第37話 普通の夜に混ざる違和感
店が“普通に見える”ということは、思っていたよりずっと繊細な均衡の上に成り立っている。
朝倉恒一は、そのことを最近よく考えるようになった。
黒板の文字。
水のグラス。
入口の灯り。
帰りの白の湯気。
角兎の煮込みの香り。
カウンター越しに交わす短い会話。
どれか一つでも力みすぎれば、店は急に“わざとらしく”なる。逆に、気を抜きすぎればただの古びた地下店に見える。
玻璃亭が今かろうじて保っている“普通の良い店”の顔は、そういう細い線の上にあった。
そして今は、その線の下にもう一つ別の線が走っている。
境界の森。
第二入口。
白いもの。
崩れかけた印。
見張る者たち。
老紳士の守り。
祖父の帳面。
その全部を知ったうえで、なお店を普通に開けるというのは、思った以上に神経を使うことだった。
営業前の厨房で、恒一は黒板の前に立っていた。
本日のおすすめ
角兎の赤ワイン煮込み
帰りの白
季節の小皿あり
最近、この並びもだいぶ馴染んできた。
帰りの白はもう完全に“この店の皿”になりつつある。
角兎の煮込みも、派手ではないが確かな土台だ。
店としては、少しずつ立ち上がってきている。
「今日、悪くない顔」
澪が言った。
火乃坂澪は、カウンターの内側でパン籠を整えながら、こちらを見ている。
最近の彼女は“顔”をよく言う。いや、前から見ていたのだろうが、今はそれを遠慮なく口に出すようになっただけかもしれない。
「珍しいな」
恒一が振り返る。
「何が」
「採点が甘い」
「今日は少しだけ」
「少しだけか」
「でも昨日より全然マシ」
「基準低いな」
「最近が低すぎたから」
その返しに、恒一は苦笑した。
たしかに昨夜までは、頭の中に白いものの気配がこびりついていた。
白濁茸の湯気を見ても、森の小屋のほうを思い出す。
白い皿を仕上げても、木箱の中の明滅がちらつく。
そういう状態は、料理人としてあまり良くない。
けれど、店を通路にさせないと三人で決めたことで、少しだけ芯が戻った気もしていた。
「紗雪さん、来ると思う?」
恒一が何気なく言うと、
「来る」
と澪が即答した。
「早いな」
「今日はたぶん」
「顔?」
「それもある」
「他には」
「昨日の話のあとだし」
「……」
「来ないほうが不自然」
そこまで言われると、たしかにそうかもしれなかった。
紗雪はもう、ただの常連ではない。
店を守る側へ、一歩どころではなくかなり踏み込んでいる。
だからこそ、何もなかったような顔だけで数日空けるほうが、今の彼女には不自然だ。
午後五時半。
店を開ける。
最初の一時間は、ひどく穏やかだった。
常連の会社員風の男性が、角兎の煮込みを頼む。
若い女性二人組が、帰りの白を分け合う。
初見らしい客が、黒板の“季節の小皿あり”を気にして小さく相談し合う。
どの客も、普通だ。
いい意味で普通だ。
この店を探りに来た気配は薄い。
それだけで、今の玻璃亭には少し救われる。
そして、その穏やかな空気を壊さないように、紗雪もやはり普通の顔でやって来た。
少しだけ速い足音。
でも、入ってくる時の呼吸は以前より整っている。
扉が開く。
「ご、ごきげんよう」
今日は淡い藍色のワンピースに、白い細いカーディガン。華やかすぎず、それでいて紗雪らしい品がある。
彼女は入ってきた瞬間、まず店の空気をひと目で測るように見回した。
それから小さく息を吐く。
「いらっしゃいませ」
恒一が言う。
「ええ」
紗雪は頷いた。
「本日は……ちゃんと普通ですわね」
「そこを確認するんですね」
「確認いたしますわ」
紗雪は少しだけ顎を上げる。
「昨夜のあとですもの」
「そうですね」
彼女は席へ着く。
今日は黒板を見てから、少しだけ表情をやわらげた。
「帰りの白を」
「かしこまりました」
「それと」
紗雪は少し声を落とす。
「今夜は、なるべく静かにいたしますわ」
「……」
「何ですの」
「いや」
恒一は笑いそうになる。
「そこもわざわざ宣言するんだなって」
「必要ですもの」
「そういうことにしておきます」
「そのようになさい」
そのやり取り自体が、もうかなり自然だった。
帰りの白を出す。
紗雪は一口飲んでから、小さく息を吐く。
その表情のほどけ方が、この店に来始めた頃よりずっとやわらかい。
「……本日は」
彼女が言う。
「はい」
「少しだけ、安心いたしましたわ」
「何に」
「店が、ちゃんと店の顔をしていることに」
「……」
「昨日のようなお話のあとですと」
紗雪はカップの縁へ指を添える。
