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『銀座の地下にある小さな店は、異世界で狩った食材でできている。祖父の遺したレストランを再建していたら、無口な狩り相棒と悪役令嬢みたいな常連お嬢様が今日も帰ってくれない』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第34話 祖父の残した印

形のない不安というものは、時に具体的な証拠よりも人を疲れさせる。


 何かが動いている。

 誰かが見ている。

 店の下にある境界の森が、こちらの世界へ繋がる通路として狙われているかもしれない。

 そうした感覚は、すでに十分すぎるほど現実味を持っていた。


 けれど、それでもなお、朝倉恒一の中にはひとつの引っかかりが残っていた。


 祖父は、どこまで知っていたのか。


 老紳士の言葉。

 紗雪が家で拾ってくる断片。

 森の中の別入口と、白く光る“何か”を運ぶ者たち。

 それらは全部、祖父の店だった玻璃亭の上に重なっている。


 だとすれば、祖父はただ料理を作っていただけではない。

 少なくとも、今の恒一にはそうとしか思えなかった。


 営業前の厨房で、恒一は珍しく店の棚をひっくり返していた。


 古い帳場の引き出し。

 棚の奥に押し込まれた箱。

 布で包まれたままの小さな木箱。

 レシピ帳や伝票の束のさらに奥。


「……何してるの」

 澪が呆れたように言った。


 火乃坂澪は、パンの仕込みをしながらも、今日は完全にこっちの様子を気にしている。

 小麦粉の入ったボウルを前にしているのに、視線だけは恒一の手元を追っていた。


「探してる」

 恒一が言う。

「見ればわかる」

「じいちゃんの、レシピ帳じゃないほう」

「……」

「帳場の記録とか、店のことを別で書いてたもの、ある気がする」

「気がするって」

「あると思うんだよ」

「根拠は」

「ない」

「雑」

「でも、じいちゃんがレシピ帳だけで全部済ませてたとは思えない」

「……」


 澪はそこで手を止めた。

「森のこと?」

「うん」

「境界のこと?」

「たぶん」

「老紳士のことも?」

「たぶん」


 全部たぶんだ。

 けれど、こういう時の勘は、もう無視しないほうがいいと最近ようやく学んだ。


 祖父は寡黙だった。

 料理人としてのことも、店のことも、あまり多くを語る人ではなかった。

 だが語らない人間ほど、何かを書き残す時には別の場所へ分けて残すことがある。客に見せる帳面、店で使う帳面、自分だけが読む帳面。そういうふうに。


「……あった」

 恒一が小さく言った。


 棚の一番奥。

 古い布巾の束の下に、薄い木箱が挟まっていた。

 表面には何の文字もない。

 だが、開けると中に小さな帳面が一冊、きれいに収まっていた。


 料理名も献立も書かれていない。

 表紙の隅に、祖父の癖のある字でただ一文字だけ。


 印


「……」

 澪が無言で近づく。

「見ていい?」

「一緒に見よう」

「うん」


 帳面を開く。


 そこに並んでいたのは、料理とはまるで関係のない記録だった。


 日付。

 短い場所のメモ。

 簡単な印の形。

 そして、ほんの一言ずつの備考。


 《北の切れ目、印ひとつ薄い》

 《朝、白の気配強し》

 《東側、足跡ふたつ。店側へ寄るな》

 《老紳士来店後、通る》

 《風の夜は開けるな》

 《紗雪、白い汁を全部飲む》


「……」

「……最後のだけ、急に店のじいちゃんだな」

 澪がぽつりと言った。


 その一言で、張りつめていた空気が少しだけほどけた。

 けれど、帳面の重みそのものは変わらない。


「これ」

 恒一が低く言う。

「完全に、森の記録だ」

「うん」

「しかも“見回り”みたいな」

「うん」

「じいちゃん……」

 恒一は帳面の頁をめくる。

「本当に、やってたんだな」

「店主だけじゃなくて」

「境界の確認も」

「そうだね」


 帳面には、森で実際に見た印に似た記号がいくつも並んでいた。

 木の幹の傷。石の並べ方。菌糸の切れ目。

 自分たちが“森の中の目印”だと思っていたものが、祖父の手によっても記録されていたのだとわかる。


 つまり祖父は、知っていた。

 あの森がただの狩場ではないことを。

 入口が一つではないことを。

 印が薄れれば危ういことを。

 そして、店側へ寄せてはいけない“何か”があることを。


「……」

 恒一は、喉の奥が少し熱くなるのを感じた。


 尊敬とか、驚きとか、そういう単純なものではない。

 むしろ、ようやく同じ地平の端が見えたような感覚だった。


 祖父もまた、料理を作りながらこの店の外縁を見ていた。

 鍋の火を守りながら、境界の印も見ていた。

 店主とは、そういうものだったのかもしれない。


「何か書いてある?」

 澪がページを覗き込みながら訊く。

「うん」

 恒一は指で一文をなぞる。

「《店主は、店の火だけ見ていては足りぬ》」

「……」

「《火の外も見て、ようやく火が守れる》」

「……じいちゃん、今それ言う?」

「遅いよな」

「かなり」


 二人とも少しだけ笑った。

 けれど、笑ったあとで逆にその言葉の重みが増す。


 火の外も見て、ようやく火が守れる。


 それはまさに今の自分たちの状況そのものだった。


 そこへ、またあの足音がした。


 少しだけ速く、少しだけ緊張していて、でもこの店へ来ること自体にはもう迷いがない足音。


「来た」

 澪が言う。

「うん」


 扉が開く。


「ご、ごきげんよう」


 東條院紗雪だった。


