第35話 回収されるのは何か
人が何かを隠して運ぶ時、痕跡まで完璧に消せることはほとんどない。
朝倉恒一は、それを料理の世界でも知っていた。
たとえば、仕込みを雑に済ませた肉は、どれだけ綺麗にソースをかけてもどこかに粗が残る。
火を入れすぎた茸は、塩加減を整えても香りの死に方でわかる。
人は“仕上がり”を取り繕うことはできても、そこへ至るまでの痕跡までは消し切れない。
だからこそ、境界の森の向こうにある小屋も、何かを運んでいる事実までは隠せなかった。
白く発光する結晶のようなもの。
保冷材。
急ごしらえの中継地点。
そして、急いでいる気配。
それが何なのかは、まだわからない。
けれど、ただの珍しい食材や高価な資源というだけでは済まないような嫌な感じだけは、もう十分すぎるほどわかっていた。
営業前の厨房で、恒一は昨夜の帳面をもう一度開いていた。
祖父が残した“印”の帳面。
森の記録。
境界の記録。
そして、ところどころに混ざる店の中の小さな記録。
《東側、足跡ふたつ。店側へ寄るな》
《風の夜は開けるな》
《老紳士来店後、通る》
《白の気配強し》
「その“白”」
澪が言った。
火乃坂澪は、シンクで白濁茸を洗いながら、帳面を覗き込んでいる。
「うん」
恒一が応じる。
「気になってる?」
「かなり」
「昨日見たやつと関係ありそう」
「うん」
「“白の気配強し”って、あれのことかも」
「……かもな」
祖父の帳面は料理用のメモほど直接的ではない。
わざとぼかしているのか、本人にしかわからない言い回しなのか、その両方なのか。
だが今の自分たちには、昨日小屋で見た白い明滅が、あまりにぴったり重なって見える。
「今日は行く?」
澪が訊く。
「行く」
恒一は即答した。
「でも、見るのは痕跡だけ」
澪がすぐに釘を刺す。
「わかってる」
「本当に?」
「本当に」
「じゃあ、荷物に触らない」
「……」
「返事」
「触らない」
「近づきすぎない」
「うん」
「匂いだけで満足しない」
「そこは無理がある」
「無理でも守る」
「……はい」
最近、この手のやり取りが少し増えた。
だが必要だ。
あの森は、もう単なる仕入れ先ではない。
料理人の好奇心だけで踏み込んでいい場所ではない。
だから線がいる。
澪が引く線と、自分がそれを守る意志の両方が。
開店前の短い時間に、二人は森へ入った。
石段を下りる。
湿った空気が肌へ触れる。
昼でも薄暗い森の匂いは、今日もこちら側の現実と静かに断絶していた。
印をたどる。
第二入口の切れ目へ向かう。
その手前までは、もうほとんど自分たちの線になっている。
「……増えてる」
澪がしゃがみ込む。
土の上には、昨夜にはなかった細かな削れ跡があった。
箱か、木の板か、何か角のあるものを引きずったような痕。
足跡も新しい。
「今朝も動いてる」
恒一が言う。
「うん」
澪が頷く。
「しかも、往復」
「搬入じゃなくて搬出?」
「たぶん」
第二入口の先へ、慎重に数歩だけ踏み込む。
昨日見た小屋は、今日は半分だけ布が垂らされていた。中を直接は見えにくくしているらしい。
だが完全には隠しきれていない。
床の端に、何か白い粉のようなものが散っている。
結晶が欠けたのか、削れたのか。
近づかなくても、そこだけ土の色がわずかに違う。
「……あれ」
恒一が小さく言う。
「うん」
「粉?」
「っぽい」
「まじで鉱石系?」
「わかんない」
さらに目を凝らす。
小屋の脇に、捨てられたように置かれた布切れがある。
その上に、白い染み。
そして、少し離れた場所に、こちら側の世界の保冷材がまた一つ転がっていた。前回と同じ型だ。
「保冷材、またある」
恒一が言う。
「うん」
「ってことは、運ぶときに温度管理が必要」
「たぶん」
「食材じゃないのに?」
「そこが気持ち悪い」
その時だった。
風が吹き、布の端が少しだけめくれた。
小屋の中が、一瞬だけ見えた。
白い結晶が箱の中にある。
だがそれだけではない。
箱の底には黒い泥のようなものが敷かれ、その中に細い菌糸みたいなものが這っていた。白い光はその菌糸に沿って脈を打つように流れている。
「……」
恒一は息を止める。
「見た?」
澪が低く聞く。
「見た」
「……」
「鉱石じゃない」
「うん」
「生きてる寄りだ」
「うん」
白いものは、ただの石ではない。
菌なのか、鉱物なのか、その中間なのかはわからない。
だが少なくとも、“採って終わりの素材”ではない。
保たせる必要がある。しかも雑に扱えば崩れる。そんな感じがあった。
その直後、小屋の奥から、かすかな音がした。
きし、と湿った何かが擦れる音。
二人とも、同時に身を固くする。