「ここまで何もかも変わって見えてしまいそうでしたの」
「うん」
「けれど、そうではないのですね」
「……そうだといい」
「そうですわ」
紗雪は静かに言った。
「だって、帰りの白はちゃんと帰りの白でしたもの」
その言い方が、ひどくこの店らしかった。
店は店であり続ける。
少なくとも、そうあろうとする。
そのことを、一番先に皿から受け取るのは、やはりこの人なのかもしれない。
その時だった。
カウンター席の端で角兎の煮込みを食べていた常連の中年男性が、何気ない口調で言った。
「最近、このへん変な人増えたね」
店の空気が、ほんの少しだけ止まる。
恒一はすぐに表情を変えず、ワインを注ぐ手も止めなかった。
「変な人?」
「うん」
男性客は煮込みのソースをパンで拭いながら言う。
「ほら、このビルの前とか、向かいの電柱のあたりとかさ」
「……」
「営業してる店の前で、入るでもなく、スマホ見てるでもなく、ただ突っ立ってる人」
「……」
「前はあんまり見なかった気がするんだけど」
それは、秘密を知らない人間から見た違和感だった。
再開発。
境界。
見張り。
そんなものを知らなくても、“何か普通じゃない”ことだけは感じ取れる。
それが、かえって厄介だった。
「銀座も色々ありますからね」
恒一は店主の顔で答える。
「物騒なのは嫌だなあ」
男性客は苦笑する。
「せっかく落ち着ける店見つけたのに」
「……」
「まあ、気のせいならいいんだけど」
その“落ち着ける店見つけたのに”が、妙に胸へ残った。
紗雪もその会話を聞いて、静かにカップを持ったまま動かなかった。
そして、男性客が会計を済ませて帰ったあと、小さく言う。
「……見えてきておりますのね」
「うん」
恒一が答える。
「普通の人にも」
「そうですわね」
「嫌だな」
澪が厨房の奥から言う。
「店の外の違和感が、店の空気に混ざり始めるの」
それが今夜の本質だった。
今までは、森のことも見張りのことも、どこか“店の外側”の問題だった。
だが、普通の客が「最近この辺変だね」と言い始めた時点で、もう完全な外側ではない。
玻璃亭の普通を守る難しさが、一段上がったのだ。
閉店後、最後の客を見送ったあとで、三人はその話をした。
「……常連さんにまで言われるの、ちょっとまずいね」
澪が言う。
「うん」
恒一が頷く。
「店の評判って、味だけじゃなくて“安心して入れるか”にも引っ張られるから」
「ええ」
紗雪も静かに言った。
「地下のお店は、とくに“入りづらい理由”が一つでも増えますと、それだけで遠のかれてしまいますもの」
「……」
「何ですの」
「いや」
恒一が苦笑する。
「ほんと、こういう時の紗雪さんは店の人みたいだなって」
「客ですわ」
「便利な」
「本日はそれを禁じますわ」
「珍しいな」
「たまには禁じますの」
少しだけ笑いが落ちる。
だが、すぐに空気は戻る。
「どうする」
澪が真顔に戻って言う。
「見張り?」
「うん」
「老紳士に言う?」
「言うのは言う」
恒一が答える。
「でも、それだけじゃ足りない気がする」
「……」
「店としての見せ方を、もう一段強くしたほうがいい」
「普通の良店の顔?」
紗雪が訊く。
「うん。今より少しだけ」
「……」
「“ここはちゃんと人が出入りする、必要とされてる店だ”って見せる」
「……それ」
澪が少しだけ目を細める。
「先に手打つってこと?」
「そう」
「受け身じゃなく?」
「うん」
「……」
「何」
「いや」
澪は小さく息を吐いた。
「やっと、店主っぽいこと言ったなって」
「今まで何だったんだ」
「最近ちょっと、巻き込まれる側の顔が強かった」
「……」
「でも今のは違う」
「……そうかもな」
紗雪はそのやり取りを静かに聞いていたが、やがて小さく言った。
「でしたら」
「うん」
「わたくしも、外の目線でお手伝いできますわ」
「どういうふうに?」
「どう見えれば、自然に“良い店”へ見えるか」
「……」
「あと」
紗雪は少しだけ視線を逸らしてから言う。
「店へ来ること自体が、誰かにとって特別ではなくなるように」
「……」
「何ですの」
「いや」
恒一が答える。
「それ、かなり大事だなって」
「当然ですわ」
「そうですね」
「ええ」
その夜の結論は、まだ行動ではなかった。
けれど、受け身ではなく、店として一手打つ必要がある、という感覚だけは三人の中で共有された。
普通の夜に混ざり始めた違和感。
それを放置しないこと。
それでも、店の火は消さないこと。
その二つを両立する段階へ、玻璃亭は少しずつ進み始めていた。




