配がこびりついていた。

 白濁茸の湯気を見ても、森の小屋のほうを思い出す。

 白い皿を仕上げても、木箱の中の明滅がちらつく。

 そういう状態は、料理人としてあまり良くない。


 けれど、店を通路にさせないと三人で決めたことで、少しだけ芯が戻った気もしていた。


「紗雪さん、来ると思う?」

 恒一が何気なく言うと、

「来る」

 と澪が即答した。

「早いな」

「今日はたぶん」

「顔?」

「それもある」

「他には」

「昨日の話のあとだし」

「……」

「来ないほうが不自然」


 そこまで言われると、たしかにそうかもしれなかった。


 紗雪はもう、ただの常連ではない。

 店を守る側へ、一歩どころではなくかなり踏み込んでいる。

 だからこそ、何もなかったような顔だけで数日空けるほうが、今の彼女には不自然だ。


 午後五時半。

 店を開ける。


 最初の一時間は、ひどく穏やかだった。


 常連の会社員風の男性が、角兎の煮込みを頼む。

 若い女性二人組が、帰りの白を分け合う。

 初見らしい客が、黒板の“季節の小皿あり”を気にして小さく相談し合う。


 どの客も、普通だ。

 いい意味で普通だ。

 この店を探りに来た気配は薄い。

 それだけで、今の玻璃亭には少し救われる。


 そして、その穏やかな空気を壊さないように、紗雪もやはり普通の顔でやって来た。


 少しだけ速い足音。

 でも、入ってくる時の呼吸は以前より整っている。


 扉が開く。


「ご、ごきげんよう」


 今日は淡い藍色のワンピースに、白い細いカーディガン。華やかすぎず、それでいて紗雪らしい品がある。

 彼女は入ってきた瞬間、まず店の空気をひと目で測るように見回した。

 それから小さく息を吐く。


「いらっしゃいませ」

 恒一が言う。

「ええ」

 紗雪は頷いた。

「本日は……ちゃんと普通ですわね」

「そこを確認するんですね」

「確認いたしますわ」

 紗雪は少しだけ顎を上げる。

「昨夜のあとですもの」

「そうですね」


 彼女は席へ着く。

 今日は黒板を見てから、少しだけ表情をやわらげた。


「帰りの白を」

「かしこまりました」

「それと」

 紗雪は少し声を落とす。

「今夜は、なるべく静かにいたしますわ」

「……」

「何ですの」

「いや」

 恒一は笑いそうになる。

「そこもわざわざ宣言するんだなって」

「必要ですもの」

「そういうことにしておきます」

「そのようになさい」


 そのやり取り自体が、もうかなり自然だった。


 帰りの白を出す。


 紗雪は一口飲んでから、小さく息を吐く。

 その表情のほどけ方が、この店に来始めた頃よりずっとやわらかい。


「……本日は」

 彼女が言う。

「はい」

「少しだけ、安心いたしましたわ」

「何に」

「店が、ちゃんと店の顔をしていることに」

「……」

「昨日のようなお話のあとですと」

 紗雪はカップの縁へ指を添える。

「ここまで何もかも変わって見えてしまいそうでしたの」

「うん」

「けれど、そうではないのですね」

「……そうだといい」

「そうですわ」

 紗雪は静かに言った。

「だって、帰りの白はちゃんと帰りの白でしたもの」


 その言い方が、ひどくこの店らしかった。


 店は店であり続ける。

 少なくとも、そうあろうとする。

 そのことを、一番先に皿から受け取るのは、やはりこの人なのかもしれない。


 その時だった。


 カウンター席の端で角兎の煮込みを食べていた常連の中年男性が、何気ない口調で言った。


「最近、このへん変な人増えたね」


 店の空気が、ほんの少しだけ止まる。


 恒一はすぐに表情を変えず、ワインを注ぐ手も止めなかった。

「変な人?」

「うん」

 男性客は煮込みのソースをパンで拭いながら言う。

「ほら、このビルの前とか、向かいの電柱のあたりとかさ」

「……」

「営業してる店の前で、入るでもなく、スマホ見てるでもなく、ただ突っ立ってる人」