 今日は白に近い薄い灰色のワンピース。少し控えめな色合いなのに、彼女が着ると逆に存在感が際立つ。

 けれど今の彼女は、その整った姿以上に、こちらの空気の違いにすぐ気づいた顔をしていた。


「いらっしゃいませ」

 恒一が言う。

「ええ」

 紗雪は一歩入って、すぐに目を細める。

「……何か、見つけましたのね」

「そこもわかるんですか」

「最近は」

 紗雪は少しだけ顎を上げる。

「そのくらいなら」

「便利な」

「本日は、それは聞き飽きましたわ」


 その返しに、少しだけ緊張が緩む。


「今日は、見てほしいものがあります」

 恒一が言うと、紗雪の表情がすぐに変わった。

「見てほしいもの」

「うん」

「……わたくしに?」

「紗雪さんにも」

「……」


 彼女は少しだけ迷うように睫毛を伏せたが、すぐに頷いた。

「でしたら」

「うん」

「見ますわ」


 席へ案内する前に、恒一はその木箱ごと帳面を持ってきた。

 厨房の中ではなく、客席側の端のテーブルへ置く。

 その配置が、今の三人らしい。完全な秘密ではない。だが、誰にも見せるわけでもない。その中間。


 紗雪は帳面の表紙を見て、小さく息を呑んだ。

「……祖父様の字」

「わかる?」

「わかりますわ」

 彼女は静かに答える。

「この“印”という字の止め方、昔から同じですもの」


 頁を開く。

 紗雪は最初の数頁を黙って見ていた。

 そして、ある一文のところでぴたりと止まる。


「《老紳士来店後、通る》」

 彼女が小さく読む。

「……」

「祖父様」

 紗雪は顔を上げた。

「知っていたのですね」

「うん」

 恒一が答える。

「たぶん、かなり前から」

「……」

「森の印も、足跡も、境界も」

「……そう」


 紗雪は帳面へ視線を落としたまま、少しだけ呼吸を整えた。


「妙ですわね」

 彼女が言う。

「何が」

「祖父様が、こういう形で残しているのは」

「普段は書かない?」

「ええ。必要なことは頭に入れておく人ですもの」

「……」

「ですが」

 紗雪は頁を指先で撫でる。

「これは、残す必要があると思ったのでしょう」

「……うん」

「つまり」

 彼女は静かに続ける。

「いずれ誰かが、ここへ辿り着くと考えていた」

「……」


 その言葉に、恒一の胸が少し強く鳴った。


 いずれ誰かが辿り着く。

 それはつまり、自分のことだろうか。

 祖父は、全部を語らないまま、それでも“必要な時が来たら届くように”この帳面を置いていたのかもしれない。


「《紗雪、白い汁を全部飲む》」

 澪がまた例の一文を見つけて、ぽつりと言う。

「ですから」

 紗雪の頬がすぐに赤くなる。

「何度もそこを拾わないでくださいまし」

「でもこれ、重要じゃない?」

「重要ではありませんわ!」

「私はちょっと好き」

「火乃坂さん!」

「だって、急に祖父さんが店のおじいちゃんになる」

「……」

 紗雪は一瞬言葉を失って、それからほんの少しだけ笑った。

「……たしかに」

「認めた」

「認めておりません」

「今認めた」

「認めておりませんわ」


 そのやり取りがあるだけで、この帳面の重さが少しだけ人の手へ戻ってくる。


 祖父は境界を見ていた。

 だが同時に、店の中の記憶も見ていた。

 紗雪が白いスープを全部飲んだことまで、わざわざ書き残すくらいに。


 その事実が、妙に救いだった。

 祖父は“役目”のためだけに店をやっていたわけではない。

 ちゃんと、ここへ来る人の小さな変化も大事にしていたのだ。


「……ねえ」

 澪が帳面を見たまま言う。

「何」

 恒一が返す。

「これ、祖父さんの仕事って」

「うん」

「森の見回りだけじゃなくて、店の中の変化も含めてなんじゃない?」

「……」

「境界だけ見てるなら、紗雪さんが白いスープ飲みきったことまで書かない」

「……」

「この店に人がどう戻るか、何が繋がるか、そこまで見てた感じがする」

「……そうだな」


 店の火だけ見ていては足りぬ。

 火の外も見て、ようやく火が守れる。


 それは森だけの意味ではなく、人もまた含んでいたのだろう。


 紗雪が帳面を閉じる。

「祖父様は」

 彼女が静かに言う。

「きっと、“店であること”をやめたくなかったのですわ」

「……」

「境界を見ていたとしても」

「うん」

「ただの見張り場にするつもりはなかった」

「……」

「だから、こうして料理の記憶も、人の記憶も、同じ帳面の近くへ置いていたのでしょう」


 その考え方は、ひどく祖父らしい気がした。


 森の印の帳面。

 レシピ帳。

 古い伝票。

 全部別々に見えて、実は同じ店主の手の中にあった。


 料理店であることと、境界を見ていること。

 その両方を、祖父は矛盾として扱わなかったのだろう。


 営業が始まる時間が近づく。


 帳面は一度木箱へ戻した。

 隠すためではない。

 今はまだ、それを厨房の奥へしまうのが自然だからだ。


「……これ」

 恒一が言う。

「うん」

「たぶん、すごく大事だ」

「ええ」

 紗雪が頷く。

「かなり」

 澪も短く言う。

「でも、今すぐ全部わかるわけじゃない」

「うん」

「だから、急がない」

「……」

「最近、ちゃんとそう言えるようになったね」

 澪が少しだけ笑った。

「誰のおかげだ」

「私」

「そうかもな」


 扉の鍵を開ける。

 黒板を出す。

 店の灯りを少しだけ整える。


 祖父の残した印は、もう見つかった。

 次は、自分たちがその意味をどう受け継ぐかだ。

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