「帰る」
澪が即座に言った。
「うん」
恒一も迷わない。
今日は十分だ。
“白いもの”が単なる鉱石ではなく、何か生きた性質を持つ可能性が見えた。
それだけでも大きい。
来た道を戻る。
森の匂いが、今日はいつも以上に不気味だった。
白濁茸のやわらかな香りすら、その白い何かの冷たさを思い出させる。
石段を上がり、冷蔵庫の底を閉じる。
厨房の空気に戻った瞬間、恒一はようやく呼吸を深くした。
「……あれ、何なんだ」
彼が言う。
「わかんない」
澪は首を振る。
「でも、ただの資源じゃない」
「うん」
「たぶん“保って運ぶ必要があるもの”」
「しかも、菌糸みたいなのがあった」
「見えた」
「やっぱり」
「うん」
恒一は祖父の帳面へもう一度目を落とした。
《白の気配強し》
《店側へ寄るな》
《風の夜は開けるな》
今見ると、意味が違って見えてくる。
祖父は単に“珍しい何か”を警戒していたのではない。
もしかすると、境界の向こうにあるその“白いもの”がこちら側へ近づきすぎること自体を、危険として見ていたのではないか。
「……ねえ」
澪が言う。
「何」
「これ、“回収されてるもの”っていうより」
「うん」
「“こっちに持ち込まれないように、途中で止めるべきもの”なんじゃない?」
「……」
「今の運んでる連中は、逆のことしてる」
「……あり得るな」
あの白いものがこちらに来て何が起きるのかは、まだわからない。
人体に有害なのか、境界そのものへ作用するのか、あるいはもっと別の何かなのか。
だが、老紳士と祖父の態度を見る限り、“通路にしてはいけない”という警戒は本物だ。
「紗雪さんに」
恒一が言う。
「今日、話す?」
「どこまで?」
澪が訊く。
「白いものが、生き物寄りっぽいことまでは」
「……」
「言う」
「いいの?」
「家の中の気配、あの人のほうが拾える」
「それはそう」
「で、老紳士の反応も見たい」
「……うん」
営業が始まる。
だが、その日は珍しく、話が先に動いた。
開店してすぐ、紗雪が来たのだ。
いつもの少し速い足音。
だが今日は、そのリズムに迷いが少なかった。何かを決めてきた足音だ。
扉が開く。
「ご、ごきげんよう」
今日は淡い紺のワンピース。いつもより少しきりっとした印象の装いだった。
だが顔は強張っていない。むしろ、静かに覚悟を決めた顔だ。
「いらっしゃいませ」
恒一が言う。
「ええ」
紗雪は頷き、すぐに口を開いた。
「本日は、祖父からひとつだけ伺いましたの」
「……」
「営業前ですけれど、短く伝えたいですわ」
「……うん」
恒一は思わず真顔になる。
「何を」
「“白いものには近づくな”と」
店の空気が一気に変わった。
澪も、カウンターの奥で完全に動きを止める。
「祖父が?」
恒一が訊く。
「ええ」
紗雪は頷く。
「それだけでしたの。何のことか、わたくしがわかっている前提で」
「……」
「たぶん、気づいているのでしょう」
彼女は静かに言った。
「わたくしが、家の中の気配を拾っていることを」
「……それ、危なくないか」
「危なくないとは申しません」
紗雪は正直に答える。
「ですが」
「……」
「今は、それを気にしている場合ではありませんわ」
その返し方が、最近の紗雪らしかった。
怖くないわけではない。
けれど、怖いから引くとも限らない。
「……見たんだな」
澪が低く言う。
「見た」
恒一も答える。
「白いの」
「うん」
「生きてる寄りだった」
「……」
紗雪の指先が少しだけ震える。
「では」
「うん」
「祖父の言葉は、それですわね」
「たぶん」
そこで、恒一ははっきり理解した。
回収されているのは、ただ珍しいものではない。
ただ高く売れるものでもない。
祖父が“店側へ寄るな”と書き、老紳士が“通路にするな”と止め、紗雪へまで“近づくな”と伝える程度には、はっきり危ういものだ。
しかも、それが今、境界を越えて運ばれようとしている。
「……」
しばらく誰も喋らなかった。
最初に口を開いたのは、やはり澪だった。
「これ、次の段階入ったね」
「うん」
恒一が答える。
「何が、ですの」
紗雪が訊く。
「森の資源をこっそり持ち出してる、って話じゃなくなった」
「……」
「もっと、止めなきゃいけない話」
「……そうですわね」
紗雪は小さく頷く。
その横顔を見ながら、恒一は思った。
この店は、ますます“ただの料理店”ではいられなくなっている。
けれど同時に、だからこそ、料理店であり続けなければならない。
帰る味を増やすこと。
火を絶やさないこと。
普通の良い店として客を迎えること。
それが今は、境界の向こうに対する一番まともな抵抗なのかもしれない。