「……」

「前はあんまり見なかった気がするんだけど」


 それは、秘密を知らない人間から見た違和感だった。


 再開発。

 境界。

 見張り。

 そんなものを知らなくても、“何か普通じゃない”ことだけは感じ取れる。

 それが、かえって厄介だった。


「銀座も色々ありますからね」

 恒一は店主の顔で答える。

「物騒なのは嫌だなあ」

 男性客は苦笑する。

「せっかく落ち着ける店見つけたのに」

「……」

「まあ、気のせいならいいんだけど」


 その“落ち着ける店見つけたのに”が、妙に胸へ残った。


 紗雪もその会話を聞いて、静かにカップを持ったまま動かなかった。

 そして、男性客が会計を済ませて帰ったあと、小さく言う。


「……見えてきておりますのね」

「うん」

 恒一が答える。

「普通の人にも」

「そうですわね」

「嫌だな」

 澪が厨房の奥から言う。

「店の外の違和感が、店の空気に混ざり始めるの」


 それが今夜の本質だった。


 今までは、森のことも見張りのことも、どこか“店の外側”の問題だった。

 だが、普通の客が「最近この辺変だね」と言い始めた時点で、もう完全な外側ではない。

 玻璃亭の普通を守る難しさが、一段上がったのだ。


 閉店後、最後の客を見送ったあとで、三人はその話をした。


「……常連さんにまで言われるの、ちょっとまずいね」

 澪が言う。

「うん」

 恒一が頷く。

「店の評判って、味だけじゃなくて“安心して入れるか”にも引っ張られるから」

「ええ」

 紗雪も静かに言った。

「地下のお店は、とくに“入りづらい理由”が一つでも増えますと、それだけで遠のかれてしまいますもの」

「……」

「何ですの」

「いや」

 恒一が苦笑する。

「ほんと、こういう時の紗雪さんは店の人みたいだなって」

「客ですわ」

「便利な」

「本日はそれを禁じますわ」

「珍しいな」

「たまには禁じますの」


 少しだけ笑いが落ちる。

 だが、すぐに空気は戻る。


「どうする」

 澪が真顔に戻って言う。

「見張り?」

「うん」

「老紳士に言う?」

「言うのは言う」

 恒一が答える。

「でも、それだけじゃ足りない気がする」

「……」

「店としての見せ方を、もう一段強くしたほうがいい」

「普通の良店の顔?」

 紗雪が訊く。

「うん。今より少しだけ」

「……」

「“ここはちゃんと人が出入りする、必要とされてる店だ”って見せる」

「……それ」

 澪が少しだけ目を細める。

「先に手打つってこと?」

「そう」

「受け身じゃなく?」

「うん」

「……」

「何」

「いや」

 澪は小さく息を吐いた。

「やっと、店主っぽいこと言ったなって」

「今まで何だったんだ」

「最近ちょっと、巻き込まれる側の顔が強かった」

「……」

「でも今のは違う」

「……そうかもな」


 紗雪はそのやり取りを静かに聞いていたが、やがて小さく言った。


「でしたら」

「うん」

「わたくしも、外の目線でお手伝いできますわ」

「どういうふうに?」

「どう見えれば、自然に“良い店”へ見えるか」

「……」

「あと」

 紗雪は少しだけ視線を逸らしてから言う。

「店へ来ること自体が、誰かにとって特別ではなくなるように」

「……」

「何ですの」

「いや」

 恒一が答える。

「それ、かなり大事だなって」

「当然ですわ」

「そうですね」

「ええ」


 その夜の結論は、まだ行動ではなかった。

 けれど、受け身ではなく、店として一手打つ必要がある、という感覚だけは三人の中で共有された。


 普通の夜に混ざり始めた違和感。

 それを放置しないこと。

 それでも、店の火は消さないこと。


 その二つを両立する段階へ、玻璃亭は少しずつ進み始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